「登弥神社 (奈良市)」の版間の差分

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『新撰姓氏録』左京神別に[[邇芸速日命|速日命]]の六世孫、[[伊香色雄|伊香我色乎命]]の後裔であるという「登美連」が、'''河内国'''神別に[[邇芸速日命|饒速日命]]の十二世孫、小前宿祢の後裔であるという「鳥見連」が登載されている。
 
『新撰姓氏録』左京神別に[[邇芸速日命|速日命]]の六世孫、[[伊香色雄|伊香我色乎命]]の後裔であるという「登美連」が、'''河内国'''神別に[[邇芸速日命|饒速日命]]の十二世孫、小前宿祢の後裔であるという「鳥見連」が登載されている。
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== 遺跡について ==
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当社境内と続く丘陵の東北部からは土馬の破片が出土し、和同開珎の銀銭、銅銭や'''土師器'''片が発見されている。土馬の破片は数十個に及んでいて、奈良時代までに遡る祭祀遺物と考えられている。土井氏は、とくに土馬片の出土数からみて、この遺跡のもつ意義は大きいと考えられていた<ref>[https://blog.goo.ne.jp/akuto508/e/b88b7a6a3eafaadaa66c885dc1b5d8ea 登彌神社(とみじんじゃ:奈良市石木町)~「筒粥祭」の社の祭祀氏族は物部氏と同族か]、摂津三島からの古代史探訪(最終閲覧日:25-02-09)</ref>。
  
 
== 鳥見について ==
 
== 鳥見について ==

2025年2月9日 (日) 09:53時点における最新版

登弥神社(とみじんじゃ)は、奈良県奈良市石木町(大和国添下郡木島村)にある神社。祭神は高皇産霊神、誉田別命、神皇産霊神饒速日命天児屋根命

このあたりは生駒山を越えて国道306号線が大阪方面に通じており、やはり古代から交通の要所であったと思われる。

歴史[編集]

創建年代は不詳であるが、一説によると物部氏の一族である「登美(鳥見)氏」が当地に居住し祖神を祀ったのが当社であるとも考えられている。

『新撰姓氏録』左京神別に速日命の六世孫、伊香我色乎命の後裔であるという「登美連」が、河内国神別に饒速日命の十二世孫、小前宿祢の後裔であるという「鳥見連」が登載されている。

遺跡について[編集]

当社境内と続く丘陵の東北部からは土馬の破片が出土し、和同開珎の銀銭、銅銭や土師器片が発見されている。土馬の破片は数十個に及んでいて、奈良時代までに遡る祭祀遺物と考えられている。土井氏は、とくに土馬片の出土数からみて、この遺跡のもつ意義は大きいと考えられていた[1]

鳥見について[編集]

『日本書紀』や『先代旧事本紀』に登場する「トミ」がどこであるかは諸説あり、当地を含む富雄川流域の一帯であるとする説、桜井市の鳥見山付近(麓には式内社の「等彌神社」が鎮座)とする説の二つに大きく分かれている。

『先代旧事本紀』を見れば河内からすぐに移動した点で富雄川流域とする説に説得力がある一方、『日本書紀』を見れば「菟田川」「墨坂」など宇陀付近の地名の登場する局面の次に出てくる。

当地付近が長髄彦や邇芸速日命にゆかりの「トミ」であった伝承も各地に残っており、三碓の「添御縣坐神社」では長髄彦を武乳速之命と名を変えて祀っていると伝えられている他、富雄川の上流には饒速日命墳墓とされる塚や同じく邇芸速日命の墓とも言われる真弓塚などがある。

このように当地付近こそが「トミ」であるとする伝承は根強く、当社の神域が「登美の白庭邑」にあった邇芸速日命の墓所とする説もあるようだ。

添について[編集]

元は「曾布(そふ)」あるいは「層富(そほ)」という地名であったが、これに「添(そふ)」の字が宛てられ、2つに分けて添上郡・添下郡となった。近世は「そふのしものこおり」と呼ばれた。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]