等彌神社(桜井市)

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等彌神社(とみじんじゃ)は、奈良県桜井市にある神社。式内社(小)で旧社格は県社。『延喜式神名帳』に掲載されている大和国城上郡等彌神社に比定されている。明治時代までは能登宮と呼ばれていた。

歴史[編集]

創建年代は不詳であるが、社伝によると当社は古より鳥見山に鎮座していたとされる。鳥見山は初代天皇である神武天皇が、即位後の神武天皇4年の春2月に皇祖神及び天津神を祀った場所である霊畤(まつりにわ)と伝えられる[1] 。又即位後初めて皇祖天神を祀ったという日本書紀の記述から大嘗会の起源であり、初の舞台ともされる。

本社にあたる上津尾社の祭神は大日霊貴命とされるが、饒速日命とする説も存在する。

平安時代には式内社に列せられたが、天永3年(1112年)、山崩れにより社殿を現在地に移している。

1940年(昭和15年)、村社から県社に列格した。

昭和30年代には桜井市護国神社が創建された。

境内には万葉歌碑・句碑・歌碑が13基存在している。

当社の八咫烏は人の形をしているのが特色である。

祭神[編集]

境内[編集]

  • 上津尾社
  • 拝殿 - 1924年(大正13年)に新設。
  • 神饌所
  • 参集所
  • 弓張社 - 祭神:櫻井弓張皇女:桜井弓張皇女(さくらいのゆみはりのひめみこ、生没年不詳)は、古墳時代末期から飛鳥時代にかけての皇族。『古事記』では桜井玄王(さくらいのゆみはりのおおきみ)と表記されている[2]。押坂彦人大兄皇子の妃。父は第30代敏達天皇、母は推古天皇[3]
  • 稲荷社
  • 黒龍社
  • 下津尾社左殿(春日社)
  • 下津尾社右殿(八幡社)
    • 下津尾社拝殿
  • 恵比須社
  • 愛宕社
  • 金毘羅社
  • 猿田彦大神社
  • 桃神社 - 祭神:意富加牟豆美命
  • 社務所
  • 桜井市護国神社

鍋塚古墳[編集]

奈良県葛城市竹内にある古墳。作家の司馬遼太郎氏によると、以下の伝承があり、鍋塚古墳は「長髄彦の墓」と伝わる、とのことだ。(当地は葛城に近く二上山にも近い。)

村の名を、竹ノ内という。古代出雲の首長であった長髄彦の墳墓の地であり、長髄彦の妹婿(いもうとむこ)饒速日命(にぎはやひのみこと)の子孫である武内宿祢(たけのうちのすくね)の出身の村でもある。古代大和の出雲族の根拠地の一つなのである。この村はどういうわけかは知らないが、大和平野のむこうはしの吉野川流域の村々と嫁婿(よめ・むこ)をもらいあう例が多い[4]

直径40メートルの丸い形をした古墳、円墳で、つくられた時期は、古墳時代中期の前半(~西暦450年)頃と考えられている。市内の大きな古墳としては古いもので、葛城市北部で古墳がつくりはじめられるきっかけとなった古墳である。鍋塚古墳をつくったのは、竹内峠を越える交通路(現在の竹内街道)の管理を通じて実力をたくわえた、この地域の首長であったと考えられる[5]。近くに長尾神社がある。

私的考察[編集]

鍋塚古墳は竹内街道(ほぼ国道165号線)沿いにあり、古来大和盆地から大阪湾に抜ける重要な街道であった。司馬氏が「大和平野のむこうはし」というのは等彌神社(桜井市)がある辺りであって、『日本書紀』や『先代旧事本紀』に登場する「トミ」の比定地の一つである。鍋塚古墳のある地、等彌神社、登弥神社 (奈良市)は奈良盆地を囲んで三角形になる感じで位置している。鍋塚古墳がある辺りは葛城であって、長尾神社などが近くにあるため、この古墳は長髄彦の墓ではなく、葛木氏の有力者の墓だったのではないか、と個人的に思う。ただ、桜井市の等彌神社にも「尾」という字のつく社殿が目立ち、長尾神社と併せて、どちらも神社に「尾」のつく字を充てるのを好む人達が建てた神社なのではないか、と考える。どちらも同じ街道沿いにあるし、大和盆地の端にあるのだから、街道を守る氏族が大和盆地の西側と東側に別れて展開したものかと思う。おそらく葛木氏であろう。国道165号線は東へ向かうと伊勢に到達するので、古くからの大阪と伊勢を結ぶ重要な街道だったのだろう。

外部リンク[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. 『日本書紀』、巻第三
  2. 『古事記』下巻、敏達天皇段
  3. Wikipedia:桜井弓張皇女(最終閲覧日:25-02-02)
  4. 【ナガスネヒコは出雲の首長】司馬遼太郎さんが書いた竹ノ内伝承【葛城と国栖の強い結びつき】、ものづくりとことだまの国(最終閲覧日:25-02-06)
  5. 鍋塚古墳(なべづかこふん)、葛城市HP(最終閲覧日:25-02-06)