伊香色雄

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伊香色雄命(いかがしこおのみこと)は、『記紀』等に伝わる古墳時代の豪族・物部氏の祖。『古事記』では伊迦賀色許男命と表記する。崇神天皇7年に大物主神を祀る「神班物者」(かみのものあかつひと)に任じられたと伝えられている。饒速日命の六世孫[1]

記録[編集]

『古事記』によると、崇神天皇の時、疫病が流行したことがあり、人民が多く亡くなった。その際に、天皇の夢枕に大物主大神が現れ「意富多々泥古(おおたたねこ)という人に自分を祭らせれば、祟りも収まり、国も平安になるであろう」と神託を述べた。天皇はその人物を捜し出し、

(すなは)意富多々泥古命(おほたたねこのみこと)を以ちて神主(かむぬし)と為(し)て、御諸山(みもろやま)に意富美和之大神(おほみわのおほかみ)の前を拝(いつ)き祭りたまひき。又伊迦賀色許男命(いかがしこをのみこと)に仰(おほ)せて、天(あめ)の八十(やそ)びらか(=平らな土器。平たい皿様の器)を作り、天神地祇(あまつかみくにつかみ)を定め奉(まつ)りたまひき。(後略)

以上のようにして、疫病の流行はやみ、国は平安になった、という[2]

『日本書紀』巻第五もほぼ同じ物語を伝えているが、天皇が皇女、豊鍬入姫命・渟名城入姫命をそれぞれ天照御大神倭大国魂神を祭らせている[3]。その後、夢の前に占いをしており、倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)に神がのりうつる、という一幕もある[4]

さらに、天皇の夢の後、臣下の大水口宿禰(おおぬなくちのすくね)らの夢にも貴人が現れて、大田田根子(おおたたねこ)と市磯長尾市(いちし の ながおち)をそれぞれ大物主神と倭大国魂を祭らせれば良い、という内容であった。大田田根子を求め、見つけることができた天皇は、

(すなは)ち物部連(もののべのむらじ)の祖(おや)伊香色雄(いかがしこを)をして、神班物者(かみのものあかつひと=神に捧げる物を分かつ人)にせむと卜(うらな)ふに、吉(よ)し。又(また)、便(たより)に(=ついでに)他神(あたしかみ)を祭らむと卜(うらな)ふに、吉(よ)からず。 (そこで、物部連の先祖伊香色雄を神班物者(かみのものあかつひと)にしようと占うと吉(よ)しと出て、またついでに他神を祭ろうと占うに、吉(よ)からずと出た。)訳:宇治谷孟[5]

その後、天皇は伊香色雄に命じて、物部のように沢山ある平瓮(ひらか)を祭神之物(かみまつりもの=神祭の供物)とされ、大田田根子を大物主大神の祭主にし、市磯長尾市を倭大国魂神の祭主にした、という。これにより、疫病は収まり、国内も鎮まり、五穀が実って、百姓は賑わった[6]

伊香色雄が登場するのはこの場面だけであるが、このことから、崇神天皇が大和国三輪山の神を祭ることで、大和政権の基礎を固め、周辺の諸国の統一にとりかかったという祭政一致の政策を行ってきたことが分かってくる[7]

石上神宮[編集]

天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)に宿られる御霊威を称えて布留御魂大神という。天璽十種瑞宝とは、饒速日命(にぎはやひのみこと)が天津神(あまつかみ)から授けられた十種の神宝で、それらには〝亡くなられた人をも蘇らす〟という力が秘められていた。後に饒速日命の御子・宇摩志麻治命(うましまじのみこと)がこの神宝を用いて、初代天皇と皇后の大御寿命(おおみいのち)が幾久しくなられることを祈った。これが鎮魂祭(みたまふりのみまつり)の初めになる。崇神天皇7年、勅命によって、伊香色雄命が神剣「韴霊(ふつのみたま)」と布留御魂大神を宮中から石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)に遷して祀り、これが石上神宮となった[8]

系譜[編集]

父は大綜麻杵命、母は高屋阿波良姫とされ、山代県主の祖・長溝の娘である真木姫・荒姫・玉手姫の三姉妹と倭志紀彦の娘である真鳥姫の四人を妻とした。真木姫との間に物部連公の祖・建胆心大禰命と宇治部連、秦忌寸、葛野野、栗栖連、宇治山守連、長谷山直らの祖・多辨宿禰命を、荒姫との間に物部連公、六人部連、水取造、水取連、舂米宿禰らの祖・安毛建美命と長谷置始連、高橋連、矢田部造、矢集連、佐夜部直、佐夜部首、久努国造、丈部、小市国造(小市直)、風速国造(風早直)、軽部造らの祖・大新河命を、玉手姫との間に十市根と倭志紀県主、大宅首、川上造、春道宿禰らの祖・建新川命を、真鳥姫との間に倭志紀県主(志紀連)、十市部首、久自国造、大部造、真髪部造、若湯坐連、有道宿禰、今木連、和泉志紀県主らの祖・大売布命を生んだとされる[9]。また『新撰姓氏録』など真神田曽禰連、真神田首、曽根連らの祖・気津別命を子に含める伝承もある。


饒速日 → 宇摩志麻治 → 彦湯支 → 出石心 → 大矢口宿禰 → 大綜麻杵 → 伊香色雄

信仰[編集]

徳島県吉野川市川島町桑村にある延喜式内社伊加加志神社で祀られている。

意賀美神社[編集]

大阪府枚方市枚方上之町にある神社である。高龗神を主祭神とし、素盞嗚尊・大山咋神・大国主神を配祀する。意賀美(おかみ)神社は元は現在地から約100m南の旧伊加賀村字宮山に鎮座していた。創建の年代は不詳であるが、開化天皇の時代には饒速日命の五世の子孫で物部氏の遠祖である伊香色男の邸宅がこの地にあり、その敷地内に鎮座していたという。高龗神は水神であり、淀川の鎮守として創建されたものとみられる。延喜式神名帳では小社に列している。旧伊加賀村の氏神として、明治5年(1872年)に村社に列格した。

現在の意賀美神社の地は元の須加神社(素戔嗚尊)の地で、意賀美神社は近くの伊加賀村宮山に鎮座していたが、明治時代に宮山から現在地に遷座して素戔嗚尊を合祀した。当社は万年寺山に鎮座しており、万年寺山古墳も1904年に発見された。主体部は粘土槨で青銅鏡8面と鉄刀が出土した。築造年代は4世紀中頃で、伊香色雄の没年は4世紀前半だから伊香色雄の墳墓かもしれない。枚方市史によると、「意賀美神社は9代開化天皇の頃、当地の豪族伊香我色雄命が淀川の水害排除と舟の航行安全を祈願して、その邸内に創建したのが始まり」とあり、淀川の水神(竜神)を祀ったのが最初と考えられる[10]

磐船神社 (交野市)[編集]

大阪府交野市にある神社。天野川の渓谷沿いにあり、「天の磐船」(あめのいわふね)と呼ばれる天野川を跨ぐように横たわる高さ約12メートル・長さ約12メートルの舟形巨岩を御神体としている。主祭神:邇芸速日命[11]。伊香色雄の子・多弁宿禰(たべのすくね)が天野川流域を開拓し、淀川と天野川の合流する地域を支配した。一族は肩野物部(かたのもののべ、交野市と枚方市)となったとされる[12]

天田神社[編集]

大阪府交野市私市にある神社。現在の祭神は表筒男命、中筒男命、底筒男命、息長帯姫命、末社:八幡大神、厳島明神、戎神、玉津島姫明神。近傍にある森古墳群は肩野物部の王墓と言われ、森1号墳(雷塚)は全長106m箸墓古墳と同形の前方後円墳で古墳時代前期(4世紀)築造のものである。境内内由緒書きは以下の通り

当社は私市、森両集の氏神社で住吉四神を祀る。
古代この地方は地味肥え作物豊かな野であったので、甘野といわれ川は甘野川、田は甘田であった。この甘田に田の神を祀って建てた甘田の宮が当甘田神社の起源である。
交野地方は肩野物部氏の所領でその先祖饒速日命は天の磐船に乗って河内の哮が峰に天降った(と)先代旧事本紀に記され、長く交野の祭神となっていた。その物部氏が西紀五七七年敏達天皇の皇后御食炊屋姫尊(後に推古天皇)にこの地を献じて、ここが私市部となったのであるが平安時代に入り京都の宮廷貴族が遊猟に来ては盛んに和歌を詠み七夕伝説に因んで甘野川は天の川、甘田は天田と書くようになった。その頃住吉信仰が流行し一方磐船の神も海に関係があると考えられさらに物部氏の衰退もあって交野の神社の祭神は饒速日命から海神であり和歌の神でもある住吉神に替わって今日に至っている。
境内から祭祀に用いられたと思われる土師器が出土し、また近くに物部氏のものと推定される巨大な古墳群が発見されるなど当地の歴史の古さを偲ばせるものがある[13]

星田神社[編集]

大阪府交野市星田にある神社。現在の主祭神は底筒男命、中筒男命、表筒男命、神功皇后。社伝によると住吉四神が祀られるよりも遙か以前に一本の大杉があり、そこに当地の氏神として交野物部氏の祖である饒速日命を交野大明神として祀っていたという。そして、この大杉が枯れた後もその芯をご神体として祀っていたとする[14]。摂社交野社(古宮)の祭神:天照国彦天光櫛玉饒速日命、建速須佐之男命、大雀命[15]

新屋坐天照御魂神社[編集]

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳』に「新屋坐天照御魂神社三座 並名神大 月次新嘗 就中天照御魂神一座預相嘗祭」として記載される式内社(名神大社)である。以下の三社が論社とされ、中でも西福井のものが中心的な神社とされる。

  • 新屋坐天照御魂神社 (大阪府茨木市西福井) - 旧郷社
  • 新屋坐天照御魂神社 (大阪府茨木市宿久庄) - 旧村社
  • 新屋坐天照御魂神社 (大阪府茨木市西河原) - 旧村社

上記の3社は互いに関連しており、西福井から宿久庄・西河原に分祀されたものとも、『延喜式神名帳』に「新屋坐天照御魂神社三座」と記載されていることから、それぞれが1座ずつに対応するものともみられている。なお、社名にある「新屋」とは一説には「新野」を意味し、古代における新開拓地の意味であるとされる。『延喜式神名帳』には「新屋坐天照御魂神社 三座 並名神大。月次新嘗。就中天照御魂神一座預相嘗祭」と記載されており、3座中の1座が天照御魂神であることが判明する。西福井の新屋坐天照御魂神社の社伝によると、崇神天皇の御代に神が当地に降臨し、同天皇の7年に伊香色雄命に勅して祀らせたのに始まるという。景行天皇20年には、この神を天照皇大神と称して皇女五百野媛に祀らせた[16]

西福井の新屋坐天照御魂神社社伝によると「第10代崇神天皇の御代、天照御魂大神がこの地(日降ケ丘)に降臨され、崇神天皇7年9月物部氏の祖・伊香色雄命を勅使として丘山の榊に木綿を掛け、しめ縄を引いて奉斎したのが創祀とされている」とのこと[17]

天照御魂神とは、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと、『先代旧事本紀』)のことと言われる[18]

茨木市には天石門別神を祀る茨木神社があり、阿波忌部氏の存在が示唆されるように思う(管理人)。

伊加加志神社[編集]

徳島県吉野川市川島町桑村に鎮座する神社である。祭神は伊加賀色許売命、伊加賀色許雄命、天照大御神。伊加賀色許売命、伊加賀色許雄命は兄妹とされる[19]

参考文献[編集]

  • Wikipedia:伊香色雄(最終閲覧日:25-02-06)
    • 『古事記』完訳日本の古典1、小学館、1983年
    • 『日本書紀』(一)、岩波文庫、1994年
    • 1965-11-01, 和泉市史, 第一巻, 和泉市史編纂委員会, 大阪府和泉市役所, NDLJP:3030411
    • 宇治谷孟訳『日本書紀』全現代語訳(上)、講談社学術文庫、1988年
    • 井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』中央公論社、1965年
    • 佐伯有清編 『日本古代氏族事典【新装版】』雄山閣、2015年
  • 伊香色雄命(いかがしこおのみこと)、古代史探訪、印南神吉(最終閲覧日:25-02-13)

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. 和泉市史編纂委員会, 1965, p84
  2. 『古事記』 中巻、崇神天皇日条
  3. 『日本書紀』崇神天皇6年条
  4. 『日本書紀』崇神天皇7年2月15日条
  5. 『日本書紀』崇神天皇7年8月7日条
  6. 『日本書紀』崇神天皇7年11月13日条
  7. 中央公論社『日本の歴史1』p281 - 282
  8. https://www.isonokami.jp/about/c2.html, ご祭神, 2024-04-29, 石上神宮
  9. 「天孫本紀」『先代旧事本紀』。
  10. 伊香色雄命(いかがしこおのみこと)、古代史探訪、印南神吉(最終閲覧日:25-02-13)
  11. Wikipedia:磐船神社 (交野市)(最終閲覧日:25-02-12)
  12. 伊香色雄命(いかがしこおのみこと)、古代史探訪、印南神吉(最終閲覧日:25-02-12)
  13. ニギハヤヒの伝承地を訪ねる⑨ 伊香色雄命と肩野物部氏、キキ(最終閲覧日:25-02-16)
  14. 星田神社ホームページ ご由緒(最終閲覧日:25-02-17)
  15. Wikipedia:星田神社(最終閲覧日:25-02-17)
  16. Wikipedia:新屋坐天照御魂神社(最終閲覧日:24-02-18)
  17. ニギハヤヒの伝承地を訪ねる⑨ 伊香色雄命と肩野物部氏、キキ(最終閲覧日:25-02-16)
  18. Wikipedia:天火明命(最終閲覧日:25-02-20)
  19. Wikipedia:伊加加志神社(最終閲覧日:25-02-11)