「大汶口文化」の版間の差分

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よって、管理人は、この「雲状」の図像は、大汶口文化の人々は、特に母系の文化であった初期には[[三足烏]]であり、雲でもあった可能性が高いと考えるけれども、時代が下って地域や、伝播した先の別の文化では角とみなされたこともあるものと思う。[[三足烏]]の起源としても重要な図像と考える。
 
よって、管理人は、この「雲状」の図像は、大汶口文化の人々は、特に母系の文化であった初期には[[三足烏]]であり、雲でもあった可能性が高いと考えるけれども、時代が下って地域や、伝播した先の別の文化では角とみなされたこともあるものと思う。[[三足烏]]の起源としても重要な図像と考える。
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また図2の中央の巨大な人型のような図に、ヒョウタン型の紋様が2つついている図は、「[[伏羲]]」のことであると思う。単独で「巨人」として現された時の図ではないだろうか。
  
 
== 参考文献 ==
 
== 参考文献 ==

2022年10月21日 (金) 01:26時点における版

図1.大汶口文化で良く見られる意匠[1]
図2.山東省文物考古研究所・莒県博物館「莒県大朱家村大汶口文化墓葬」『考古学報』1991-2より転載[2]
図3.大汶口文化中晚期 玉鉞[3]
太陽神石刻。図4,<参考画像>
1999年湖北省秭帰県東門頭遺跡出土。高さ105cm、幅20cm,厚さ12cm。湖北文物考古研究所蔵。[4]。紀元前6000年頃?(石刻の右側の絵文字のようなものの詳細は不明)
この時代に比べれば図3の図像の「世界図」は非常に複雑化し、かつ洗練された、といえようか。
この図については城背渓文化参照のこと。

大汶口文化(だいぶんこうぶんか)は、中国山東省を中心に紀元前4100年頃から紀元前2600年頃にかけて存在した新石器時代後期の文化。遺跡は黄河下流の山東省泰安市付近に集中しているが、黄海沿岸・渤海南岸から魯西平原の東部、淮河北岸の一帯にまで広がっており、隣接する安徽省・河南省・江蘇省からも少数の発見報告がある。

大汶口文化の名称は、1959年に山東省泰安市岱岳区の大汶口鎮から発見された遺跡に由来する。1962年より発掘調査を開始、1964年に大汶口文化と命名された。後に出土物からこの文化が仰韶文化と同時期かそれよりも古いことが確認された。発掘は1974年1978年にも行われているが、大汶口文化に関係するのは遺跡の層の中でも中間部分だけで、深い層は北辛文化紀元前5300年 - 紀元前4100年)に、新しい層は龍山文化紀元前3000年 - 紀元前2000年)に関係する特徴が見られる。大汶口文化の遺跡からはトルコ石ヒスイ象牙などでできた加工品、および陶器が多く発見されている。

大汶口文化は早期(紀元前4100年 - 紀元前3500年)、中期(紀元前3500年 - 紀元前3000年)、後期(紀元前3000年 - 紀元前2600年)と、大きく3つの時期に分かれる。初期においては、発掘物から見て階級差は大きくなかったと考えられ、出土する人骨の性別などから当時の社会は母系氏族共同体だったと推測されている。この時期は鬹(き)といわれる三足器(陶製の三本脚の調理器で、脚が長い)や紅陶でできた(てい、かなえ、三本足の器)など多様な形をした陶器が特徴的である。また早期も終わりのほうになると土を盛った墳墓も多くなる。

中期に入ると出土する陶器は紅陶にかわり灰陶・黒陶が増え、量の大きさや文様・形の多様さが明確になる。また社会が父系氏族共同体へ移行し父系社会が確立したさまがみられる。

後期に入ると墳墓の中に木製の棺が現れる。大汶口文化も父系氏族共同体の末期に入り階層化が進み、副葬品のない墳墓がある一方で大量の副葬品が発見される墳墓もある。土器は灰陶・黒陶が主流となり、器の厚さは薄く精巧になってゆき、黒陶や卵殻陶(卵の殻のような薄さの陶器)を特徴とする龍山文化につながってゆく。

私的解説・日雲山像

大汶口文化では図1,2のように、「日雲山」が描かれた図が良くみられ、象徴的な図像であるようである。おそらく、「日雲山」図、とする説が多いけれども、他の異説もままあるようである。一番上に描かれた円が「太陽」を現すことは広く受け入れられているようである。それ以外はどうなのか、ということになる。

管理人は、図1,2は図4の図から発展した図であると考える。頂点に「太陽」があり、その下に巨人が描かれているのが図4なのだが、この巨人は図1,2では「山」に相当するものと考える。図4の巨人を盤古型の巨人とすれば、盤古が亡くなった後に、その体から山に化生した部分もある、とされている。よって、図1,2の「山」は盤古の体の一部が変化したものなのである。そして、図1,2と図4を見比べた場合、図4の方が増えている紋様があることが分かる。いわゆる「雲」と呼ばれている部分である。

管理人は、これを「雲」でもあるし、「鳥」でもあるし、「角」でもあると考える。大汶口文化が河姆渡文化の「太陽を運ぶ三足烏(金烏)」の思想を受け継いでいれば、大汶口文化の住人は、これを引き続き「三足烏」と考えていたことと思う。盤古型巨人の一部は、死して樹木に化生した、とも言われており、それを扶桑のような「巨大樹」とすれば、三足烏はその頂点に留まっている鳥であるし、また太陽を背に乗せて飛ぶ鳥として現されることもあるので、巨人と太陽の間に存在する神霊としては「三足烏」が一番適すように思うのである。

しかし、これはまた「雲」でも良いのではないか、と思う。古来より三足烏が仕えている西王母は織物に関連づけられていることが多い。おそらく、古代のいずれかの時期、いずれかの地域で、「雲は西王母の織物である」という考えがあったのではないか、と思う。雲は太陽の下に拡がり、雨や雷をもたらすが、太陽はまたその合間から顔を出す。西王母の原型が太陽女神であったならば、天候を支配する西王母は、その織物を雲となして、天候を操っていたかもしれないと思う。そして、その場合雲は、三足烏を兼ねていたとしても不思議ではないと考える。三足烏は人々と太陽である原西王母との間にあって、人々に神の使いとして雨水をもたらしてくれる存在でもあったのではないだろうか。天から鳥神が舞い降りてきて、人々に様々なものを授けてくれる、という伝承は各地にある。

そして、死した盤古蚩尤と「同じもの」であるすれば、その首は「饕餮」といえる。良渚分化の玉鉞の神人面は頭に羽毛状の冠のようなものを被ってるが、これは大汶口文化では角状のものに描かれ、より後の「饕餮紋」に近いもののようになっているように思う。しかし、玉鉞に掘られ、「男系の王権の象徴」とされている点は良渚分化と共通しているように思う。そして、これが「角」であって、頭上に太陽が存在しなくても神人面に属するものとして存在するのであれば、日雲山像の山の上にあるものは、「山の角」でも良いように思う。「山」を「世界樹」とすれば、「世界樹の一部」でも構わないと考える。イラン神話では、世界樹のことを「雄牛の角」と呼ぶ。


よって、管理人は、この「雲状」の図像は、大汶口文化の人々は、特に母系の文化であった初期には三足烏であり、雲でもあった可能性が高いと考えるけれども、時代が下って地域や、伝播した先の別の文化では角とみなされたこともあるものと思う。三足烏の起源としても重要な図像と考える。


また図2の中央の巨大な人型のような図に、ヒョウタン型の紋様が2つついている図は、「伏羲」のことであると思う。単独で「巨人」として現された時の図ではないだろうか。

参考文献

関連項目

外部リンク

参照