「石峁遺跡」の版間の差分

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[[ファイル:20220911185014.png|thumb|370px|石峁遺跡から出土した石刻(撮影日不明、石峁遺跡考古調査隊提供)(AFP BB News)]]
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[[ファイル:20220911185014.png|thumb|370px|図1、石峁遺跡から出土した石刻(撮影日不明、石峁遺跡考古調査隊提供)(AFP BB News)]]
[[ファイル:138703597_15789788728421n.jpg|thumb|370px|石峁遺跡の中心エリア皇城台「大台基」南側擁壁から出土した石刻。(2018年11月11日撮影、神木=新華社配信)<br />管理人はこれを「前[[饕餮]]紋」と見る。]]
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[[ファイル:138703597_15789788728421n.jpg|thumb|370px|図2、石峁遺跡の中心エリア皇城台「大台基」南側擁壁から出土した石刻。(2018年11月11日撮影、神木=新華社配信)<br />管理人はこれを「前[[饕餮]]紋」と見る。]]
[[ファイル:138703597 15789788728141n.jpg|thumb|370px|石峁遺跡の中心エリア皇城台「大台基」南側擁壁から出土した石刻。(2018年11月6日撮影、神木=新華社配信)]]
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[[ファイル:138703597 15789788728141n.jpg|thumb|370px|図3、石峁遺跡の中心エリア皇城台「大台基」南側擁壁から出土した石刻。(2018年11月6日撮影、神木=新華社配信)]]
 
'''石峁遺跡'''(しいもあいせき)は、中国の新石器時代後期から「夏代」前期に相当する城壁都市遺跡である。陝西省北部、楡林市神木県に位置する。地形的には禿尾河の流域にあたるものの、周囲を荒漠とした山地に囲まれた高原上の遺跡である。その西北では内モンゴル自治区の鄂爾多斯市と境を接しており、まさしく農耕地域と遊牧地域の境界として象徴的な長城地帯にある。遺跡は紀元前2300年頃から紀元前1800年頃まで繁栄し、突然放棄された。山西省の陶寺文化にほぼ相当する時期である。遺跡は新石器時代後期から「夏代」前期に相当し、城址面積が 400 万㎡を超える大規模な城塞である。遺跡は1976年に発見され、玉器を多く出土する遺跡として注目を集めていた。
 
'''石峁遺跡'''(しいもあいせき)は、中国の新石器時代後期から「夏代」前期に相当する城壁都市遺跡である。陝西省北部、楡林市神木県に位置する。地形的には禿尾河の流域にあたるものの、周囲を荒漠とした山地に囲まれた高原上の遺跡である。その西北では内モンゴル自治区の鄂爾多斯市と境を接しており、まさしく農耕地域と遊牧地域の境界として象徴的な長城地帯にある。遺跡は紀元前2300年頃から紀元前1800年頃まで繁栄し、突然放棄された。山西省の陶寺文化にほぼ相当する時期である。遺跡は新石器時代後期から「夏代」前期に相当し、城址面積が 400 万㎡を超える大規模な城塞である。遺跡は1976年に発見され、玉器を多く出土する遺跡として注目を集めていた。
  
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== 私的考察 ==
 
== 私的考察 ==
石峁遺跡からは[[城背渓文化]]の「太陽神石刻」の時代からおなじみの「髪の毛がない(あるいは弁髪の)神像」の石刻が壁から見つかっている。そして[[大渓文化]]以降見られるように、「首のみ」の石刻である。その一方で、良渚文化より見られるようになった、後の時代の「[[饕餮]]紋」と呼ばれる獣様の石刻も多数認められるが、その多くも「首のみ」である。そして、「弁髪様」の石刻は小さく表現されるようになっているように思われる。よって、石峁遺跡は万里の長城付近という北方地域にありながら、遠く長江文明の影響も受けている文化といえる。ただし、良渚文化では王権を示す鉞に刻まれ「王権の象徴」と考えられる態様であった「前[[饕餮]]紋」は壁に刻まれ、'''城塞を守る神のような存在'''として現された可能性があるように思う。城塞を築くような大規模な工事を命令できるのは強い権力を持った王権者と思われるので、王の権威を現す紋様ではあるのかも知れないが、「前[[饕餮]]紋」の性格は良渚文化よりもやや変化しているし、拡張されている可能性もあるように思う。
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石峁遺跡からは[[城背渓文化]]の「太陽神石刻」の時代からおなじみの「髪の毛がない(あるいは弁髪の)神像」の石刻が壁から見つかっている(図1)。そして[[大渓文化]]以降見られるように、「首のみ」の石刻である。その一方で、良渚文化より見られるようになった、後の時代の「[[饕餮]]紋」と呼ばれる獣様の石刻も多数認められる(図2)が、その多くも「首のみ」である。そして、「弁髪様」の石刻は小さく表現されるようになっているように思われる。よって、石峁遺跡は万里の長城付近という北方地域にありながら、遠く長江文明の影響も受けている文化といえる。ただし、良渚文化では王権を示す鉞に刻まれ「王権の象徴」と考えられる態様であった「前[[饕餮]]紋」は壁に刻まれ、'''城塞を守る神のような存在'''として現された可能性があるように思う。城塞を築くような大規模な工事を命令できるのは強い権力を持った王権者と思われるので、王の権威を現す紋様ではあるのかも知れないが、「前[[饕餮]]紋」の性格は良渚文化よりもやや変化しているし、拡張されている可能性もあるように思う。
  
 
== 参考文献 ==
 
== 参考文献 ==

2022年9月12日 (月) 14:33時点における版

図1、石峁遺跡から出土した石刻(撮影日不明、石峁遺跡考古調査隊提供)(AFP BB News)
図2、石峁遺跡の中心エリア皇城台「大台基」南側擁壁から出土した石刻。(2018年11月11日撮影、神木=新華社配信)
管理人はこれを「前饕餮紋」と見る。
図3、石峁遺跡の中心エリア皇城台「大台基」南側擁壁から出土した石刻。(2018年11月6日撮影、神木=新華社配信)

石峁遺跡(しいもあいせき)は、中国の新石器時代後期から「夏代」前期に相当する城壁都市遺跡である。陝西省北部、楡林市神木県に位置する。地形的には禿尾河の流域にあたるものの、周囲を荒漠とした山地に囲まれた高原上の遺跡である。その西北では内モンゴル自治区の鄂爾多斯市と境を接しており、まさしく農耕地域と遊牧地域の境界として象徴的な長城地帯にある。遺跡は紀元前2300年頃から紀元前1800年頃まで繁栄し、突然放棄された。山西省の陶寺文化にほぼ相当する時期である。遺跡は新石器時代後期から「夏代」前期に相当し、城址面積が 400 万㎡を超える大規模な城塞である。遺跡は1976年に発見され、玉器を多く出土する遺跡として注目を集めていた。

玉器については前後二段の時期に分け、前段を龍山文化後期併行期、後段を朱開溝文化二段併行期とみなしている。石峁遺跡からは数多くの玉璋の出土が知られており、玉柄形器の存在とともに二里頭文化との関連性を強く示唆する遺物で ある。ヒスイも発見されており、破片だけでなく、円盤や刀剣、笏(しゃく)などに加工されたものも見つかっている。ヒスイはここ陝西省最北部では産出せず、最も近い産地でさえ、およそ1600キロも離れている。

城壁は、基本的には山地の斜面に沿って築かれている。地形に即して集落を囲う壁の存在は新石器時代後期の岱海地域でおこった老虎山文化で知られており、土器の類似性の面からも、石峁遺跡の「城壁」は、内モンゴル地域との関連の中で説明されるべき遺構であろう、とされている。

出土した土器は内モンゴル自治区の大口文化や朱開溝文化、山西省の陶寺文化との関連性が指摘されている。

石刻について

遺跡の中心部に当たる皇城台の「大台基」の南側擁壁部分で精巧な石刻70点余りが見つかっている。石刻は神面や人面、神獣、動物、符号の5種類に分類することができる。

これらの石刻は、中国東北地区の先史時代に存在した興隆窪(こうりゅうわ)文化時代や紅山(こうざん)文化時代の石造りの人型彫刻と共に、中国の北方地域に見られる石刻の「伝統」を構成し、中国の先史文明の中で独特な文化要素を形成した可能性を示している[1]

生贄(人柱)について

東の壁の下から、6つの穴に80個もの人間の頭蓋骨が詰め込まれていたのが発見された。体の骨はなかった。(石峁の正門である東門に最も近い2つの穴からは、それぞれ24個の頭蓋骨が見つかった)。頭蓋骨の数や配置から、壁の基礎を敷設する際の儀式で首を切られたことが示唆された。法医学者たちによると、犠牲者のほぼすべてが若い少女であり、おそらく敵対勢力に属していた捕虜だと考えられる[2]

大規模建造物の安寧を祈願した生贄である「人柱」としては、発見されているもののうち最古のものと思われる。

私的考察

石峁遺跡からは城背渓文化の「太陽神石刻」の時代からおなじみの「髪の毛がない(あるいは弁髪の)神像」の石刻が壁から見つかっている(図1)。そして大渓文化以降見られるように、「首のみ」の石刻である。その一方で、良渚文化より見られるようになった、後の時代の「饕餮紋」と呼ばれる獣様の石刻も多数認められる(図2)が、その多くも「首のみ」である。そして、「弁髪様」の石刻は小さく表現されるようになっているように思われる。よって、石峁遺跡は万里の長城付近という北方地域にありながら、遠く長江文明の影響も受けている文化といえる。ただし、良渚文化では王権を示す鉞に刻まれ「王権の象徴」と考えられる態様であった「前饕餮紋」は壁に刻まれ、城塞を守る神のような存在として現された可能性があるように思う。城塞を築くような大規模な工事を命令できるのは強い権力を持った王権者と思われるので、王の権威を現す紋様ではあるのかも知れないが、「前饕餮紋」の性格は良渚文化よりもやや変化しているし、拡張されている可能性もあるように思う。

参考文献

関連項目

参照

  1. 熟練した技術で作られた4000年前の石刻発見 陝西省石峁遺跡、AFP BB News、2019-01-10 15:02
  2. 4千年前の中国・石峁遺跡、謎のヒスイと要塞、ナショナルジオグラフィック日本語版、2020-08-23