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'''良渚文化'''(りょうしょぶんか、Liángzhǔ wénhuà、Liangzhu Culture)は、長江文明における一文化。紀元前3500年ころから紀元前2200年ころにみられた。
 
'''良渚文化'''(りょうしょぶんか、Liángzhǔ wénhuà、Liangzhu Culture)は、長江文明における一文化。紀元前3500年ころから紀元前2200年ころにみられた。
  
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良渚文化は細工が精巧で、内包が豊かな玉器を特徴としている<ref>[http://www.peoplechina.com.cn/zhuanti/2010-02/23/content_248040.htm 良渚(上) 玉器文化の宝庫]、長江文明を訪ねて、丘桓興=文 劉世昭=写真、人民中国インタ-ネット版(最終閲覧日:22-12-04)</ref>。
 
良渚文化は細工が精巧で、内包が豊かな玉器を特徴としている<ref>[http://www.peoplechina.com.cn/zhuanti/2010-02/23/content_248040.htm 良渚(上) 玉器文化の宝庫]、長江文明を訪ねて、丘桓興=文 劉世昭=写真、人民中国インタ-ネット版(最終閲覧日:22-12-04)</ref>。
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黒陶が出土しており、[[大汶口文化]]との関連も示唆される。
  
 
== 玉器について ==
 
== 玉器について ==
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図3は鳥形に描かれた獣面紋である。おそらくこれが抽象的な形になっていったものが三叉器で、図4の1,2,3であると考える。この獣面紋は空に飛ぶ鳥のようなものと関連していることが分かる。図3の鳥形の中には「目玉」のような紋が1個描かれただけの獣面紋もある。図6の玉冠形器も、同様に鳥形を示しているのであろう。
 
図3は鳥形に描かれた獣面紋である。おそらくこれが抽象的な形になっていったものが三叉器で、図4の1,2,3であると考える。この獣面紋は空に飛ぶ鳥のようなものと関連していることが分かる。図3の鳥形の中には「目玉」のような紋が1個描かれただけの獣面紋もある。図6の玉冠形器も、同様に鳥形を示しているのであろう。
  
古代中国には『太陽は火烏の背に乗って天空を移動する』という神話もある。図5は鳥が日輪を背負って飛んでいるように見え、火烏の神話が良渚文化の時代には既に存在していたことが窺える。図3の3~6も同様に「日輪を乗せている火烏」の可能性があるのではないだろうか。
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古代中国には『太陽は火烏の背に乗って天空を移動する』という神話もある。図5は鳥が日輪を背負って飛んでいるように見え、火烏の神話が良渚文化の時代には既に存在していたことが窺える。図3の3~6も同様に「日輪を乗せている火烏」の可能性があるのではないだろうか。そして大汶口文化との比較から見ると図5と図13図二は、「鳥が太陽を背負う図」として「同じ意味」を表しているのではないか、と思われる。
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また、図6、図7を見ると、巨大な鳥の中に更に獣面紋と2羽の鳥が描かれている。特に図7の双鳥は明らかに「'''烏'''」と思しき鳥である。三足烏は今でも東アジアでは「太陽」と結び付けられる鳥なので、片方は「太陽」に関連するものと思われる。朝鮮には[[細烏女と延烏朗]]という1組の「烏」の名を持つ夫婦が日本に渡ってしまったら日と月が消えてしまった、という神話がある。その神話では男性の烏が「太陽」、女性の烏が「月」とされていた。現在の中国では月のトーテムとしては兎とヒキガエルが有名だが、もしかしたら良渚文化では、太陽も月も「烏」と関連するものとされていたのではないだろうか。その一方で、後世に「月」のトーテムとされた兎やヒキガエルはどのようにみなされていたのだろうか、と思う。良渚文化では玉兎は乏しいようである。玉蛙は存在している(図12)がなにがしかのトーテムとしてメジャーな存在とまではいえなかったのではないか、と考える。獣面紋との関連が玉魚や玉亀よりも乏しいように感じられるからである。ということは、良渚文化では、兎はまだ「月女神」のトーテムとはされておらず、蛙はトーテムとなりかかっていた可能性はあるがメジャーではなく、「烏」が一般的な「月女神」のトーテムだった、ということにならないだろうか。月は天空に存在するし、地球から見れば「移動するもの」でもあるので、鳥がトーテムであることは不自然ではないと考える。
  
 
== 提唱されている学説 ==
 
== 提唱されている学説 ==
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*[[中国神話]]
 
*[[中国神話]]
 
*[[三足烏]]
 
*[[三足烏]]
*[[玉蟾岩遺跡]]
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*[[大汶口文化]]
*[[彭頭山文化]]
 
*[[大渓文化]]
 
*[[屈家嶺文化]]
 
*[[石家河文化]]  
 
 
*[[河姆渡文化]]
 
*[[河姆渡文化]]
*[[馬家浜文化]]
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*[[崧沢文化]]
*[[崧沢文化]]
 
*[[呉城文化]]
 
*[[琮]]
 
*[[璧]]
 
  
 
== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==

2022年12月6日 (火) 23:05時点における最新版

図1、玉琮に彫られた神の顔面
図2、「玉鉞王」と称される玉鉞の上に、精緻な神の紋章図案が彫られているのがはっきりと見える(反山12号墓出土)(杭州良渚遺跡管理局提供)[1]
図3、良渚文化玉器鸟负神兽图像、1.日本京都出光美术馆藏良渚玉鸟 2.瑶山M2∶50玉鸟 3.瑶山M2∶1冠状饰鸟纹 4.反山M22∶11冠状饰鸟纹 5.反山M12∶98玉琮鸟纹 6.反山M12∶100玉钺鸟纹[2]
図4、良渚文化神鸟和兽面组合图像、1.瑶山M10∶6玉三叉形器 2.瑶山M9∶2三叉形玉器 3.瑶山M3∶3玉三叉形器 4.瑶山M11∶86玉冠状饰 5.反山M12∶85玉半圆形饰 6.瑶山M11∶64玉柱形器[3]
図5、玉鳥(反山遺跡17号墓出土)[4]
図6、玉冠形器[5]
図7、良渚獸面鳥紋璜[6]
図8、良渚文化雙璜玉璧, 直徑14.3cm, 226grams. 本器黃色蛇紋石玉( 折光率 1.56)、『この玉器は2つの玉に分かれており、主面には中央に低浮彫りの神が、側面には鳥と鳳凰の低浮彫りが施され、神の顔の近くには「共工」の低浮彫りがあり、共工が良渚文化と深く関わっていたことを証明している。 』[7]
図9、良渚文化 玉魚珮  (長:12cm) [8]
図10、良渚文化 玉龜 (長:13cm,寬:10.3cm )[9]
図11、龍首紋玉円牌(瑶山遺跡2号墓出土)[10]
図12、良渚文化玉蛙(现藏南京博物院)[11]
図13、黒陶(上海博物館)
図13.<参考>大汶口文化で良く見られる意匠[12]
図14.<参考>山東省文物考古研究所・莒県博物館「莒県大朱家村大汶口文化墓葬」『考古学報』1991-2より転載[13]

良渚文化(りょうしょぶんか、Liángzhǔ wénhuà、Liangzhu Culture)は、長江文明における一文化。紀元前3500年ころから紀元前2200年ころにみられた。

1936年、浙江省余杭県の良渚遺跡(良渚遗址)のいくつかの墳墓から出土した一群の石器や陶器、玉器を炭素14法に基づいて測定したところ、正に良渚美玉は5000年前の宝物だったということが分かった。良渚とその周辺地区で5200~4300年前に属する各種の遺物が大量に出土した。1959年、考古学界はこれを「良渚文化」と名付けた。現在、良渚及び瓶窰、安渓、長命鎮などの周辺地方、42平方キロメートルの国家重点文物保護区内で、135カ所の遺跡が発掘されている。浙江、江蘇、上海などの太湖流域の3万6000平方キロメートルの範囲で、500カ所余りの良渚文化遺跡が前後して発見されている[14]崧沢文化などを継承しており、黄河文明の山東龍山文化との関連も指摘されている。柱形・錐形・三叉形など多様な玉器の他、なども出土している。分業や階層化が進んでいたことが、殉死者を伴う墓などからうかがえる。

宮殿とそれを取り巻く城郭都市、墓地、工房などの中国最古級の都市遺跡が出土した良渚遺跡は、初期の都市文明を伝えることが評価され、2019年に「良渚古城遺跡」の名で世界遺産に登録された。

良渚文化は細工が精巧で、内包が豊かな玉器を特徴としている[15]

黒陶が出土しており、大汶口文化との関連も示唆される。

玉器について[編集]

良渚文化の玉器で興味深いのは、後の饕餮紋と思われる獣面紋と鳥神他の紋の関わりである。獣面については、

たとえば、反山の12号墓から出土した「玉琮王」には、浮き彫りや陰刻の技法を合わせ用いた半人半獣の図案が施されている。上の部分は神に見え、逆さまになっている台形の顔や丸い目、団子鼻、平たい口、整然と並んでいる上下の歯、頭には「風形帽」を被って、その帽子の上に放射状の大きな羽がある。神の平らに伸ばした両腕と10本の指は、全体に雷紋が施されている獣面を抱え、その獣面には楕円形の目や「工」字形の鼻、平たい円形の口は外に歯をむき出している。神の両足は内側に曲がり、模様の下に縮まっており、足の指は鳥の爪のように、曲がって下向きに伸びている。

この模様は、最初のうちは中原地区でよく見られる饕餮(伝説中の何でも食べる怪獣)紋、獣面紋だと思われていたが、後に劉斌らの研究が重なるにつれ、これは太湖流域の各良渚文化遺跡で広範に見られるもので、神の目や鼻、冠、器具の形状などは、すべて統一的な規範があることが分かった。

良渚文化の発展にともなって、神の紋章の模様は写実から抽象へ、複雑から簡明へと変わっていった。末期の神の紋章の図案は、神の羽冠、羽毛で飾った帽子、鳥の足のような足指、そして獣面の牙、雷紋を省略し、いくつかの同心円と一つの円で神や獣面の目を表し、角の丸い長方形を獣の口としている。玉器に神の紋章が刻まれていれば、最高の権力、すなわち王権、軍権を握り、かつ神の化身となって、政教合一の代表となることができるのである。[16]

とある。古代中国において、鉞は王権の象徴であり、専制君主性の象徴でもあった。獣面紋は「王権を象徴する神」であった。

獣面紋と鳥[編集]

図3は鳥形に描かれた獣面紋である。おそらくこれが抽象的な形になっていったものが三叉器で、図4の1,2,3であると考える。この獣面紋は空に飛ぶ鳥のようなものと関連していることが分かる。図3の鳥形の中には「目玉」のような紋が1個描かれただけの獣面紋もある。図6の玉冠形器も、同様に鳥形を示しているのであろう。

古代中国には『太陽は火烏の背に乗って天空を移動する』という神話もある。図5は鳥が日輪を背負って飛んでいるように見え、火烏の神話が良渚文化の時代には既に存在していたことが窺える。図3の3~6も同様に「日輪を乗せている火烏」の可能性があるのではないだろうか。そして大汶口文化との比較から見ると図5と図13図二は、「鳥が太陽を背負う図」として「同じ意味」を表しているのではないか、と思われる。

また、図6、図7を見ると、巨大な鳥の中に更に獣面紋と2羽の鳥が描かれている。特に図7の双鳥は明らかに「」と思しき鳥である。三足烏は今でも東アジアでは「太陽」と結び付けられる鳥なので、片方は「太陽」に関連するものと思われる。朝鮮には細烏女と延烏朗という1組の「烏」の名を持つ夫婦が日本に渡ってしまったら日と月が消えてしまった、という神話がある。その神話では男性の烏が「太陽」、女性の烏が「月」とされていた。現在の中国では月のトーテムとしては兎とヒキガエルが有名だが、もしかしたら良渚文化では、太陽も月も「烏」と関連するものとされていたのではないだろうか。その一方で、後世に「月」のトーテムとされた兎やヒキガエルはどのようにみなされていたのだろうか、と思う。良渚文化では玉兎は乏しいようである。玉蛙は存在している(図12)がなにがしかのトーテムとしてメジャーな存在とまではいえなかったのではないか、と考える。獣面紋との関連が玉魚や玉亀よりも乏しいように感じられるからである。ということは、良渚文化では、兎はまだ「月女神」のトーテムとはされておらず、蛙はトーテムとなりかかっていた可能性はあるがメジャーではなく、「烏」が一般的な「月女神」のトーテムだった、ということにならないだろうか。月は天空に存在するし、地球から見れば「移動するもの」でもあるので、鳥がトーテムであることは不自然ではないと考える。

提唱されている学説[編集]

近年、長江文明研究の進展により、良渚文化は夏や殷王朝に比定されている。

また、黄帝の三苗征服伝説を、黄河流域の中原に依拠した父系集団の龍山文化による三苗征服の痕跡とみなし、黄河文明と長江文明の勢力争いを描いたものとする見方もある[17]

徐朝龍によれば[18]良渚文化は稲作都市文明を形成していた。1000年ほどの繁栄を経て、洪水でこの文化は崩壊する。良渚文化集団の一部は北上し、黄河中流域で夏王朝を興した。やがて夏王朝は支配下にあった東夷后羿(こうげい)部族に倒される。夏王朝の遺族の一部は北西に逃れ(下記匈奴参照)、のち四川盆地に移住し、三星堆文化を築いたとする。

古人骨では、良渚文化の遺跡(3300BC-2100BC)で60%以上の高頻度で発見されている[19]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

脚注・参考文献[編集]

  1. 良渚(上) 玉器文化の宝庫、長江文明を訪ねて、丘桓興=文 劉世昭=写真、人民中国インタ-ネット版(最終閲覧日:22-12-04)
  2. 良渚文化“神人兽面”图像的内涵及演变、中国人民大学、人大数媒科技(北京)有限公司(最終閲覧日:22-12-04)
  3. 良渚文化“神人兽面”图像的内涵及演变、中国人民大学、人大数媒科技(北京)有限公司(最終閲覧日:22-12-04)
  4. 良渚(上) 玉器文化の宝庫、長江文明を訪ねて、丘桓興=文 劉世昭=写真、人民中国インタ-ネット版(最終閲覧日:22-12-05)
  5. 良渚文化博物館、好古斎、小林松篁(最終閲覧日:22-12-05)
  6. 良渚獸面鳥紋璜、華藏玉集坊、18-04-21(最終閲覧日:22-12-05)
  7. 夏后氏之璜-有共工圖騰的良渚文化雙璜玉璧、The Palaceantique Collection(最終閲覧日:22-12-05)
  8. A004. 良渚文化 玉魚珮、玉德廊(最終閲覧日:22-12-05)
  9. A046. 良渚文化 玉龜、玉德廊(最終閲覧日:22-12-05)
  10. 良渚(上) 玉器文化の宝庫、長江文明を訪ねて、丘桓興=文 劉世昭=写真、人民中国インタ-ネット版(最終閲覧日:22-12-05)
  11. 良渚文化玉蛙、国图空间、国家图书馆版权所有(最終閲覧日:22-12-05)
  12. 大汶口陶尊符号正析——揭示四千多年前祖先的奇思妙想、搜狐号、20-03-17 16:11
  13. 大汶口文化(B.C.4300~B.C.2400)、好古齋、小林松篁氏
  14. 良渚(上) 玉器文化の宝庫、長江文明を訪ねて、丘桓興=文 劉世昭=写真、人民中国インタ-ネット版(最終閲覧日:22-12-04)
  15. 良渚(上) 玉器文化の宝庫、長江文明を訪ねて、丘桓興=文 劉世昭=写真、人民中国インタ-ネット版(最終閲覧日:22-12-04)
  16. 良渚(上) 玉器文化の宝庫、長江文明を訪ねて、丘桓興=文 劉世昭=写真、人民中国インタ-ネット版(最終閲覧日:22-12-04)
  17. 『図説 中国文明史1 文明への胎動』創元社、2006年
  18. 『長江文明の発見』1998 角川書店。また松岡正剛千夜一夜、第三百三十一夜、2001年7月9日
  19. Li, H., Huang, ., Mustavich, L.F. et al. Y chromosomes of prehistoric people along the Yangtze River. Hum Genet 122, 383–388 (2007). https://doi.org/10.1007/s00439-007-0407-