「八丁島天満宮」の版間の差分
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こちらは前の2つとは違って、男女の一対を人身御供に求めた話。一口に「忠臣」といっても色々と種類があるのだが、「菊姫物語」の掃部介が主君に殉じた「忠臣」であるのとは対照的に、こちらは諫言が聞き入れられなくて逆に暴君に殺されてしまうタイプの「忠臣」である。殺された家来は、本来は「良い人」だったはずなのだが「'''非業の死を遂げたら怨霊'''」のパターンの通り、死ぬと祟り神になる。これは大国主命の神話とも関連がある。記紀神話の段階では、黄泉の国を訪問した大国主命は妻の須勢理姫を得て地上に帰還するが、疫神である[[須佐之男命]]の生大刀、生弓矢、天詔琴を譲り受け、[[須佐之男命]]の代理人として地上に君臨する。この段階では大国主命が祟り神になって暴れる、とまではされていない。 | こちらは前の2つとは違って、男女の一対を人身御供に求めた話。一口に「忠臣」といっても色々と種類があるのだが、「菊姫物語」の掃部介が主君に殉じた「忠臣」であるのとは対照的に、こちらは諫言が聞き入れられなくて逆に暴君に殺されてしまうタイプの「忠臣」である。殺された家来は、本来は「良い人」だったはずなのだが「'''非業の死を遂げたら怨霊'''」のパターンの通り、死ぬと祟り神になる。これは大国主命の神話とも関連がある。記紀神話の段階では、黄泉の国を訪問した大国主命は妻の須勢理姫を得て地上に帰還するが、疫神である[[須佐之男命]]の生大刀、生弓矢、天詔琴を譲り受け、[[須佐之男命]]の代理人として地上に君臨する。この段階では大国主命が祟り神になって暴れる、とまではされていない。 | ||
| − | しかし、これが「大物主命」という名になると、崇神天皇の時代に天変地異や疫病の流行を起こしたとされ、[[大田田根子]]に自分を祀らせるように、と求める祟り神となる。結局大国主命は黄泉の国に行ったら、[[須佐之男命]] | + | しかし、これが「大物主命」という名になると、崇神天皇の時代に天変地異や疫病の流行を起こしたとされ、[[大田田根子]]に自分を祀らせるように、と求める祟り神となる。結局大国主命は黄泉の国に行ったら、[[須佐之男命]]のような疫神になってしまっていることが分かる。この傾向は群馬県高崎市倉賀野町にある倉賀野神社の由緒譚である[[那波八郎]]で顕著である。[[那波八郎]]は生前は「良い人」だったが、兄たちに殺され、埋められて祟り神としての蛇神となって年に1回人身御供を求めるようになった。話の骨格は「殿様と忠臣」と同じである。また兄たちに妬まれて殺されていること、倉賀野神社の祭神が[[大国魂神]]であることから、[[那波八郎]]とは大国主命が変化したものであることが分かる。中世になって記紀神話を解読できるものがわずかになった結果、伝承だけが民間で一人歩きし、全国的に一致する形で独特の「祟り神譚」として確立したものと考える。 |
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2025年2月14日 (金) 07:47時点における版
八丁島天満宮(はっちょうじまてんまんぐう)は、福岡県久留米市宮ノ陣町八丁島の神社。八丁島天満神社ともいう。近くに祭祀を行う「天神堀」がある。現在の主祭神:菅原道真。
目次
八丁島の御供納
八丁島の御供納(ごくおさめ)は秋の収穫を喜ぶ「新嘗祭」の行事と、「おかねの恩返し(江戸時代)」などの伝説に由来する「人身御供」の行事が一緒になったもといわれている。
前日に、10歳までの男の子によるお潮井汲みのあと、町内を掛け声をかけて歩き、筑後川で禊ぎを行う。
当日、天神掘にて、東北の隅にある玉太郎・竜宮姫を祭った石の祠前で祈念の祭典を行い、堀に用意された川舟にヤカゴを船に積み、神職・子ども達が乗り込む。神職が祝詞を唱えながら、穏やかに右回りに3回楠の周りを巡り、池巡りが終わりに近づく頃、神職の「エイッ」という掛け声とともに、御供(玄米三升三合)などが池に沈められる。同時に、対岸から中の島の楠を目がけて矢を放つ、矢放し行事(伝統大蛇殺害)が行われる[1]。
祭祀の由緒
おかねの恩返し
昔、八丁島に爺さんと婆さんが暮らしていた。ある日、旅の若者が夕立にあい、一晩泊めちくれるよう頼んだ。貧乏な老夫婦は人が良かったので、たいした世話はできないが泊めることにした。
夕飯時に、裏口から美しい娘が入ってきて晩のおかずの魚の煮付けを婆さんに渡した。若者は娘に一目惚れしてしまった。娘は「おかね」という名で一人者だということだった。老夫婦が二人に結婚を勧め、若者と娘は結婚することにした。
おかねの小屋で二人は仲良く暮らし、一年後に男の子が生まれた。子供が産まれたが、不思議なことにおかねは毎晩外に出かけていく習慣があり、それを止めなかった。不思議に思った夫がある晩後をつけると、妻は蛇の姿に変身して、とある池の中に入っていった。夫はびっくりして家に帰り、妻が帰ってくるのを待った。妻が戻ってくると、夫は「蛇になった姿を見たが、どういうことになっているのか。」と尋ねた。
おかねは泣きながら「私はあの池の大蛇ですが、小さいときに親の言いつけを守らず、人間の世界を見ようと思って池から這い出ていたところ、子供達につかまって殺されるところでした。その時、あなたが通りかかって助けてくれたので、恩返しをしようと思って娘の姿になってあの村に住み着き、あなたに会うために待っていたのです。お会いすると、あなたがあまりにも優しいので、夫婦になってしまいました。でも、あの池の主である私は、一日一 回は必ず池に戻って勤めを果さねばなりません。本当の姿をあなたに見られたので、もう人間界に住むことはできません。今夜でお別れです。」と言った。夫は思いとどまるように説得したが、妻は泣くばかりで聞き入れなかった。
日が暮れると、妻はきれいな玉を夫に渡して「もし赤ん坊が泣くときはこの玉をしゃぶらせてください。」と言って、泣く泣く池に帰っていった。
妻が言ったようにすると、乳もないのに子供はすくすくと育った。子供が二さいになったときに、不思議に思った村の者が玉をだまして取り上げてしまった。それから子供は火のついたように大泣きして、どんなにあやしても泣き止まなかった。夫は困って、その晩子供を抱いて池に行った。妻は蛇の姿で現れ「どうしてそんなに子供を泣かすのですか。」と夫に尋ねた。夫は村の者に玉を取られた話を聞かせた。蛇は悲しんで「あの玉は実は私の目玉です。もう一つ目玉はありますが、盲になったらもう龍になることはできません。子が泣いていて可哀そうですが、私にはもうどうすることも出来ません。」と言い、泣いて水に沈んでしまった。
夫はそれを聞いて、「生きていてなんの楽しみがあろうか。それより夫婦で揃って池の中で子を育てたほうが良い。」と思って、子供を抱いて身投げしてしまった。
それから村では不幸なことが続いて、大水が出たり、その次の年は干照りが続いたりで、とても大変だった。悪い病気が流行るし、火事で家が焼けたり、子供が夏になって五人も十人も溺れて死ぬ。村では、不幸の原因を探ろうと、祈祷師を頼んで祈ってもらったたところ、「五年前から池の主の崇りが起きている。毎年十一月廿日に十才になる男の子を一人ずつ池の主に人身御供にすれば、その次の年は無事であろう。」というお告げが出た。
それからは、むごいことに一年に一人ずつ男の子を人身御供で池に沈めたが、あまりにもむごいため、ちょうど通りかかった全国行脚の坊さんに相談した。坊さんは「米三石三斗を人身御供の変りに池に供えれは良いであろう」と教えて立ち去った。坊さんの言われた通りに米をお供えしたところ、次の年は無事息災、五穀豊穣だったので、次の年から米を捧げるようになった[2]。
菊姫物語
今から四百年くらい前に八丁島に古賀の館(ヤカタ)と言うお城があった。この殿様に可愛らしい一人娘がいた。天女のように美しかったので、どこの殿様からも嫁に欲しいとの申込があったが、同じ一族の高橋という家に嫁に行くことに決まった。
ところが嫁入の日も近くなった春に、秋月の殿様が是非嫁にくれ、くれないのなら考えがある、という無理な申し入れがあった。そう言われても、もう決ったことなので、古賀の殿様な、はっきりと事情を説明して断わった。
秋月の殿様は断わられた腹いせに薩摩の島津と組んで、七月古賀の館に戦を仕掛けて来た。殿様は娘を高橋家にやるという約束を果してから戦争しようと思い、早く高橋家に行け、と娘に言ったが娘は自分が居るばかりに戦になった、自分がいなかったら戦争にはなるまい、と思い自殺してしまった。殿様は娘の健気な気持に涙しながら、高橋家にせめて首だけでも輿入させよう、と家来の掃部介に娘の首を届けるよう命じた。
掃部介は秋月方の囲ばなんとか抜けて高橋家まで馬で走ったが、途中で高橋の館も秋月、島津に攻められ落ちたと言う報せを聞いて、古賀の館に戻った。すると、古賀の館も火炎に包まれており、殿様も家来も多勢に無勢で討死したようだった。掃部介は、姫の首ば八丁島の池に静かに沈めかくして、「もうこれまでだ。いさぎよく斬死にしよう。」と馬を館の方に走らせ、勝ちどき上げる敵の中に斬込んで行って、深傷を負っても猶戦い、力尽きると近くの池に馬を乗り入れて、敵が見守るなかで見事切腹して死んでしまった。
その後、娘の首を沈めた八丁島に娘の怨霊が大蛇になって住つき、大水、旱魃、流行病 、家畜にも災いして皆、困ってしまった。村を通りかゝった六部にこのわけを聞いてみると毎年十才迄の男の子を池の大蛇に人身御供すれば災難が消えるだろうと教えてくれた。
それから毎年十二月十五日に可哀想だが男の子を一人人身御供にすることになった。あまりにむごいので、六部に相談してみると、米三石三斗で人身御供の代りにせよと言ったので、それからは米三石三斗をお供えすることとなった。米三石三斗を三斗三升にへらし、しまいには三升三合に減らして祭ることとなった[3]。
殿様と忠臣(カンシャク持ち殿さん)
昔、八丁島に筑後川から水を引いて外堀を造ったお城があった。この城の殿は、かんしゃく持ちで気に入らないと家来を殺すし、無茶な税金を取り上げるので百姓からも嫌われていた。
殿様でもあんまりだと思い忠義な家来がある時殿様に忠告をしたら、無礼者ということで殿様は切腹を命じて殺してしまった。そのうえ、以後の見せしめということで外堀にある八丁島に家来の死体を埋めてしまった。殺された武士は、あまりの無法ぶりを怨んで大蛇になって領内に崇り、大水やら干照りをお越し、更に、人を喰い殺したり水に引き込んだりして災いを起こすようになった。
殿様は幽霊などどうということはないと思って始めは馬鹿にしていたが、不作不幸があまりに続くので、家来を大蛇退治に差し向けたところ、家来達は逆に喰い殺されてしまった。それだけでなく、夢で城内を荒すと知らせて来たので、恐しくなって、毎日毎日村の者を一人ずつ、大蛇退治の名目で人身御供に差し出した。
その後、災難が減って来たんので、年に一遍男と女を一人ずつ人身御供にした 。これもずっと昔に止めて、今は御供納めとして米三石三斗にし、更に三斗三升に少なくし、もっと減らして三升三合にして、やっと人身御供の形だけ残すこととなった[4]。
神事
- 10月第1土曜日 御願成就祭
私的考察
人身御供の話が3つあって、それを纏めて祭祀が一つ、というのは面白い発想だと思う。
伝承の起源は、古い順に「おかねの恩返し」、「殿様と忠臣」、「菊姫物語」だと考える。「菊姫物語」はかなり戦国の説話風になっているが「若い女性」が「結婚に関して」「非業の死を遂げる」というパターンが「おかねの恩返し」と同じなので、「おかねの恩返し」と「菊姫物語」の起源は同じと思う。「おかねの恩返し」の方が古いパターンの話で、朝鮮の「龍女」との類似性は明らかと考える。
- 妻が夫の目を盗んで夜中に家を抜け出して龍蛇体になり、池でなにがしかをして過ごしている。
- 本性を夫に見られることが禁忌であり、見られると去らなければならなくなる。
- 子供になにがしかを形見に残していく。
という点が一致している。
「おかねの恩返し」と「龍女」
「おかねの恩返し」と「龍女」の最大の相違点は最後の部分である。「龍女」では主人公の龍女は失踪するが、残された子供はすくすくと育つ。一方「おかねの恩返し」は子供も夫も池に身を投げて死んでしまい「そして誰もいなくなった」状態になる。しかもその後いわゆる「祟り」があって、十歳の男の子が人身御供に求められるようになる。いわゆる一般的な「メリュジーヌ譚」では、妻は失踪しても、どちらかといえば子孫には守護女神的に作用するし、最古の形式譚といえる台湾のバルン神話でも、女神は祟ったりしていない。ただし、供養をしっかり行わなかった場合には祟るであろうことは彼女の文言からうかがえる(「バルン」より)。
一方「おかねの恩返し」も、それ以外の八丁島天満宮の伝承もそうだが、「十歳の男の子」がまるで指定されたかのように、最後に人身御供として要求される。その理由も定かではなく、いかにもその部分だけがあとから「とってつけた」ように思える。「おかねの恩返し」は朝鮮の龍女や、他の地域のメリュジーヌ譚と同様、元は特定の氏族の「祖神譚」だったと思われるが、最後に家族が全員死んでしまったことで、「祖神譚」から外されて「人身御供」の根拠へと話が振り返られてしまった話と考える。
先祖に該当する者が赤ん坊のうちに死んでしまったら、理論的には子孫はいないはずなので、これは特定の氏族の「意図的な先祖隠し」も兼ねたもの、といえる。祖神神話を書き換えて、別のところに先祖を求めることにしたのだろう。そして、更に「人身御供」を正当化する方向へも話を変えることにしたと思われる。ただ、特に王権などの身分や地位や物質的な財産の継承の根拠は「血筋」に求められることが古代においてもほとんどだったと思うので、軽率に先祖を書き換えてしまったら、先祖の権威によって得られたはずのものも得られなくなる、ということにもなりかねない。そのため、神話を書き換えたのは、書き換えても支障がないくらいに権力を有していたものが、なにがしかの目的をもって、敢えて書き換えた、のだとも言えるのではないかと思う。高良大社には、本来高良山に高木神(=高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座いたところ、高良玉垂命がのっとってしまったという伝承があり、重要な神社の祭神が変えられてしまった出来事と、祖神神話の書き換えには関連性があるのではないか、と推察する[5]。
菊姫物語
主人公の娘とその家族全員が「非業の死」を遂げて「そして誰もいなくなった」という状態になるのは「おかねの恩返し」と同じである。「おかねの恩返し」では、龍女自身は池の中に帰るだけで「死んだ」とはされていないが、菊姫物語では姫自身が自殺してしまう。その首をわざわざ切り落として完全に「死んだ」ことにしてしまっている点は、古代よりも時代が下った中世~戦国の説話の方が、話の内容が人道的になるどころか、陰惨さを増している。姫の夫は入水自殺しないが、かわりに家来の掃部介が入水している。「掃部」という言葉は「清掃する人」という意味もあると思うが、こちらがいわば「清い人」であって、無体に攻めてくる「秋月家」と「島津家」が「汚い人」という意味も暗にあるのではないか、と思う。菊姫は家を救うために自ら自害したので、この世にあまり未練はなさそうに見えるが、ともかく「非業の死を遂げたら怨霊」という中世らしい発想で祟り神になってしまう。彼女が何故「十歳の男の子」を人身御供に求めるのかも謎のままである。
秋月氏は実際に久留米にいた武家である。北九州には古賀という名前もみられ、何らかの歴史的事件を投影してもいる伝承かもしれないが、詳しくは不明である。
殿様と忠臣
こちらは前の2つとは違って、男女の一対を人身御供に求めた話。一口に「忠臣」といっても色々と種類があるのだが、「菊姫物語」の掃部介が主君に殉じた「忠臣」であるのとは対照的に、こちらは諫言が聞き入れられなくて逆に暴君に殺されてしまうタイプの「忠臣」である。殺された家来は、本来は「良い人」だったはずなのだが「非業の死を遂げたら怨霊」のパターンの通り、死ぬと祟り神になる。これは大国主命の神話とも関連がある。記紀神話の段階では、黄泉の国を訪問した大国主命は妻の須勢理姫を得て地上に帰還するが、疫神である須佐之男命の生大刀、生弓矢、天詔琴を譲り受け、須佐之男命の代理人として地上に君臨する。この段階では大国主命が祟り神になって暴れる、とまではされていない。
しかし、これが「大物主命」という名になると、崇神天皇の時代に天変地異や疫病の流行を起こしたとされ、大田田根子に自分を祀らせるように、と求める祟り神となる。結局大国主命は黄泉の国に行ったら、須佐之男命のような疫神になってしまっていることが分かる。この傾向は群馬県高崎市倉賀野町にある倉賀野神社の由緒譚である那波八郎で顕著である。那波八郎は生前は「良い人」だったが、兄たちに殺され、埋められて祟り神としての蛇神となって年に1回人身御供を求めるようになった。話の骨格は「殿様と忠臣」と同じである。また兄たちに妬まれて殺されていること、倉賀野神社の祭神が大国魂神であることから、那波八郎とは大国主命が変化したものであることが分かる。中世になって記紀神話を解読できるものがわずかになった結果、伝承だけが民間で一人歩きし、全国的に一致する形で独特の「祟り神譚」として確立したものと考える。
参考文献
- 八丁島の御供納(ゴクオサメ)、久留米観光サイト(最終閲覧日:25-02-09)
- 八丁島の大蛇伝説ーおかねの恩返し、宮の陣中学校S35卒同窓生の広場(最終閲覧日:25-02-10)
- 八丁島の大蛇伝説ー菊姫物語、宮の陣中学校S35卒同窓生の広場(最終閲覧日:25-02-11)
- 八丁島の大蛇伝説ーカンシャク持ち殿さん、宮の陣中学校S35卒同窓生の広場(最終閲覧日:25-02-08)