「手子后神社 (城里町)」の版間の差分

提供: Bellis Wiki3
ナビゲーションに移動 検索に移動
 
(同じ利用者による、間の10版が非表示)
20行目: 20行目:
  
 
=== 松の害 ===
 
=== 松の害 ===
 +
圷地区内を一回りしてみても、かつては、屋敷内に松の木の植えてある家は一軒もなかった。これは、この神社のわきに大きな松の木があったが、祭神埴安姫命がこの松の葉で眼を突いてお怪我をなされた。この松の大木はたちまち伐られ、それ以来氏子は松を屋敷内へ植えない慣習があった。
  
 +
== 私的考察 ==
 +
『延喜式』所載の祝詞には、記紀と異なり、荒ぶる火の神の害から民を守るために、[[伊邪那美命]]が火鎮めの神として埴安姫を生んだという挿話がある。このため埴安姫は「'''鎮火の神'''」としても祀られ、愛宕神社や秋葉神社など火除の神社でも重要な祭神となっている。埴安姫が鎮火の神功を有するのは、古代には火災の消火に土や泥が用いられていたことを象徴しているとも考えられている<ref>Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%8B%E3%83%A4%E3%82%B9 ハニヤス](最終閲覧日:225-01-30)</ref>。当社では火防のために埴安姫を祀り「火で焼いたもの(瓦)」を禁忌とする伝承ができたのではないだろうか。
  
 +
=== 手子比売命との関連 ===
 +
神栖市の手子后神社では「手子比売命」を祭神としているが、こちらでは埴安姫命が祭神となっている。何か、祭神を是非とも埴安姫命にしなければならない、といった事情がかつては存在したのだろうか。どちらの神社にも「松」と女神が一体化するような伝承があるので、元は「同じ女神」を祀っていたものと思われる。おそらく、こちらに伝わる「松の葉」の伝承の方が、各地に類話がみられ、古い形式の話と思われる。ただし、女神が「'''誰'''」に害されて怪我をしたのか、という点は意図的に削除されたのかもしれないが、欠落している。神栖市の伝承を見るに、女神は'''寒田の郎子(いらつこ)'''に害され、殺された、とするのが本来の伝承で、手子比売命はいわゆる「[[吊された女神]]」と考える。古代中国の[[伏羲]]・[[女媧]]神話の[[女媧]]に相当する女神ともいえる。
  
 +
「松」に関連することから、物部氏系の神社である[[廣瀬大社]]の'''若宇加能売命'''(わかうかのめのみこと)に類する神と考える。'''寒田の郎子'''は「砂かけ祭」の'''黒牛'''に相当する神と考える。とすれば、手子比売命は本来「豊穣に関する水女神」であって、茨城県では特に漁の安寧や豊漁に関わる女神とされたのであろう。当社では、女神は後に女神は火防の埴安姫命に置き換えられたが、松に関する伝承は、手子比売命のものを残したのだろう。もしかしたら、'''寒田の郎子'''には「荒ぶる火神」の性質があったので、それを鎮める女神として埴安姫命が充てられたものか。
  
=== 由緒 ===
+
茨城県には古墳造営や葬送儀礼に関った氏族である土師氏の活動の痕跡があり、「瓦の禁忌」は物部氏系の氏族と土師氏との間の微妙な対立関係を投影したものでもあるかもしれないと思う。常陸国三宮で式内社の吉田神社の境内社に土師神社があり、祭神は土師氏の祖神の一柱である[[野見宿禰]]を祀っている。
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 +
<blockquote>石岡市・笠間市近傍が早くからこの地域の政治中心地だった事と無縁ではなく、土師氏はその政治中心に近く、しかし、埴輪製作に必要な諸々の資源を入手しやすく、且つ、製作した埴輪を移送しやすい場所を探して、埴輪製作集団の拠点を築いたと思われる<ref>[https://ameblo.jp/asahonmati/entry-12635668437.html 土師氏小史8  常陸国の土師氏・埴輪製作集団]、女神物語 ー弥生神代の考察ー、asahonmati(最終閲覧日:25-01-30)</ref>。</blockquote>
  
 +
とのことである。土師氏(葛木氏)当麻の領有を巡って物部氏系の[[当麻蹴速]]と争ったとされるが、その対立関係が遠く茨城県まで及んでいた可能性があることは興味深い。物部氏と土師氏は協力して地域の開拓に務めたであろうが、潜在的な関係は必ずしも良好なものではなかったのかもしれないと考える。物部氏系の氏族から見れば、[[野見宿禰]]は埴輪を焼く「火」の象徴でもあり「寒田の郎子」に類する神と考えられていたのではないだろうか。常陸国風土記には牧歌的な女神と若者の恋物語が記されたが、当社には両者の微妙な対立関係の伝承が残されたようである。
  
 +
=== 星神信仰との関連 ===
 +
[[石井神社 (笠間市)]]の『倭文神健葉槌命縁記』によると、[[天津甕星]]が割れた岩が当社に飛来した、とあるが、こちらにはその旨の伝承は残されていないようである。もしかしたら、手子比売命の更に古い姿は物部氏系の星女神でもあって、[[天甕津日女命]]のような女神で太陽神や厄払いの女神を兼ねたものだったかもしれないと思う。当初はそのような女神を祀っていたものを、祭神を手子比売命→埴安姫命と置き換えたものかもしれないと考える。祭神に「火」による災厄を鎮める女神としての性質が見えるのは、往古に疫神鎮めの医薬神的な星女神が祀られていた名残なのではないだろうか。
  
 
== 参考文献 ==
 
== 参考文献 ==
41行目: 47行目:
 
* [https://www.ibarakiken-jinjacho.or.jp/ibaraki/kenou/jinja/01054.html 手子后神社] - 茨城県神社庁
 
* [https://www.ibarakiken-jinjacho.or.jp/ibaraki/kenou/jinja/01054.html 手子后神社] - 茨城県神社庁
  
 +
== 関連項目 ==
 +
* [[手子后神社 (神栖市)]]
 +
* [[石井神社 (笠間市)]]
  
 
+
== 脚注 ==
 
 
  
 
{{DEFAULTSORT:てこさきしんしやしろさとまち}}
 
{{DEFAULTSORT:てこさきしんしやしろさとまち}}
49行目: 57行目:
 
[[Category:神社]]
 
[[Category:神社]]
 
[[Category:日本神話]]
 
[[Category:日本神話]]
 +
[[Category:松]]
 +
[[Category:星神]]
 +
[[Category:医薬神]]

2025年1月31日 (金) 13:44時点における最新版

手子后神社(てごさきじんじゃ)は、茨城県東茨城郡城里町上圷(あくつ)にある神社。元禄九年正月水戸藩主源義公は、従来「手子木崎神社」と称していた社名を、現在の「手子后神社」と改称した。神栖市の「手子后神社」からの分社ではないか、とのこと。

祭神[編集]

埴安姫命

境内社[編集]

  • 天満社
  • 天王社
  • 鷺森神社
  • 鹿嶋神社
  • 千勝神社
  • 熊野神社
  • 八龍神社
  • 雷神社
  • 稲荷神社

伝承[編集]

瓦の禁忌[編集]

御祭神埴安姫命は土を司る神として、土壌を生命とする農民の五穀豊穣の守護神として尊崇が篤い。それ故に土を瓦として焼くことは土壌の生命を断つことで、神の怒りを買うと言われ圷では瓦を焼くことは勿論、屋根にのせる家がなかった。昔この神社の屋根に土瓦をのせた事があったが一晩のうちにくずれ落ちてしまった事があったという。

松の害[編集]

圷地区内を一回りしてみても、かつては、屋敷内に松の木の植えてある家は一軒もなかった。これは、この神社のわきに大きな松の木があったが、祭神埴安姫命がこの松の葉で眼を突いてお怪我をなされた。この松の大木はたちまち伐られ、それ以来氏子は松を屋敷内へ植えない慣習があった。

私的考察[編集]

『延喜式』所載の祝詞には、記紀と異なり、荒ぶる火の神の害から民を守るために、伊邪那美命が火鎮めの神として埴安姫を生んだという挿話がある。このため埴安姫は「鎮火の神」としても祀られ、愛宕神社や秋葉神社など火除の神社でも重要な祭神となっている。埴安姫が鎮火の神功を有するのは、古代には火災の消火に土や泥が用いられていたことを象徴しているとも考えられている[1]。当社では火防のために埴安姫を祀り「火で焼いたもの(瓦)」を禁忌とする伝承ができたのではないだろうか。

手子比売命との関連[編集]

神栖市の手子后神社では「手子比売命」を祭神としているが、こちらでは埴安姫命が祭神となっている。何か、祭神を是非とも埴安姫命にしなければならない、といった事情がかつては存在したのだろうか。どちらの神社にも「松」と女神が一体化するような伝承があるので、元は「同じ女神」を祀っていたものと思われる。おそらく、こちらに伝わる「松の葉」の伝承の方が、各地に類話がみられ、古い形式の話と思われる。ただし、女神が「」に害されて怪我をしたのか、という点は意図的に削除されたのかもしれないが、欠落している。神栖市の伝承を見るに、女神は寒田の郎子(いらつこ)に害され、殺された、とするのが本来の伝承で、手子比売命はいわゆる「吊された女神」と考える。古代中国の伏羲女媧神話の女媧に相当する女神ともいえる。

「松」に関連することから、物部氏系の神社である廣瀬大社若宇加能売命(わかうかのめのみこと)に類する神と考える。寒田の郎子は「砂かけ祭」の黒牛に相当する神と考える。とすれば、手子比売命は本来「豊穣に関する水女神」であって、茨城県では特に漁の安寧や豊漁に関わる女神とされたのであろう。当社では、女神は後に女神は火防の埴安姫命に置き換えられたが、松に関する伝承は、手子比売命のものを残したのだろう。もしかしたら、寒田の郎子には「荒ぶる火神」の性質があったので、それを鎮める女神として埴安姫命が充てられたものか。

茨城県には古墳造営や葬送儀礼に関った氏族である土師氏の活動の痕跡があり、「瓦の禁忌」は物部氏系の氏族と土師氏との間の微妙な対立関係を投影したものでもあるかもしれないと思う。常陸国三宮で式内社の吉田神社の境内社に土師神社があり、祭神は土師氏の祖神の一柱である野見宿禰を祀っている。

石岡市・笠間市近傍が早くからこの地域の政治中心地だった事と無縁ではなく、土師氏はその政治中心に近く、しかし、埴輪製作に必要な諸々の資源を入手しやすく、且つ、製作した埴輪を移送しやすい場所を探して、埴輪製作集団の拠点を築いたと思われる[2]

とのことである。土師氏(葛木氏)当麻の領有を巡って物部氏系の当麻蹴速と争ったとされるが、その対立関係が遠く茨城県まで及んでいた可能性があることは興味深い。物部氏と土師氏は協力して地域の開拓に務めたであろうが、潜在的な関係は必ずしも良好なものではなかったのかもしれないと考える。物部氏系の氏族から見れば、野見宿禰は埴輪を焼く「火」の象徴でもあり「寒田の郎子」に類する神と考えられていたのではないだろうか。常陸国風土記には牧歌的な女神と若者の恋物語が記されたが、当社には両者の微妙な対立関係の伝承が残されたようである。

星神信仰との関連[編集]

石井神社 (笠間市)の『倭文神健葉槌命縁記』によると、天津甕星が割れた岩が当社に飛来した、とあるが、こちらにはその旨の伝承は残されていないようである。もしかしたら、手子比売命の更に古い姿は物部氏系の星女神でもあって、天甕津日女命のような女神で太陽神や厄払いの女神を兼ねたものだったかもしれないと思う。当初はそのような女神を祀っていたものを、祭神を手子比売命→埴安姫命と置き換えたものかもしれないと考える。祭神に「火」による災厄を鎮める女神としての性質が見えるのは、往古に疫神鎮めの医薬神的な星女神が祀られていた名残なのではないだろうか。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. Wikipedia:ハニヤス(最終閲覧日:225-01-30)
  2. 土師氏小史8  常陸国の土師氏・埴輪製作集団、女神物語 ー弥生神代の考察ー、asahonmati(最終閲覧日:25-01-30)