廣瀬大社

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廣瀬大社(ひろせたいしゃ、広瀬大社)は、奈良県北葛城郡河合町川合にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(中七社)の一社。旧・社格は官幣大社で、2024年(令和6年)現在は神社本庁の別表神社。

旧称は「廣瀬神社(ひろせじんじゃ、広瀬神社)」。

祭神[編集]

祭神は次の3柱。

  • 若宇加能売命(わかうかのめのみこと)
    • 別称で大忌神[1]。「廣瀬大忌神(ひろせおおいみのかみ)」とも。社伝では伊勢神宮外宮の豊宇気比売大神、伏見稲荷大社の宇加之御魂神と同神とする。龍田大社の龍田風神とも関係があるとしている。

縁起[編集]

崇神天皇9年(前89年)廣瀬の河合の里長に御神託があり、沼地が一夜で陸地に変化し、が数多く生えた。このことが天皇に伝わり、この地に社殿を建てた。

相殿神[編集]

  • 櫛玉命(くしたまのみこと)
    • 社伝では饒速日命を指す。社家の樋口氏[2] は饒速日命を祖神とする物部氏の末裔であり、社家の邸宅内には饒速日命を祀る境外末社の饒速日命社がある。
  • 穂雷命(ほのいかづちのみこと)

歴史[編集]

鎮座地は、高田川と一緒になった曽我川・大和川・飛鳥川など奈良盆地内を流れる河川のほとんどが合流する地点であり、このことから水神を祭る。社伝では、崇神天皇9年、広瀬の河合の里長の廣瀬臣藤時に託宣があり、水足池と呼ばれる沼地が一夜で陸地に変化し橘が数多く生えたことが天皇に伝わり、その地に大御膳神として社殿を建てて祀ったのに始まるとしている。龍田の風神・広瀬の水神として並び称された。『日本書紀』天武天皇4年(675年)4月10日条には風神を龍田立野に、大忌神を広瀬河曲に祀ったとの記述があり、これが4月・7月に行われる廣瀬大忌祭の起源とされている。

延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では大和国広瀬郡に「広瀬坐和加宇加乃売命神社(廣瀬坐和加宇加乃売命神社) 名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに朝廷の月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。

神階は弘仁13年(822年)8月3日、従五位下(『日本紀略』(表記は「広湍神(廣湍神)」))。嘉祥3年(850年)7月11日、従五位上(『日本文徳天皇実録』(表記は「若宇加乃売命神」))。仁寿2年(852年)7月25日、従四位下(『日本文徳天皇実録(表記は「若宇加乃売命神」)』) 。仁寿2年(852年)10月2日、従三位 (『日本文徳天皇実録』(表記は「若宇加乃売命神」)) 。天安3年(859年)1月27日、従三位から正三位(『日本三代実録』(表記は「広瀬神(廣瀬神)」))。そして永保元年(1081年)に最高位の正一位を受けている。後の二十二社の一つともなった。

室町時代には神領は500余町あったが、永正3年(1506年)に細川政元の家臣・赤沢朝経の焼き討ちによって宝物や古文書が焼失し、神領が横領される。天正年間(1573年 - 1593年)には豊臣秀長によって神領が没収されてしまう。

1871年(明治4年)5月14日、官幣大社に列格した。第二次世界大戦以降、廣瀬大社と称するようになった。

1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列されている。

境内には日露戦争の戦利品であるロシア陸軍の野砲とその砲弾が奉納されて展示されている。

境内[編集]

  • 本殿(奈良県指定有形文化財) - 正徳元年(1711年)再建。
  • 幣殿
  • 拝殿 - 明治時代再建。
  • 社務所
  • 神馬舎
  • 奉納大砲 - 日露戦争の戦利品。ロシア陸軍の野砲とその砲弾。

摂末社[編集]

境内社[編集]

  • 水足明神
  • 祓戸社
  • 祖霊社
  • 稲荷社
  • 日吉社

境外社[編集]

  • 饒速日命社
  • 八神殿社
  • 水分神社 - 摂社。

主な祭事[編集]

  • 2月11日 例祭・砂かけ祭(御田植祭)
    • 大忌祭の御田水口祭礼に由来するもので、砂を雨に見たてた祈雨の神事である。拝殿前の広場を田に見立てて田植えの所作を行い、それに対して参詣者と田人に扮したひとが一斉に砂をかけあうもので、「砂かけ祭」と呼ばれる。

祭は午前の「殿上の儀」、午後の「庭上の儀」の2部に分かれている。「殿上の儀」では神社の屋内で田植えの所作を行って奉仕する。

「庭上の儀」は、拝殿前に青竹を4本立て、注連縄を張り巡らして田圃に見立てる。太鼓の合図で田人(白い衣装)牛(黒い衣装)が出て田植えの所作をした後、参拝者に砂を掛ける。それに対し参拝者が砂を掛け返し、この砂の掛け合いは1回5分程度で8回繰り返される。砂は雨になぞらえられ掛け合いが盛んであるほどこの年はよく雨が降り豊作となる、と言われている。また、降り注ぐ砂にかかると厄除けになると伝えられている。この後、早乙女が登場し田植えを行うと庭上の儀は終了する。

最後に参拝者へ松苗田餅が撒かれる。松苗は松の葉で作られ中に籾種が2・3粒入っており藁で巻かれている。これは田の水口(水の取り入れ口)に刺すと悪病、害虫、悪水などから田を守ります。また家の玄関口に刺しておくと住居を厄災から護るのお守りともなう。田餅は、これを食べると無病息災で一年が過ごせる。

広瀬大社の砂かけ祭は、昔の田作りの模範田植えであり、砂を雨に見立てて雨水の恵みを乞い、農耕作業が順調に進み五穀豊穣を祈願するところに特徴がある、とのことだ[3]

文化財[編集]

奈良県指定有形文化財[編集]

  • 本殿(建造物) - 1988年(昭和63年)3月22日指定。

河合町指定無形民俗文化財[編集]

  • 廣瀬神社の砂かけ祭り - 御田植祭。2009年(平成21年)12月11日指定(河合町指定文化財第5号)。

前後の札所[編集]

神仏霊場巡拝の道
30 朝護孫子寺 - 31 廣瀬大社 - 32 當麻寺

私的考察[編集]

廣瀬大社では、櫛玉命を饒速日命と同神としている。櫛玉命は『伊勢国風土記』逸文では伊勢津彦という風神とされる。「龍田の風神」と同神とされていない、ということは「別の神」と考えられているのだろう。

砂かけ祭と照らし合わせると、櫛玉命田人に相当すると思われる。「龍田の風神・広瀬の水神」と並び称され、広瀬大社は「水神の神社」とされているようだが、風神、雷神も共に祀っているといえる。風神と雷神が争いながら、その祭祀が豊穣に結びつく、というのはいかにもミャオ族バロンダロン神話を思わせる。櫛玉命は、まさに風神であるアペ・コペンに相当する。

「白」に象徴される田人(櫛玉命)は、「風神」としては速飄神という神に相当するのではないだろうか。一方、長野県長野市にある風間神社では、飄別神を祀る、と推定されており、現在の祭神は志那都比古神なので、志那都比古神(龍田の風神)を速飄神とし、櫛玉命速飄神とするべきかと考える。」

一方、「黒」に象徴される「牛」は、中国神話の炎帝や蚩尤に相当する神といえる。彼らは火の神でもあり、火山の神でもある。「黒」で現されるのは火山灰の色に由来するのかもしれないと考える。祭りで砂が飛び散るのは、火山の噴火を模したものとも言える、と考える。この場合の雷神は「火山の神」も兼ねるのであり、これは陶芸、家事、製鉄の技術が発達してくると「竈の神」にも変化するものではないだろうか。

関連図書[編集]

  • Wikipedia:廣瀬大社(最終閲覧日:25-01-19)
    • 安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』神社新報社、1968年、51頁
    • 白井永二・土岐昌訓編集『神社辞典』東京堂出版、1979年、295 - 296頁
    • 菅田正昭『日本の神社を知る「事典」』日本文芸社、1989年、187 - 189頁
    • 上山春平他『日本「神社」総覧』新人物往来社、1992年、224 - 225頁

外部リンク[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. 神道大辞典1, 平凡社, 1941, NDLJP:1913333, NDLDC:1913333/132 p220],NDLDC:1913333/153, p257-258
  2. http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/kinki/s_hirose.html, 広瀬社神主曽祢氏系図, 家紋World by 播磨屋, 2015-08-24
  3. 砂かけ祭について、広瀬大社HP(最終閲覧日:24-12-10)