石井神社 (笠間市)
石井神社(いしいじんじゃ)は茨城県笠間市石井にある神社。主祭神:建葉槌命(織物の神、武運(健脚)の神)。
由緒[編集]
当社に伝わる『倭文神健葉槌命縁記』によると、神代の昔、この地方を支配していた天甕星(香々背男命)の討伐に派遣された建葉槌命が、抵抗し巨石となった天甕星を、大甕の山で蹴り飛ばし退治した。
巨石は割れて三方向に飛び、さらに残る石がさらに三方向に飛び、石の一つが石井の井戸に落ちた。
そして天甕星の祟りを恐れ、建葉槌命をお祀りしたのが当社である。 また縁記には不幸にも延喜式内社とならなかったが、笠間の鎮め神、尋常の国社に非ずと記されている。
『倭文神健葉槌命縁記』[編集]
石井大明神は尋常の国社ではなく、鹿島香取の二神の幕下の勇将健葉槌命の神祠である。神代よりの鎮座にして笠間藩の鎮め神である。不幸にも神名帳(延喜式)に載らずといえども、神徳三千余座の下に立たず、位は八百萬神の上階である。(中略)風土記に記述の魔王石は、国誌の雷断石なり、健葉槌命を安置する霊社は大三箇石明神(大甕神社(日立市))、依り代は石奈坂静大明神(静神社(那珂郡瓜連))なり。かの石を両脚にて蹴る、久慈の大河を超え石上邑石明神(石神社(東海村石神外宿))の地の鎮めとなる。また石はるかに遠く村落を過ぎ甘瓜の弦にかかる。この村(那珂郡瓜連)は祟りを恐れ、永年瓜畑は作らない。また那珂の大河を超え二つ目は石塚圷村手粉裂明神(手子后神社(城里町))に至る。三つ目は数丈の井戸の底に落ちる。故に石井と呼ぶ(石井神社)。残った甕星の霊は一個の小石となり山本郷の星山に隠れる(星宮神社(笠間市中市原))。石井神社は甕星神の霊魂の鎮めである。(中略)この話は神勅により甕星討伐の命を受けたが、鹿島・香取の軍勢は動きがとれなかった。そこで萬夫不当の驍勇(一騎当千の勇将)健葉槌命が石上(大甕)で首をとり、手下の三将を三ヶ所で斬った。この四か所に功績を刻み神社を作った。(延享2年(1745)茨城郡大戸村夷鍼社の二宮三河守茂直によるもの)[1]
近隣の星宮神社[編集]
- 星宮神社(茨城県茨城県水戸市宮内町)
- 吉田神社(常陸国三宮)の境内末社、祭神:天御中主命
私的考察[編集]
天羽槌雄神そのものは、下光比売命を男神に変更したような、やや倒錯的な神と思うのだが、久慈郡の神話は、天甕星がヒッタイト神話のウルリクムミのようになっていて小アジアの匂いを感じ、興味深く感じる。おそらく久慈国造だった物部氏と彼らの製鉄技術が関連していると推察する。女神を無理矢理男神に変更させるような倒錯が西国で進められていたとすれば、逆に東国の常陸国では、それを利用しつつ建御雷神、経津主神、天羽槌雄神をまとめて、一つの「雷神」として取り扱うとする作業があったのかもしれないと思う。
天甕星とは、物部氏が祀っていた神で、何らかの理由で信仰を断念せざるを得なかったので、茨城県では体裁良く祭神を倒した方の天羽槌雄神に置き換えて中身はそのままで祀っていたものではないだろうか。中央の物部氏は七支刀を神域に封印せずにいられなかったとすれば、東国の田舎の方がやっていることは雑で適当だったのかもしれないと思う。
そして、天甕星には「井戸の神」、すなわち水神としての機能があったことが分かる。
参考文献[編集]
- 御祭神 建葉槌命(たけはつちのみこと)、石井神社(最終閲覧日:25-01-27)
- 石井神社、茨城県神社(最終閲覧日:25-01-27)
- 常陸第三宮吉田神社(最終閲覧日:25-02-01)
脚注[編集]
- ↑ 御祭神 建葉槌命(たけはつちのみこと)、石井神社(最終閲覧日:25-01-27)