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『梁書』によると、僧慧深(けいしん)が普通年間 (520年–527年)に扶桑という国から梁へやってきたという。扶桑の所在地については、倭国の東北7000余里(3000km余、漢代の里 ≒ 434m、以下換算にはこの値を使う)に文身国が、その東5000余里(2200km余)に大漢国があり、大漢国の東2万余里(8700km余)に扶桑がある。ただし、倭国・文身国・大漢国までについては地の文で事実として書かれているが、扶桑についてはその位置も含め、慧深の証言という形で書かれている。また、地の文の大漢国と慧深の言う大漢国が同じものかもはっきりしない。
{{Quotation|{{Lang|zh-tw|扶桑國、在昔未聞也。普通中、有道人稱自彼而至、其言元本尤悉、故扞録焉。(中略)扶桑國者、齊永元元年、其國有沙門慧深來至荊州、説云「扶桑在大漢國東二萬餘里、地在中国之東、其土多扶桑木、故以爲名。扶桑葉似桐、而初生如笋、國人食之、實如梨而赤、績其皮爲布以爲衣、亦以爲綿。作板屋。無城郭。有文字、以扶桑皮爲紙。無兵甲、不攻戦。其國法、有南北獄。若犯徑者入南獄、重罪者入北獄。有赦則赦南獄、不赦北獄。在北獄者、男女相配、生男八歳爲奴、生女九歳爲婢。犯罪之身、至死不出。貴人有罪、國乃大曾、坐罪人於坑、對之宴飮、分訣若死別焉。以灰繞之、其一重則一身屏退、二重則及子孫、三重則及七世。名國王爲乙祁、貴人第一者爲大對盧、第二者爲小對盧、第三者爲納咄沙。國王行有鼓角導從。其衣色随年改易、甲乙年青、丙丁年赤、戊己年黄、庚辛年白、壬癸年黒。有牛角甚長、以角載物、至勝二十斛。車有馬車、牛車。鹿車。國人養鹿、如中國畜牛。以乳爲酪。有桑梨、徑年不壊。多蒲桃。其地無鐡有銅、不貴金銀。市無租估。其婚姻、壻往女家門外作屋、農夕灑掃、徑年而女不悦、即驅之、相悦乃成婚。婚禮大低與中國同。親喪、七日不食、祖父母喪、五日不食、兄弟伯叔姑姉妹、三日不食。設靈爲神像、朝夕拜奠、不制縗絰。嗣王立、三年不視國事。其俗舊無佛法、宋大明二年、罽賓國嘗有比丘五人游行至其國、流通佛法、經像、教令出家、風俗遂改。」慧深又云「扶桑東千餘里有女國}}(以下略)<blockquote>扶桑國、在昔未聞也。普通中、有道人稱自彼而至、其言元本尤悉、故扞録焉。(中略)扶桑國者、齊永元元年、其國有沙門慧深來至荊州、説云「扶桑在大漢國東二萬餘里、地在中国之東、其土多扶桑木、故以爲名。扶桑葉似桐、而初生如笋、國人食之、實如梨而赤、績其皮爲布以爲衣、亦以爲綿。作板屋。無城郭。有文字、以扶桑皮爲紙。無兵甲、不攻戦。其國法、有南北獄。若犯徑者入南獄、重罪者入北獄。有赦則赦南獄、不赦北獄。在北獄者、男女相配、生男八歳爲奴、生女九歳爲婢。犯罪之身、至死不出。貴人有罪、國乃大曾、坐罪人於坑、對之宴飮、分訣若死別焉。以灰繞之、其一重則一身屏退、二重則及子孫、三重則及七世。名國王爲乙祁、貴人第一者爲大對盧、第二者爲小對盧、第三者爲納咄沙。國王行有鼓角導從。其衣色随年改易、甲乙年青、丙丁年赤、戊己年黄、庚辛年白、壬癸年黒。有牛角甚長、以角載物、至勝二十斛。車有馬車、牛車。鹿車。國人養鹿、如中國畜牛。以乳爲酪。有桑梨、徑年不壊。多蒲桃。其地無鐡有銅、不貴金銀。市無租估。其婚姻、壻往女家門外作屋、農夕灑掃、徑年而女不悦、即驅之、相悦乃成婚。婚禮大低與中國同。親喪、七日不食、祖父母喪、五日不食、兄弟伯叔姑姉妹、三日不食。設靈爲神像、朝夕拜奠、不制縗絰。嗣王立、三年不視國事。其俗舊無佛法、宋大明二年、罽賓國嘗有比丘五人游行至其國、流通佛法、經像、教令出家、風俗遂改。」慧深又云「扶桑東千餘里有女國(以下略)<br />(扶桑国の話は以前はなかったが、[[普通 (梁)|普通]]年間 (扶桑国の話は以前はなかったが、普通年間 ([[520年]]–[[527年]])、扶桑国から来たと言う者の話を記す。(中略)520年–527年)、扶桑国から来たと言う者の話を記す。(中略)<br/>[[永元 (南朝斉)|永元]]元年(永元元年([[499年]])、扶桑国の僧慧深が[[荊州]]に来て言った。)、扶桑国の僧慧深が荊州に来て言った。<br/>「扶桑国は大漢国の東二万余里(8700km余)、中国の東方にある。「扶桑の木」が多いことからその名がある。扶桑の[[葉]]は[[桐]]に似て、生え始めは[[タケノコ]]のようで、扶桑国人は食用にする。[[果実|実]]は[[梨]]のようで赤く、その[[皮]]を[[紡績|績いで]]布にして衣類や[[綿]]にしたり[[屋根]]を葺いたりする。文字はあり、扶桑の皮でできた紙に書く。城郭はなく、兵士や武装はなく、戦争をしかけない。「扶桑国は大漢国の東二万余里(8700km余)、中国の東方にある。「扶桑の木」が多いことからその名がある。扶桑の葉は桐に似て、生え始めはタケノコのようで、扶桑国人は食用にする。実は梨のようで赤く、その皮を績いで布にして衣類や綿にしたり屋根を葺いたりする。文字はあり、扶桑の皮でできた紙に書く。城郭はなく、兵士や武装はなく、戦争をしかけない。<br/>南北2つの[[監獄]]があり、軽罪の者は南獄、重罪の者は北獄に入る。南獄には[[恩赦]]があるが北獄にはない。北獄では男女を番わせ、生まれた男児は8[[数え年|歳]]・女児は9歳で[[奴婢]]とし、罪人自身は一生出られない。[[貴人]]が有罪となれば、穴の中に座らせ、[[酒宴]]を開いて処刑し、その上に[[南北2つの監獄があり、軽罪の者は南獄、重罪の者は北獄に入る。南獄には恩赦があるが北獄にはない。北獄では男女を番わせ、生まれた男児は8歳・女児は9歳で奴婢とし、罪人自身は一生出られない。貴人が有罪となれば、穴の中に座らせ、'''酒宴を開いて処刑'''し、その上に''']]を撒く。[[初犯]]なら当人が責を受けるだけだが、[[再犯]]なら子と孫、三犯なら7世に及ぶ。'''を撒く。初犯なら当人が責を受けるだけだが、再犯なら子と孫、三犯なら7世に及ぶ。<br/>[[国王]]の名は乙祁。貴人(「祁貴人」が王の名の可能性あり)の第1位は大対盧、第2位は小対盧、第3位は納咄沙と呼ぶ。国王が行くときには[[鼓笛]]を従える。その衣の色は年により変わり、[[甲]][[乙]]年は青、[[丙]][[丁]]年は赤、[[戊]][[己]]年は黄、[[庚]][[辛]]年は白、[[壬]][[癸]]年は黒である。国王の名は乙祁。貴人(「祁貴人」が王の名の可能性あり)の第1位は大対盧、第2位は小対盧、第3位は納咄沙と呼ぶ。国王が行くときには鼓笛を従える。その衣の色は年により変わり、甲乙年は青、丙丁年は赤、戊己年は黄、庚辛年は白、壬癸年は黒である。<br/>[[ウシ|牛]]の[[角]]は非常に長く、20[[斛]](540[[キログラム|kg]]、1斛≒57kg)以上を運ぶ。[[馬車]]、[[牛車]]にくわえ、[[鹿]]車がある。中国人が牛を飼うように、扶桑国人は鹿を飼い、[[乳]]から[[乳製品]]を作る。桑、梨、の角は非常に長く、20斛(540kg、1斛≒57kg)以上を運ぶ。馬車、牛車にくわえ、鹿車がある。中国人が牛を飼うように、扶桑国人は鹿を飼い、乳から乳製品を作る。桑、梨、[[フトモモ]]がある。[[鉄]]はないが[[銅]]([[青銅]]か)はあり、[[金]][[銀]]はふんだんにある。[[市場]]では[[税金]]がかからない。がある。鉄はないが銅(青銅か)はあり、金銀はふんだんにある。市場では税金がかからない。<br/>[[結婚]]するときは、[[婿]]が女の家へ行き、門外に建物を作り朝夕掃除する。女が喜ばなかったら取り壊し、喜べば成婚となる。[[結婚式]]は中国とほぼ同じである。結婚するときは、婿が女の家へ行き、門外に建物を作り朝夕掃除する。女が喜ばなかったら取り壊し、喜べば成婚となる。結婚式は中国とほぼ同じである。<br/>[[親]]の[[喪]]には7日間[[絶食]]する。[[祖父母]]は5日間、[[兄弟姉妹]][[おじ]][[おば]]は3日間である。死者の霊を[[神像]]とし、朝夕拝む。(先王が死んで親の喪には7日間絶食する。祖父母は5日間、兄弟姉妹おじおばは3日間である。死者の'''霊を神像とし'''、朝夕拝む。(先王が死んで?)王の跡継ぎが立ったときには、3年間国事に関わらなかった。<br/>かつては[[仏教]]はなかったが、[[大明 (南朝宋)|大明]]2年([[458年]])、[[罽賓国]]([[ガンダーラ]]・[[カシミール]]近辺)から5人の僧が来て[[仏典]]と[[仏像]]をもたらし[[出家]]を勧めたので、風俗は変化した」かつては仏教はなかったが、大明2年(458年)、罽賓国(ガンダーラ・カシミール近辺)から5人の僧が来て仏典と仏像をもたらし出家を勧めたので、風俗は変化した」<br/>また慧深はこうも言った。「扶桑の東1000余里(430km)に[[女国]]があり、(以下略、一部意訳))また慧深はこうも言った。「扶桑の東1000余里(430km)に女国があり、(以下略、一部意訳))|『梁書』巻54 列伝第48 諸夷 海南 東夷 西北諸戎 扶桑國<ref>{{Cite wikisource|title=梁書/卷54#.E6.89.B6.E6.A1.91.E5.9C.8B|author=, 姚思廉|wslanguage=zh}}</ref>}}</blockquote>
== 植物の比定 ==

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