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=== 宋書 ===
『[[宋書]]』巻22志第12楽4([[楽志]])「白紵舞」歌の1つで『宋書』巻22志第12楽4(楽志)「白紵舞」歌の1つで {{Quotation|{{Lang|zh-tw|<blockquote>東造扶桑游紫庭 西至崑崙戯増城}}<br />(東、扶桑に造りて紫庭に游び、西、[[崑崙]]に至りて増城に戯る)|, 『宋書』巻22志第12樂志四<ref>{{Cite wikisource|title=宋書/卷22|author=, 沈約|wslanguage=zh}}</ref> 載及 白紵舞 歌詩三篇之二}}</blockquote> と、[[対句]]で崑崙と対にされ地名のように扱われている。タイトルの「(白)紵」([[カラムシ]])というのは[[呉 (春秋)|呉]]に産する織物である。と、対句で崑崙と対にされ地名のように扱われている。タイトルの「(白)紵」(カラムシ)というのは呉に産する織物である。
=== 梁書 ===
『[[梁書]]』によると、[[僧]]慧深(けいしん)が[[普通 『梁書』によると、僧慧深(けいしん)が普通年間 (梁)|普通]]年間 ([[520年]]–[[527年]])に扶桑という国から[[梁 (南朝)|梁]]へやってきたという。扶桑の所在地については、[[倭国]]の東北7000余[[里 (尺貫法)|里]](3000km余、[[漢代]]の里 520年–527年)に扶桑という国から梁へやってきたという。扶桑の所在地については、倭国の東北7000余里(3000km余、漢代の里 434[[メートル|m]]、以下換算にはこの値を使う)に[[文身国]]が、その東5000余里(2200km余)に[[大漢国]]があり、大漢国の東2万余[[里 (尺貫法)|里]](8700km余)に扶桑がある。ただし、倭国・文身国・大漢国までについては[[地の文]]で事実として書かれているが、扶桑についてはその位置も含め、慧深の証言という形で書かれている。また、地の文の大漢国と慧深の言う大漢国が同じものかもはっきりしない。434m、以下換算にはこの値を使う)に文身国が、その東5000余里(2200km余)に大漢国があり、大漢国の東2万余里(8700km余)に扶桑がある。ただし、倭国・文身国・大漢国までについては地の文で事実として書かれているが、扶桑についてはその位置も含め、慧深の証言という形で書かれている。また、地の文の大漢国と慧深の言う大漢国が同じものかもはっきりしない。
{{Quotation|{{Lang|zh-tw|扶桑國、在昔未聞也。普通中、有道人稱自彼而至、其言元本尤悉、故扞録焉。(中略)扶桑國者、齊永元元年、其國有沙門慧深來至荊州、説云「扶桑在大漢國東二萬餘里、地在中国之東、其土多扶桑木、故以爲名。扶桑葉似桐、而初生如笋、國人食之、實如梨而赤、績其皮爲布以爲衣、亦以爲綿。作板屋。無城郭。有文字、以扶桑皮爲紙。無兵甲、不攻戦。其國法、有南北獄。若犯徑者入南獄、重罪者入北獄。有赦則赦南獄、不赦北獄。在北獄者、男女相配、生男八歳爲奴、生女九歳爲婢。犯罪之身、至死不出。貴人有罪、國乃大曾、坐罪人於坑、對之宴飮、分訣若死別焉。以灰繞之、其一重則一身屏退、二重則及子孫、三重則及七世。名國王爲乙祁、貴人第一者爲大對盧、第二者爲小對盧、第三者爲納咄沙。國王行有鼓角導從。其衣色随年改易、甲乙年青、丙丁年赤、戊己年黄、庚辛年白、壬癸年黒。有牛角甚長、以角載物、至勝二十斛。車有馬車、牛車。鹿車。國人養鹿、如中國畜牛。以乳爲酪。有桑梨、徑年不壊。多蒲桃。其地無鐡有銅、不貴金銀。市無租估。其婚姻、壻往女家門外作屋、農夕灑掃、徑年而女不悦、即驅之、相悦乃成婚。婚禮大低與中國同。親喪、七日不食、祖父母喪、五日不食、兄弟伯叔姑姉妹、三日不食。設靈爲神像、朝夕拜奠、不制縗絰。嗣王立、三年不視國事。其俗舊無佛法、宋大明二年、罽賓國嘗有比丘五人游行至其國、流通佛法、經像、教令出家、風俗遂改。」慧深又云「扶桑東千餘里有女國}}(以下略)

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