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23 バイト除去 、 2022年11月21日 (月) 18:44
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<br />(扶桑国の話は以前はなかったが、普通年間 (520年–527年)、扶桑国から来たと言う者の話を記す。(中略)<br/>
永元元年([[499年]])、扶桑国の僧慧深が荊州に来て言った。<br/>
「扶桑国は大漢国の東二万余里(8700km余)、中国の東方にある。「扶桑の木」が多いことからその名がある。扶桑の葉は桐に似て、生え始めはタケノコのようで、扶桑国人は食用にする。実は梨のようで赤く、その皮を績いで布にして衣類や綿にしたり屋根を葺いたりする。文字はあり、扶桑の皮でできた紙に書く。城郭はなく、兵士や武装はなく、戦争をしかけない。<br/>南北2つの監獄があり、軽罪の者は南獄、重罪の者は北獄に入る。南獄には恩赦があるが北獄にはない。北獄では男女を番わせ、生まれた男児は8歳・女児は9歳で奴婢とし、罪人自身は一生出られない。貴人が有罪となれば、穴の中に座らせ、'''酒宴を開いて処刑'''し、その上に'''灰'''を撒く。初犯なら当人が責を受けるだけだが、再犯なら子と孫、三犯なら7世に及ぶ。<br/>国王の名は乙祁。貴人(「祁貴人」が王の名の可能性あり)の第1位は大対盧、第2位は小対盧、第3位は納咄沙と呼ぶ。国王が行くときには鼓笛を従える。その衣の色は年により変わり、甲乙年は青、丙丁年は赤、戊己年は黄、庚辛年は白、壬癸年は黒である。<br/>[[ウシ|牛]]の角は非常に長く、20斛(540kg、1斛≒57kg)以上を運ぶ。馬車、牛車にくわえ、鹿車がある。中国人が牛を飼うように、扶桑国人は鹿を飼い、乳から乳製品を作る。桑、梨、[[フトモモ]]がある。鉄はないが銅(青銅か)はあり、金銀はふんだんにある。市場では税金がかからない。<br/>結婚するときは、婿が女の家へ行き、門外に建物を作り朝夕掃除する。女が喜ばなかったら取り壊し、喜べば成婚となる。結婚式は中国とほぼ同じである。<br/>親の喪には7日間絶食する。祖父母は5日間、兄弟姉妹おじおばは3日間である。死者の'''霊を神像とし'''、朝夕拝む。(先王が死んで?)王の跡継ぎが立ったときには、3年間国事に関わらなかった。<br/>かつては仏教はなかったが、大明2年(458年)、罽賓国(ガンダーラ・カシミール近辺)から5人の僧が来て仏典と仏像をもたらし出家を勧めたので、風俗は変化した」<br/>また慧深はこうも言った。「扶桑の東1000余里(430km)に女国があり、(以下略、一部意訳))|『梁書』巻54 また慧深はこうも言った。「扶桑の東1000余里(430km)に女国があり、(以下略、一部意訳))(『梁書』巻54 列伝第48 諸夷 海南 東夷 西北諸戎 扶桑國<ref>梁書/卷54#.E6.89.B6.E6.A1.91.E5.9C.8B, 姚思廉姚思廉)</ref></blockquote>
== 植物の比定 ==
扶桑の木を実際の[[クワ]]のこととみなす場合もあるが、『梁書』の扶桑の木の説明では実際のクワとは異なっているので、これを実在の様々な植物の特徴を繋ぎあわせた架空植物とする説や、後述の扶桑国メキシコ説の場合では[[トウモロコシ]]もしくは[[リュウゼツラン]]とする説がある。また[[愛媛県]][[伊予市]]の森海岸に露出している郡中層にはのこととみなす場合もあるが、『梁書』の扶桑の木の説明では実際のクワとは異なっているので、これを実在の様々な植物の特徴を繋ぎあわせた架空植物とする説や、後述の扶桑国メキシコ説の場合ではトウモロコシもしくはリュウゼツランとする説がある。また愛媛県伊予市の森海岸に露出している郡中層には[[メタセコイア]]等の多くの化石植物が含まれているが、この化石植物群は古くから扶桑木と呼ばれている<ref>[http://www.city.iyo.lg.jp/shisetsu/shisetsu/bunka/bunka-007.html 【県指定文化財】扶桑木(珪化木)<天然記念物>]</ref>。他にも[[ハイビスカス]](ブッソウゲの栽培種、中国南部原産)の別名を扶桑ともいう。。他にもハイビスカス(ブッソウゲの栽培種、中国南部原産)の別名を扶桑ともいう。
== 地理の比定 ==
=== 日本の別名とする説 ===
日本の別称として用いた例としては、[[1094年]]の[[史書]]『扶桑略記』のタイトルの用例が見られるが、それ以前にも多くあり、最古の用例は貞観元年(859)の例がある。日本をわざわざ扶桑という別名でよぶのは、外交関係ないし対外的に中国を意識した漢詩や仏教関係で使われることが多かった。日本の別称として用いた例としては、1094年の史書『扶桑略記』のタイトルの用例が見られるが、それ以前にも多くあり、最古の用例は貞観元年(859)の例がある。日本をわざわざ扶桑という別名でよぶのは、外交関係ないし対外的に中国を意識した漢詩や仏教関係で使われることが多かった。
[[室町時代]]に作成された[[行基図]](地図)には、『日本扶桑国之図』というタイトルが付されている<ref>{{Cite web |date= 2018-06-15|url= http://www.yomiuri.co.jp/culture/20180615-OYT1T50074.html|title= 最古級の日本全図、室町初期作か|publisher= 読売新聞|accessdate=2018-06-15}}</ref>。

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