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3,577 バイト追加 、 2022年3月1日 (火) 01:12
2について。粟の霊を怒らせると、鳥になって飛び去るという物語(2)は、粟が鳥と同一のものとみなされていることが分かる。現実的には鳥と植物は別々のものなのだが、「鳥と植物の一体化」が既に紀元前1000年頃の中国では始まっていた、という証拠になると思う。なぜなら、「鳥仙女が穀物を持って下降してきて、人々に耕作を教えた」となれば、鳥仙女と穀物は別々のもので、穀物を食べても、それは鳥仙女を同様に食べても良い、ということには繋がらない。鳥=穀物、ということになれば、それは'''下降してきた鳥仙女を穀物と同じ物として食べてもよい'''、ということにはならないだろうか。ハイヌウェレ神話は、一方で人々を支配するムルア・サテネがいるのに、すでに下位の女神は「芋と同じ物として殺して食べてもよい」という存在に変化している。河伯に人身御供を捧げるのみならず、女神を作物の支配者から、作物そのものに変更することで、'''新たな「人身御供」の定義が出現した'''とみるべきであるし、やはり過渡期の物語であると思う。女性(女神)を害すと罰を受ける、という要素も残っているからである。作物は元々「神が支配するもの」であったのだから、「女神が作物と同じ物」とされて、その地位が低下することは、社会的には'''女性の地位の低下'''を意味するのではないだろうか。そして、ハイヌウェレ神話を元にした祭祀が存在するならば、ムルア・サテネの人類に対する復讐はもはや何の意味も持たず、殺される女性達は「ただ作物だから」という理由だけで、人間扱いもされずに殺されることになるだけである。そのため、「粟=鳥」とみなす思想は、女性(鳥)を穀物扱いし、人身御供とすることを正当化する思想へと繋がる、実は危険な思想というべきであると考える。
3について。豚と瓢の起源譚、とはいえ、家畜である豚を何故食べてはいけないのか、という疑問を含む伝承である。瓢は中国の神話では、大洪水の際に伏羲がひょうたんに乗って逃れた、という神話的に非常に重要なアイテムである。台湾にも大洪水の伝承があるし、少なくとも古代中国の「伏羲と大洪水」の神話が紀元前1000年よりも前に成立し、台湾にも伝播していた証拠と言える。「豚神の屠殺の禁止」は、実のところ羿神話の思想とは逆向きの「人身御供肯定」に繋がる思想である(その点についてはおいおい述べる)。鳥ではなくて'''瓢'''が天から降りてくる、という神話は父系の分化がかなり進んでからの神話なのではないか、と思う。伏羲は現代にまで「人々の運命を決める神」として名前が残されてるし、男性であるので父系分化の神であることは明らかである。また瓢に乗ることは、「自分達はすでに、太陽女神も、その部下の鳥仙女も必要とせずに天界と交通できる。」という意志の表れのように思われるからである。が天から降りてくる、という神話は父系の文化がかなり進んでからの神話なのではないか、と思う。伏羲は現代にまで「人々の運命を決める神」として名前が残されてるし、男性であるので父系文化の神であることは明らかである。また瓢に乗ることは、「自分達はすでに、太陽女神も、その部下の鳥仙女も必要とせずに天界と交通できる。」という意志の表れのように思われるからである。 4について。ハイヌウェレ的であり、特に芋類について「死体化生」の思想が強く進められていたことが分かる。ただし、「甘薯は葛の根より得たり」とあり、死体のせいで葛が芋に変化した、ととれる内容である。『山海経』には、中国南部にある食物神・后稷の墓の周りには、穀物が自然に生じているとの記述がある、とのことなので、「死体が直接作物に変化する」、という形式よりも、「死体の働き掛けで環境が変化して作物が誕生した」という形式の方が古い形なのではないだろうか、と思う。「死んだ神(=黄泉の神)」が登場し、その神は自然に作物を発生させることができるのである。これも父系の文化の思想なのではないだろうか。このようにして、太陽女神と鳥仙女達は、どんどん「必要性」を神話の上から奪われているように思う。「死んだ神」が作物を自然発生させるために、新たな人身御供であるハイヌウェレを種芋として求めるようになるにはもう1歩、というところなのだと思う。死んだ神はハイヌウェレという花嫁を得て、芋という子供を発生せしめるのである。これすなわち、花嫁を求める河伯の神話の焼き直し、と言わざるを得ないのではないだろうか。 === まとめ ===というわけで、特に4については、「ハイヌウェレ型」の神話ではない、と私は思う、というのが最大の結論である。岩見の狭姫の伝承は、鳥仙女の開拓の伝承を残して当然、と思う人々の非常に強い意思に基づいて残されたものなのではないだろうか、と思う。そして、イラン神話では、霊鳥シームルグは必ずしも雌であるとはされないが、タジキスタンの民話では「母なるシームルグ」とたびたび呼ばれており、この霊鳥の本来の姿は雌であることと、人々に助言を与えて助けるその姿は狭姫の姿と大きく重なり、母系の鳥仙女の性質をうかがい知るのに重要だと感じる。一方、ハイヌウェレの神話は、強力な女神ムルア・サテネと、殺される下位の女神ハイヌウェレが存在し、ハイヌウェレの死は、彼女が種芋に変身するというよりも、「黄泉の神」に嫁入りして種芋を生む、というのがその本質、というか本来の神話であったのではないか、と思う。ハイヌウェレ神話的な祭祀で殺される娘は、「死んだ神(=黄泉の神)」に扮した祭祀者の妻にされて殺される。妻になった上で、彼女からは芋や椰子が生まれることが期待されるのである。そして、こうやって殺された娘に、「黄泉の国」での強力な権力を与えて、結局アドーニスやタンムーズを殺す権利を与えてしまっているのが、西方の人々のすごいところだと思う。つまり、ハイヌウェレ神話の最大の類話であり、ハイヌウェレのこの世界での最大の姉妹は、ギリシア神話の「ペルセポネ-」なのである。ムルア・サテネはデーメーテールに相当する。ハーデースのペルセポネー略奪の神話を「ハイヌウェレ型神話」と定義してくれれば、私はイェンゼンを許そうと思う。
== 扶桑と養蚕 ==

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