太陽と木と鳥2

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農耕に関する神話は重要なものである。しかし、一番変遷が激しいのも、農耕に関する神話なのだと思う。

旅する豚[編集]

東アジアでは中国の新石器時代から豚は家畜化されていた。豚や猪は神話的にも重要な動物で、羿は桑林に住んでいた封豨(ほうき)という人食いの猪を退治している。河姆渡文化の遺跡からは、「猪紋黒陶鉢」といって、胴に目の文様がついた猪が描かれた鉢が出土している[1]

中国南部を発祥地とするオーストロネシア語族は南太平洋にまで豚を連れて行った。紀元前10世紀頃から始まったオーストロネシア語族の拡散にともなって豚も海を渡り、メラネシアやポリネシアの多くの島々で重要な家畜となった。オーストロネシア語族(オーストロネシアごぞく)は、台湾から東南アジア島嶼部、太平洋の島々、マダガスカルに広がる。オーストロネシア語は台湾原住民諸語との類縁性があり、この台湾原住民の諸語が言語学的にもっとも古い形を保っている。考古学的な証拠と併せて、オーストロネシア語族は台湾からフィリピン、インドネシア、マレー半島と南下し、西暦 5 世紀にインド洋を越えてマダガスカル島に達し、さらに東の太平洋の島々に拡散したとされる。

そのため、台湾から南太平洋に、豚と共に拡散した人々は、初期の稲作文化を含む、紀元前1000年以前の中国南部の神話・伝承も、共に台湾を始めとした南太平世に持っていったと思われるのである。

農耕の始め[編集]

古代中国では、農耕を人々に教えたのは神農という神だと言われている。伝説によると神農は、木材をつかって農具をつくり、土地を耕作して五穀の種をまき、農耕をすることを人々に伝えた。また、薬となる植物の効用を知らせたとされる。神農はまず赤い鞭(赭鞭)で百草(たくさんの植物)を払い、それを嘗めて薬効や毒性の有無を検証した、と言われている。神農は、あまりに多くの毒草を服用したために、体に毒素が溜まってしまい、最終的には罌子(ケシ)を服用したとき亡くなったという[2][3][4]四川省に伝わる民間伝承では「断腸草」という草を嘗めたのが最後で、腸がちぎれて死んだともされる。つまり、水稲耕作も神農が人々が教えた、というのが文献に残る古代中国の稲作の起源の神話である。

『淮南子』に、「古代の人は、(手当たり次第に)野草、水、木の実、ドブガイ・タニシなど貝類を摂ったので、時に病気になったり毒に当ったりと多く苦しめられた。このため神農は、民衆に五穀を栽培することや適切な土地を判断すること(農耕)。あらゆる植物を吟味して民衆に食用と毒草の違い、飲用水の可否(医療)を教え、民衆に知識を広めた。まさにこのとき多くの植物をたべたので神農は1日に70回も中毒した」とある[5]

神農の神話は、稲作が発生した当時の太陽信仰の投影が乏しいように思える。西王母と神農の関連が明確でないからである。「不死の霊薬」の所持者であった西王母の姿と、「医薬の神」である神農との間には、「薬」という共通点に、わずかに連続性があることを伺わせるが、それが直接連続して変化したものなのか、西王母とは異なる神が西王母の性質の一部を吸収して神農となったのかもはっきりしない。


一方、古代日本には記紀神話があり、天照大神の孫神である「ホノニニギの命(稲穂が実る様の神格化)」が天から降りてきた、という「天孫降臨神話」がある。おそらく、世界各地の農耕起源神話としては、類を見ない複雑なものと思われるが、天孫が降臨する際の先触れの神々、供をする神々、道中で出会う神、と天孫以外にも多くの神々が登場する。しかも、天孫は降臨するのだが、誰かが人々に稲作を教えた、という記述はないようである。稲以外の穀類や野菜類については、共に降臨したのか、元から勝手に大地に存在したのかもはっきりしない。要するに、日本の正式な「農耕起源神話」は、子孫とされる天皇家の権威付けとしての面がとても強く、現実的な実務としての農業を発展させたり、保護したり、という面が非常に乏しいのが一大特徴といえる。しかし、稲作が発生した当初は、そもそも王権というものが存在しない時代であるので、「王権のための神話」は当然、王権が発生した後に作られたもので、本来の農耕起源神話とは大きく異なるものである可能性がある。しかも、日本の神話には、ホノニニギの命の他に、大気都比売神の死体から穀物が生まれた、という伝承があり、穀物が何故、天照大神の孫とされたのか、経緯がはっきりしない。


よって、中国に伝わる神話も、日本に伝わる神話も、「農耕起源」、特に「水稲起源」としては、本来の姿をあまりとどめていないと思われる。仮に、ものすごく単純に、不死の霊薬(酒)の場合と同様、

西王母の使いの鳥仙女が、地上に穀物の種と農耕技術を伝えた。

という神話があったとする。もしそうであったならば、既存の神話から、どれだけ元の姿にまで迫れるのか、ということになる。

出雲の神話と伝承[編集]

1.大国主命神話

記紀神話では、大国主命が少名毘古那神(すくなびこなのかみ)と組んで、国造りを行った、とある。

「古事記」では、大国主が出雲の美保岬にいたとき、鵝(蛾の誤りとされる)の皮を丸剥ぎにして衣服とする小さな神が、海の彼方から天の羅摩船(あめのかがみのふね)に乗って現れた。大国主はその小さな神に名を尋ねたが、答えがなく、従者もその名を知らなかった。そこにヒキガエルの多邇具久が現れて、「これは久延毘古(クエビコ)なら知っているでしょう」と言った。久延毘古に尋ねると、「その神は神産巣日神の御子の少名毘古那神である」と答えた。久延毘古は山田のかかしで、歩行できないが、天下のことは何でも知っている神である。神産巣日神は少名毘古那を自分の子と認め、少名毘古那に大国主と一緒に国造りをするように言った。大国主と少名毘古那は協力して葦原中国の国造りを行った。その後、少名毘古那は常世に去った。大国主は、「これから一人でどうやって国を造れば良いのか」と言った。

少名毘古那神は天から降りてきた点が「鳥神」を思わせる。そして役目を終えると再びこの国を去る。大国主命と少名毘古那神が、具体的、特に技術的にどのような国造りを行ったのか、古事記では明らかではない。物語の中に「かかしの神」が登場し、かかしとは田(稲作の場)につきものであるから、彼らが稲作に関連したことが示唆されるけれども、記紀神話の時代的には天孫降臨の方が後になるので、天孫降臨までの間に水稲耕作があったとされるのか否かが、神話的にははっきりしない。

日本書紀では

第八段 一書第六に、「大己貴命(おおあなむち)と少彦名命(すくなひこな)は協力して天下(あめのした)を営んだ。この世の人々や家畜のために、病の治療法を定め、鳥獣や昆虫の害を攘(はら)う為に、禁(とど)め厭(はら)う法(禁厭=呪(まじな)い)を定めた。以来人々はみなその恩恵を蒙(こうむ)っている」とある。

こちらでも、大国主命と少名毘古那神が水稲耕作を人々に教えたかどうかは定かではない。彼らが医薬神としての性質を持つのは神農との類似点であり、神農神話の影響が示唆される。逆に考えれば、神農神話には、神農を助けてくれる「小さな鳥神」は登場しないので、これは元々存在していたものが神農神話では削除されてしまったものか、それとも大国主神話に新たに付け加えられたものなのか、という点は興味深く感じる。

2.乙子狭姫

乙子狭姫(おとごさひめ)は島根県石見地方の伝説に登場する女神。単に狭姫とも。母神は古事記に登場するオオゲツヒメ。粗筋は以下の通り。

太古の昔、赤雁に乗って穀物の種を伝えた狭姫という女神がいた。狭姫の母神はオオゲツヒメといい、身体のどこからでも食物を出すことができた。あるとき、心の良くない神がオオゲツヒメの身体にはどんな仕掛けがあるのかと面白半分にヒメを斬ってしまった。息も絶え絶えなオオゲツヒメは狭姫を呼び、「お前は末っ子で身体も小さい。形見をやるから安国へ行って暮らすがよい」と言って息を引き取った。と、見る見るうちにオオゲツヒメの遺体から五穀の種が芽生えた。狭姫は種を手にすると、そこにやって来た赤雁の背に乗って旅だった。

海を渡って疲れた赤雁が高島(現益田市)で休もうとしたところ、大山祇(オオヤマツミ)の使いの鷹が出てきて「我は肉を喰らう故、五穀の種なぞいらん」と狭姫を追い払った。続いて須津(現浜田市三隅町)の大島で休もうとしたところ鷲が出てきて同じように追い払った。

しかたなく力を振り絞った狭姫と赤雁は鎌手大浜(現益田市)の亀島で一休みして、そこから赤雁(現益田市)の天道山に降り立った。更に比礼振山(現益田市)まで進むと、周囲に種の里を開いた。神も人も喜び、狭姫を種姫と呼んであがめた。

ある日のこと、種の里を出た狭姫は巨人の足跡に出くわした。土地のものに聞くと、大山祇巨人のことだという。巨人が迫って、土地の者は逃げ出した。狭姫も逃げ惑ったが、小さい身体ゆえどうにもならない。命からがら逃げ帰った狭姫だが、巨人たちがいると安国を造ることはできないと考えた。赤雁の背に乗って出かけた狭姫だったが、とある山に空いた大穴からいびきが聞こえてくる。「そこにいるのは誰か?」と問うと、「自ら名乗らず他人の名を訊くとは何事だ」と返ってきた。声の主はオカミ(淤加美神)といって大山祇の子だった。恐ろしくてならない狭姫だったが、勇気を振り絞って、では直接お会いしたいと強い調子で申し出ると、オカミは「我は頭が人で体が蛇だから神も人も驚いて気を失うだろう。驚かすのはよくないことだ。それより我が兄の足長土に会い給え」と述べた。狭姫は「オカミは雨を降らす良い神だが、大山祇巨人と足長土[6]はどこかに追いやらなければならない。」と考えた。

赤雁に乗って国中駆け回った狭姫は三瓶山の麓を切り開いて巨人たちを遊ばせることを思いつく。帰路についた狭姫は巨人の手長土に出会った。「夫はいるか?」と問うと、「かような長い手ですもの」と手長土は自らを恥た。「私も人並み外れたちびだけど、種を広める務めがある。御身にも務めがあるはず」といって、狭姫は足の長い足長土を娶せた。手の長い手長土と足の長い足長土は夫婦で力を合わせて幸せに暮らしたという。オカミは後に八幡の神と入れ替わって岡見にはいないが、今でも時化の前には大岩を鳴らして知らせてくれるという。

「オオゲツヒメの死体から五穀の種が生えてきたという点でハイヌウェレ型神話に分類される。」とのことである。

狭姫は雁に乗って地上に降り立っており、鳥の化身といえる。その姿は少名毘古那神に似る。

物語の前半で、狭姫が上位の女神の言いつけで地上に降り立つ点は、ホノニニギの命と類似する。ホノニニギの命は天照大神の孫神とされる一方、狭姫はオオゲツヒメの娘神である。記紀神話と照らし合わせると、記紀ではオオゲツヒメよりも更に上位の神々が存在するので、高位の神々からみれば、狭姫は「孫神」といってよいほど、身分の低い神であるともいえる。狭い姫の場合は五穀を持っていることが明らかなので、人々に水稲耕作を教えた、といえる。

後半では、国を脅かす巨人対策を行う狭姫である。ただし、いわゆる「英雄譚」のように怪物を退治するのではなく、巨人を説得し、彼らにも居場所を作ることで問題を解決する。


物語の後半部分が、「怪物を説得する」という形式に変えられていても、元は「怪物退治」の物語が変形したものといえるので、狭姫の伝説の後半部分は、いわゆる羿神話に近い物語である。

前半部分は、狭姫はホノニニギの命とも、少名毘古那神とも類似点がある。酒や霊薬と関係した、との逸話はないので、嫦娥的な性質を伴った女神であったかどうかは分からない。嫦娥が「罰を受ける女神」だったとするならば、狭姫の場合、嫦娥的なのは母親のオオゲツヒメの方だといえる。[7]

おそらく、乙子狭姫の物語は、記紀神話に併せて、連続性、類似性があるように変えられているが、本来は別の物語であったので、独立して残されたのではないか、と思われる。記紀神話に採用されなかった理由は、「天から、オオゲツヒメから派生した穀物(特に稲)がもたらされる」というイベントはホノニニギの命の独占エピソードとするため、という政治的な理由で排除されたのではないか、と思う。

まとめ[編集]

纏めると以下のようになる。

国・地域 上位の天の女神 下位の鳥神 開拓神 殺される神
中国 神農 (神農)
記紀・日本 天照大神 (天鳥船神) (ホノニニギの命) オオゲツヒメ
記紀・出雲 少名毘古那神 大国主命 (大国主命)
伝承・石見 オオゲツヒメ 狭姫 狭姫 オオゲツヒメ
ハイヌウェレ サテネ ハイヌウェレ アメタ ハイヌウェレ

狭姫と神農の姿には、開拓神である、という以外、あまり類似点がないため、その点からも狭姫と神農との物語の間には直接の関連はないのではないか、と考える。神農は殺されるわけではないのだが、人々のために薬を試して死ぬ。一種の「自己犠牲」の神である。天鳥船神は、直接ではないが、ホノニニギの命の降臨を補佐する。少名毘古那神の常世行きは「死」を暗示はさせるが、明確に「死んだ」とはされていないので、ここでは「死」の範囲には含めない。大国主命は焼けた石に殺されるが、再生される。

日本の記紀神話は、天照大神が下した穀物を、国つ神である大国主命が少名毘古那神の助けを借りて、国中に伝え、開拓した、とすれば、物語としては整合性がとれる。しかし、そうすると、大国主命が開拓した国を、なんで大国主命の子孫ではない天皇家が治めるのか、という点に疑問と矛盾が生じるので、一旦国を開拓のために大国主命に預けて、その後天皇家の先祖が譲り受ける、という筋書きにしようとして、し損ねたのではないか、と思う。

ちなみに中国では、「神農が開拓した国を黄帝が攻め取る」という展開になる。本当は日本の神話もそれに倣って、「大国主命が開拓した国を天孫が攻め取る」としたかったのかもしれないが、そうすればそうしたで、「じゃあ、朝廷に仕えている出雲系の氏族(大国主命の子孫)の立場はどうなるのか。」という政治的問題に発展する。中国の故事に倣って、日本の開拓神話を作ろうとして、グダグダな展開になったのでは、と個人的には思う。

ハイヌウェレ神話との物語の骨格の類似点から、狭姫の伝承の方が、古くから存在するものだと考える。

ハイヌウェレ[編集]

参考までにハイヌウェレの神話を挙げる。個人的には、インドネシアの伝承であるので、やはり中国南部の古い神話の影響を受けた物語だと思う。

ハイヌウェレ型神話(ハイヌウェレがたしんわ、ハイヌヴェレとも[8])とは、世界各地に見られる食物起源神話の型式の一つで、殺された神の死体から作物が生まれたとするものである。

その名前は、ドイツの民俗学者であるアードルフ・イェンゼン(Adolf Ellegard Jensen)が、その典型例としたインドネシア・セラム島のウェマーレ族(Wemale people)の神話に登場する女神の名前から命名したものである[9]

ウェマーレ族のハイヌウェレの神話は次のようなものである。ココヤシの花から生まれたハイヌウェレ(「ココヤシの枝」の意)という少女は、様々な宝物を大便として排出することができた。あるとき、その宝物を村人に配ったところ、村人たちは気味悪がって彼女を生き埋めにして殺してしまった。ハイヌウェレの父親は、掘り出した死体を切り刻んであちこちに埋めた。すると、彼女の死体からは様々な種類の芋が発生し、人々の主食となった。

アメタ(「黒、夜」等の意)という独身の男がいた。狩猟でイノシシ(野生豚)をしとめると、牙からココヤシの実が見つかった(そのとき世界にはまだココヤシの木は存在しなかった)。アメタはサロン・パトラ(蛇模様の布)(Sarong patola.)で覆って実を持ち帰ったが、夢に謎の男が現れ、その実を植えよとのお告げにしたがうと、3日で木に成長し、さらに3日後に開花した。アメタはヤシ酒を作ろうと木登りしたが、花を切ろうとして指を傷つけてしまい、血が花にほとばしった。すると花と血が人間のかたちとなり、9日後には少女に育っていた。その彼女をハイヌウェレ(ハイヌヴェレ、「ココヤシの枝」の意)と名づけ、蛇柄のサロン布に包んで持ち帰った。彼女には、いろいろな高価な品物を大便として排泄するという、不思議な能力が備わっていたので、アメタは富豪となった[10]

神聖な広場で、9夜連続のマロ踊り(Maro.)が開催された。踊り手はマロ踊り(螺旋)をえがきながら踊り、中央には女性たちが控えていて、清涼剤であるビンロウ(檳榔子)キンマ(蒟醤)の葉を配って渡す。ところがハイヌウェレは第二夜にビンロウジのかわりにサンゴを渡し、第三夜に中国製磁器、第四夜により豪華な磁器、第五夜に大きな山刀(イェンゼンのドイツ語原文では単に"große Buschmesser"だが(harvnb, Jensen, 1978, p=455)、目次を見れば他所でparangという刀が出ており、Buschmesserである。)、第六夜に銅製のシリー入れ、第六夜に銅鑼、とだんだんを高価な品を配った。人々はこれを気味悪がり、嫉妬心もあって、第九夜の踊りの最中に彼女を生き埋めにし、踊りながら穴を踏み鳴らし、悲鳴があがるのを歌声でかき消し、殺した[11]

アメタは占いで、娘が殺されたと知った。ココ椰子の葉肋を持って砂に突きさし、彼女が埋められた場所を突き止めた。そして彼女の両腕をのこし、それ以外の部分を細切れに刻んで広場のまわりの土地に埋めたところ、そこから世界に存在していなかったイモ類(ヤム芋やタロイモ)が生じ、その後の人類の主食となった[12]

アメタは娘の両腕を抱えて、人類を支配していたムルア・サテネ(mulua Satene、未熟バナナより発生したといわれる。)という女性を訪れ、訴えた。彼女は憤慨して人間界にいることをやめると宣言し、踊りのように九重の螺旋からなる門を築きあげて、すべての人間にそこを通るように命じて選別を始めた。命に従わないものは人間以外の者にされると忠告され、動物や精霊になってしまった。門をくぐる者たちも、大木に座るサテネの脇を抜けようとするが、すれ違いざまにハイヌウェレの片腕で殴られた。大木の左側に抜けようとしたものは五本の木の幹(あるいは竹)を飛び越さなくてはならず「パタリマ」(五つの人たち)(Patalima .)となり、右側に抜けようとしたものは九本を飛び越して「パタシワ」(九つの人たち)(Patasiwa .)となった。セラム島のウェマーレ族やアルーネ族(Alune people)は、「九つの人たち」に数えられる[13]

それまで世界は人間にとって死の無い楽園だったのに、ハイヌウェレ殺害後は、人類は定まった寿命を授かり、死後に門を通り、死の女神サテネに謁見しなくてはならなくなった。

この形の神話は、東南アジア、オセアニア、南北アメリカ大陸に広く分布し、それらはみな、芋類を栽培して主食としていた民族である。イェンゼンは、このような民族は原始的な作物栽培文化を持つ「古栽培民」と分類した。彼らの儀礼には、生贄の人間や家畜など動物を屠った後で肉の一部を皆で食べ、残りを畑に撒く習慣があり、これは神話と儀礼とを密接に結びつける例とされた[14]

個人的な解説[編集]

物語は四部構成である。

1.導入部。木の化身の乙女が宝を出し、養父を豊かにする。「竹取説話」と同じ物語である。

2.主部。かぐや姫は宝を配らなかったから殺されなかったけれども、ハイヌウェレは宝を配ったから殺されたのか、という感じの展開である。「竹取物語」と比較すれば、かぐや姫は「罰を受けて地上に追放される(仙女としては死である)けれども、ハイヌウェレは他人の嫉妬心から「罰を受ける」。かぐや姫とは「罰を受ける」場面が異なるけれども、「罰を受ける女神」である点が共通している。

3.展開部。「竹取物語」では、かぐや姫が「不死の霊薬」の持ち主であることが明らかとなるが、ハイヌウェレは「芋の化身」であったことが明らかとなる。芋がハイヌウェレの「持ち物」ではなくて、ハイヌウェレ自身とされている点は、「瓜子姫」のような設定であり、瓜子姫達がしばしば、受難にあったり、殺されたりするように、ハイヌウェレも殺される。

4.結部。ムルア・サテネ登場。人類を支配しているこの女神は、それまでは人々に「生」のみを与える存在だったのに、下位の女神のハイヌウェレの死をきっかけに人々に「死」を与える存在にもなる。サテネ自身も人の世を去る、と宣言する。日本の天照大神は、部下の織女の死をきっかけに岩戸に籠もる。これらは、すなわち、古代中国で、「下位の女神の死」とみなされる事件があり、それをきっかけにして、太陽女神であった西王母の性質が人々の間から消えてしまったことを指すのではないか、と思わずにいられない。すなわち、それは「太陽女神信仰の禁教と弾圧」である。それが紀元前10世紀よりも以前に起こったので、その歴史の記録がインドネシアと日本に伝播したのではないか、と思われる。

中国本土の「太陽女神」は「西王母」へと作り替えられ、「不死の霊薬」の持ち主も太陽女神から西王母へと変更された。嫦娥のように末端の「太陽女神」は月の女神に変更された。そして、「太陽女神信仰の弾圧の責任者」は太陽を射落とした羿にあるとされた。残されたただ一つの「太陽」は、男性とされ、黄帝と習合して、やがて中国全土に「皇帝の父」として君臨することになる。日本の神話は、天皇家の先祖を「黄帝」になぞらえようとしながら、皇祖神を天照大神(太陽女神)にしようとして、すなわち、太陽女神信仰を復活させようとして、あちこちに矛盾を作り出してしまっているように思えるのである。


それはともかく、「ハイヌウェレ」とは「殺された女神」である、とのイェンゼンの説なのであるが、ハイヌウェレ神話の前半は、非常に「竹取物語」や「竹取説話」に類似していて、元は「女神が親切にしてくれる人に豊穣をもたらす物語」であったことが分かる。だから私はイェンゼンに対して、声を大にして言いたい。「かぐや姫は殺されないからハイヌウェレではないのかよ!」と。どう見ても、かぐや姫とハイヌウェレは、元はオーストロネシア語族に共通する「同じ女神」であったと思われるのに、である[15]

だから、誰がこまどりを殺したのかはさておき、「殺される女神」の物語と、「農作物をもたらした女神」の物語は、本来別々のものであったものが、一つに纏められたものなのだと思う。だから、狭姫やギリシアのデーメーテール女神のように、「農耕の女神」であっても、殺されない女神はいくらでもいるのである。

そして、「女神が殺されるパターン」では、かぐや姫のように例外もあるが、「瓜子姫」のように、女神が植物の化身としての性質が強い場合に、死に至ることが多いのだと感じる。また、狭姫とハイヌウェレの神話があることが、神話発生の初期においては、「上位の女神が下位の女神を農耕神として地上に降ろした」という神話が、中国南部にあった証拠と思えるのである。

台湾の神話・伝承[編集]

 ここで、オーストロネシア語族の古い文化を有する台湾の神話・伝承をいくつか紹介したい。そして、西王母の前身となる「太陽女神」信仰が古代中国南部に存在した、と仮定して考察を進めることとしたい。

射日神話[編集]

太陽征伐の話(アヤタル語族)

1.太古は昼夜の区別なく、太陽は常に中天に懸かりけり。高熱甚だしくして安眠もなりがたりしかば、一人の老人と四人の少年が、太陽を射んとて西に向かって出発せり。首尾良く太陽を射たるも、途に髭の多き人と遇いて四人は殺され、ただ一人帰社するを得たり。その後、射られたる太陽は二つに分かれて今日の日月となれり。(アタヤル族スコレク群マリコアン部族バットル社、『蕃調』大公族前篇p.313)[16]

太陽伝説(タオ族)

2.太陽が低いため、子供は太陽に照らされて可哀いそうだ。彼の母は太陽を突き刺した。太陽は死に、夜と昼が交代するようになった。巨人が天を押し上げたから天は高くなった。(タオ族イモルトゥ社、『原語』pp.776-777)[17]

1.台湾にも「射日神話」は存在する。多くは、「太陽の害があったので、二つに割ったところ、一つは月になり、もう一つは小さな現在の太陽になった」という粗筋である。羿神話と比較すると、太陽は10個もない。よって、「射落とした太陽が9つあった」という部分は、紀元前11世紀よりも後に、中国の神話に付け加えられたものといえる。また、射落とした太陽のうち、「1つが月になる」という部分は、羿神話では省かれている。その代わりに「月」になるのは羿の妻・嫦娥である。ということは、中国神話の古い姿は、「母系の太陽女神が射落とされて、二つに分かれ、少なくともそのうちの1つは月の女神になった」というものなのではないだろうか。嫦娥が地上に降り立った理由は「羿に射落とされたから」ではなかったか、と思う。嫦娥が「不死の霊薬」の持ち主であった、ということは本来の持ち主は元の「大きな太陽」だったのではないか、とも思われる。残りの半分はどうなったのだろうか? 「もう一つの小さな太陽」も女神でよいのだろうか。もし仮にそうだったのだとしても、台湾の伝承からは、それは明らかではない。ということは、紀元前10世紀には「太陽は女神であった」という神話がかつて存在していたとしても、それは中国本土では消え失せてしまっていた、ということになるのではないだろうか。また、台湾の伝承では太陽が鳥である、とは言っていないので、これも紀元前10世紀以後に中国本土で変更された部分なのだと思う。だから、台湾にはこれら伝承が伝播しなかったのである。

日本の「竹取物語」と比較すれば、「かぐや姫は、大きな太陽女神であった時に、人々に害をなしたので、射られて小さな月の女神になり、地上に降りてきた。」ということになる。でも、日本のかぐや姫は男が嫌いであったようである。

ハイヌウェレは降り立った地上でも迫害される。しかし、地上での死(消失)と引き換えに、ムルア・サテネという強力な絶対的女神と一体化し、人々から不老不死を取り上げて復讐する。ハイヌウェレが「不死の霊薬」を人々に与えない、のではなくて、人々の「不老不死性」という運命そのものを取り上げたことが、ハイヌウェレ神話の独自性といえようか。死体の植物化生は、また別の物語である。そして、このようにして、物語は各地で変化していったと思われる。

ということで、余談ではあるが、羿が射止めたのは、女神のハートであったのか、それとも体だけであったのか。女心とは複雑なものとも言うもの、と個人的には思う。そして、「射落とされた月の女神が羿の妻となった」という部分も、後付けされたものであることが分かる。

また、仮に羿が射落としたものが「太陽」ではなくて、その召使いの鳥であったとしても、それは紀元前11世紀よりも古い時代に「太陽そのもの」に変えられてしまって、太平洋方面に伝播したことが分かる。


2.こちらは、起源がとても古い物語であると思う。「母が太陽を突き刺した」とあるが、この「母」とはそのようなことが可能であるほど強い力を持った女神といえる。ハイヌウェレ神話のムルア・サテネ的な女神である。ここでも羿神話と同様の問題が起きる。「母」が「突き刺した太陽」とは、太陽なのか、それとも本当は召使いの鳥なのか、ということである。

  • (1)母が刺したものを「太陽」とすれば、「母」は太陽に逆らう者で罰を受けねばならない者である、ともいえる。
  • (2)「母」の方が太陽女神であったのだとすれば、「母」は逆らう召使いを刺した、といえる。

物語は、(1)と(2)の中間であって、捉え方によっては、太陽女神が太陽を殺してしまった、というようにも解釈できる。おそらく(2)の神話が先にあって、羿神話の鳥神が太陽神に変更されるのに伴って(1)の形に変えられる途中の物語なのだと思われる。(2)の方は、日本の記紀神話に類話があるから、古い形なのではないか、と予想されるのである。天照大神は自らに逆らう部下の須佐之男と自ら戦い、天界から追放する。記紀神話には、天之手力男神、思金神といった天照大神を助けてくれる神々もいるが、女神は自ら須佐之男と戦う。中国の辺縁部に残っている伝承の方が、古い形式を残しているといえる。ただし、台湾では、「母」と戦った相手、すなわち日本神話の須佐之男の方が「太陽神」であるという形への変化がすでに始まっているのである。羿神話との連続性については、シュメール神話に興味深い物語がある。

シュメールの女神イナンナは自らの所有物である世界樹によこしまな鳥や蛇が巣くってしまったので助けを求めた。その結果、英雄王ギルガメシュが怪物を退治したり、追い払ったりして女神を助けた。

というものである。「怪物」と戦うものが、女神でもあり、英雄でもあるということを示している。羿が神々の意を受けて「怪物の太陽」と戦ったのは、本当は「本物の太陽女神」の意向であり、女神と共に戦った、と、そう纏めるための神話の片鱗が(2)であるように思える。

また、こちらでは世界を支える盤古のような巨人が登場する。

纏めると、以下のようになるであろう。

羿神話改変部
本来の原神話(推定) 太陽女神の部下の鳥神が人々を害したため、羿がこれを倒した。太陽女神は不老不死の霊薬の持ち主であり、人々に酒造り農耕や養蚕を部下を通して伝えさせていた。
変遷期 羿は太陽女神と共に、人々を害する(鳥)神と戦った。(→頓挫
物語の変更と分裂期 1.羿が倒した鳥神は太陽神も兼ねることとなった。協力した女神は太陽女神とはされなくなった。

2.羿は太陽である鳥神を倒して罰を受けた。倒された太陽鳥は2つに分かれ、現在の日と月になった。月は女神である。月女神は一旦地上に落ちてから天に復帰する。

3.なにがしかの女神が単独で神を害し、罰を受けた。

期限前10世紀よりも前↑
期限前10世紀よりも後↓ 1.太陽鳥は10羽に増えた。射落とされた太陽から月女神への変化は削除された。

2.月の女神は羿の妻とされた。月の女神は羿と共に罰を受けた。

3.分化した女神の内、植物神の性質が強い者は、殺されて穀物や芋、蚕などへ変化することとされた。

織女と怪物[編集]

巨根の神デナマイ、怒って洪水をおこす話(抜粋)

1.昔、デナマイと称する神ありき、その陰茎はすこぶる巨大にして、雨天続きて河水氾濫する時はこれを橋として社人を渡せり。デナマイはすこぶるの好色漢なり。ある夜、一人の婦人余念もなく機を織りつつありしが、デナマイ窓より大なる一物を衝き入れて、その婦人を倒して姦せしに、一物のあまりに大なりしため婦人は即死せり。これを見たる夫は斧を振るいて彼の一物に斬りかかる。デナマイ大いに怒り、我は天に昇りて風と水とにならん。といい去りしが、間もなく大風起こり、河水一時に漲りて社を没したり。その時デナマイいうよう、我に美男美女を与えなばこの水を去らしめんと。祖先らもやむなく美女と美男とを船に乗せて海に流せしに、見る見る水は退きて元のごとく陸地を現しぬ。(セデク系タロコ族タッキリ渓下流域群、『蕃調』紗積族p.108)[18]

巨根の巨人、人を呪詛してマラリアを送りつける話(抜粋)

2.昔、カラマエ、またはマハルと称する巨人ありけり。極めたる好き者にして、機織る女を見れば必ず姦せり。また山に行きて口を開きてあれば、獣類は洞穴と見誤りて飛び込みけり。かかる巨人なればその陰茎もまた大にして、驟雨にて水増したる時には社人常に彼を呼びて、その陰茎を橋とせしものなり。されど彼ありては山中の獣類みな絶滅すべしとて、社人協議して、山より焼け石を転ばし、鹿なりと偽りて吞ましめて殺せり。その時彼、いうよう、我死なば必ず地震および悪疫流行すべしと。しかして彼に姦せられたる女の夫らは、彼の死後その体を細断して捨てたり。これその種の残るを怖れてなり。(アタヤル族スコレク群大嵙崁部族角板山社、『蕃調』大公族前篇pp.304-305)[19]

1は「羿と雒嬪(らくひん)」と非常に粗筋が似た物語である。古代中国における「河伯」とは巨人であり、元は男女を問わず人身御供を求めた神であったことが示唆される。「巨根」は蛇神を連想させる。時代が下ると、特に若い女性を「妻」と称して人身御供に求めるようになったのは「好色な神」とされていたからではないのか、と思う。「織女」とは人身御供の乙女の「象徴」でもあるし、消されてしまった「太陽女神」の象徴を暗喩するようにも思える。

2は河伯に対して、人身御供のみならず、動物の生贄も捧げていたのではないか、と示唆される物語である。しかし、羿神話の趣旨でもあるように、怪物である河伯は退治されており、「人身御供の禁止」の動きもあったことが示唆される。山から焼け石を落として殺害するエピソードは大国主神話に通じる。神を殺してバラバラにすることは、必ずしも「芋の発生」にはつながらない、という一例である。他にも「バラバラにされる神」とは中国神話の蚩尤、日本の伝承の八面大王がいる。蚩尤の血からは楓が生じた、と言われ、かろうじて植物との関連性が残されているが、八面大王にはそれすらない。ギリシア神話のメーデイアも幼い弟をバラバラにするが、植物には変化しない。

罰を受ける女神[編集]

大きい男の話

1.ある家にいと小さき男ありけり。母親、一日その者の睾丸を抜き去りたるに、年とともに大きくなりて、頭は裏口に出ずるも足はなお表口にあるほどとなり。今は家にあることも叶わねば、山に行きて洞窟に住居せり。されど不便にて耐えかねたれば、母を怨み、ついに親殺しの大罪を犯せり。かかる男なれど、ある時病に罹りて弱りたりしが、多くの熊来たりて咬み殺せり。昔熊は、十匹二十匹と群をつくりて往来せしものなりきとなん。[20]

タンアウの話

2.昔、タンアウと称する二丈余りの男あり。山に入り鹿を見れば、陰茎を延ばして鹿を取り巻きて斃せり。しかるにある日、弟誤りてその陰茎を切りたれば、死亡せり。(ブヌン族タケトド部族バクダツ社、『蕃調』武崙族前篇族p.238)[21]

首のない弟の話(抜粋)

3.兄と弟が狩りに出て、弟が先に狩猟小屋へ行って食事の用意をすることになった。兄が小屋へ着いてみると、弟は首がなくなって、胴体だけで食事をする化け物になっていた。兄は弟から逃げ出した。[22]

1は、女性が息子を去勢して、恨まれ罰を受ける物語である。何故、去勢することになるのかというと、全体に、「家畜の豚は去勢をすると大きくなるので」「小さな男の子を大きく育てようとして」去勢することになるようで、人間の男の子を豚になぞらえてそうなった、としているようである。豚に見たてているからなのかもしれないが、このタイプの物語の青年は熊が豚を襲うように、熊に殺されるようである。豚になぞらえている点と、熊に殺される点が独特である。

2は類話となるが、「陰茎が巨大な巨人」とは台湾的な「河伯」と性質が一致するので、こちらの巨人も本来は「河伯」なのであって、「小さいために去勢された」という設定は、台湾に渡ってから独自に付け加えられたものなのではないか、と思う。

インド神話では、ヴィナータという女神が、卵を生むが、早くに殻を割ってしまい、生まれた息子のアルナは「上半身しかなかった」が、それを母親のせいだと恨んで母親を呪った。そのため母親は敵対するナーガの奴隷とならねばならなかった、というエピソードがある。現実的に「上半身しかない」人間は生きられないので、台湾の伝承と比較することで、「上半身しかない」とは「陰茎がない」ことの暗喩だということが分かる。アルナと台湾の河伯とでは、陰茎を失った理由が異なるので、理由の方がそれぞれの地で独自に作られたものであることが分かる。

また一方で、2のように「陰茎を失うこと」=「死」を意味するとすれば、「上半身がない」とは文字どおり人を半分に切って殺してしまうことや、首をはねて殺してしまうことも指しうる。首をはねてしまと、3のような物語になる。豚は大食いの動物なので、胴体だけになっても食べ続ける点に豚の性質が暗喩されているように感じる。ということで1~3の物語は

陰茎を失う話
陰茎を失って死ぬ(下半身を失う)話
首を失う話
殺されてバラバラにされる話

で、連続性と色々な展開があり、必ずしも母親と息子の物語ではないのだけれども、「罰を受ける女神の物語」としては、母と息子の関係が動機という大きな役割を果たすということになる。

また、2のパターンは、一つには西欧の民話に出てくる「半分男」の物語と、アルナが女性に変身できる能力がある(去勢=男性の女性化)という物語に分かれていく。「半分男」はアルナのように、生まれながらに魔力を扱えるような存在となる。去勢して女性化した神は、やがて自らも息子を去勢して操るキュベレーへと変化する。「息子を去勢して従順化を求める神」の思想は、キュベレー信仰の神官は去勢すべし、という思想につながっただけでなく、仏教の僧侶、カトリックの神父と言った聖職者に「去勢はしていなくても独身と純潔を求める」という思想にもつながっていると思う。よって、物語の発生時期よりもはるか後世の宗教思想に影響を与えた物語、といえる。

そして、母系の文化が強いアナトリア半島で、「息子を去勢する女神」に変化すると、今度はそれが「母女神の当然の権利」とされてしまって、母女神は罰を受けるどころではなくなってしまう。古代中国でも、これに似て、

女性が身内の男性を支配して当然の母系の文化
女が男を支配するなんてとんでもない父系の文化

が存在し、かつては「母系の女神」に許されていた一族の男性の生殺与奪を握る権利が、2のように「許されず罰を受けなければならない問題」に変化していく過渡期の物語なのではないか、と思う。母系の当然の思想が物語として語られるが、それに「罰を受けなければならない」というおまけがつくようになるのである。完全に男系の文化に移行すれば、神話そのものが「けしからぬもの」として消されてしまう。中国南部で文化が母系から父系へと変化するのは河姆渡文化から良渚文化にかけてなので、紀元前4000年前後か、それよりも少し古いくらいの物語の発生時期であろうか、と考える。中国本土にあった時から、物語は3つのパターンに分化していたため、いずれのパターンも各地に類話がある、ということになります。1のパターンはヴィナータとアルナ、2のパターンはオシリスとセト、3は饕餮と蚩尤、となると思う。

よって、「罰を受ける女神」というのは、特に古い時代のものは、「女神と男性の身内との関係(女神の側の害意)」が原因となっているが、それが「人々に産業を教えに下降してくる鳥仙女の伝承」と習合し、嫦娥のように罰を受けて地上から逃走する女神、「竹取物語」のかぐや姫のように罰を受けて地上に追放される女神、ハイヌウェレのように地上に下降してから罰を受ける女神、等へと枝分かれしていったものだと分かる。「罰を受けて下降する女神」には「河伯等への嫁入り(織女の人身御供)譚」が付け加えられることもある。台湾の伝承より、「織女の人身御供譚」は、本来「罰を受ける女神譚」と直接関連するものではないことが分かる。

「罰を受ける女神」のまとめ
0(原系) ヴィナータタイプ 女神が男性の身内を害し、罰を受ける(去勢あるいは斬首等と関連する。下降とは関連しない)
嫦娥タイプ 下降してから罰を受け、再び天界(月等)へ戻る
ハイヌウェレタイプ 下降してから罰を受け、再び天界へは戻らない(芋に化生、あるいは地上に定住(奈具型))
かぐや姫タイプ 罰を受けて下降し、再び天界(月等)へ戻る
七夕タイプ(1) 下降はなく、天界で罰を受ける(仕事を怠けるタイプ)
七夕タイプ(2) 下降してから、天界へ戻った後罰を受ける(結婚生活が制限される)

物語全体の歴史の上での流れとしては

河伯に人身御供を捧げるのが当たり前の時代。人身御供肯定の文化。 →人身御供禁止へ(羿の英雄譚が暗示するもの)
1-1 好色な河伯が、織女を犯しては殺す(人身御供の暗喩)、という物語に変化 人身御供に否定的な文化の始まり
1-2 上位の女神(太陽女神? 母、姉など)からを受けて、河伯は去勢されたり、殺されたりする。女神は夫や部下の協力を得ている、という物語 人身御供に否定的な文化の始まり
(人間が父系の時代に入ると、男性の身内を害する女神の方が処罰の対象になる) →人身御供肯定への揺れ戻し
女神は男性の身内を害した、として処罰される(「罰を受ける女神」の神話の創設) 人身御供肯定の文化
罰を受ける女神の神話が様々なバリエーションに展開して各地に伝播する 人身御供については否定と肯定が入り混じる

という、変遷があったと思われる。そして、日本の「天照大神の岩戸隠れ」の神話は、ほぼこの物語の流れの1-2~3に一致するのである。須佐之男は織女を殺して罰を受けるが、天照大神の方も岩戸に籠もる等、その機能に何らかのダメージを受けている。しかし、部下達の助けを得て復活する。けれども物語の流れとして、1-1と1-2との間には古くから断絶が試みられ、別々の物語となるよう操作されているように思う。少なくとも、それは紀元前1000年よりも前に起こっているので、台湾には1-1と1-2は別々の物語として伝播しているのであろう。そして羿神話との関連から述べれば、羿が射落とした烏(偽の太陽)=河伯(蛇神)であった、という仮定ができる。烏も河伯も、世界樹である「扶桑樹」に関連するものだからである。烏はその枝に留まり、蛇はその根元に巣くうものだ。


しかし、伝承の上で、最終的に「鳥(烏)」であったものが、太陽と同一視されるようになった、ということは、「扶桑樹」のうちでも、「鳥(烏)」の要素を構成するものが中心となって、自分自身が権力を握りたい。自分こそが太陽神となりたい。と考え、太陽女神の地位にあった者を失墜させ、自らがとって変わったという、これは伝承ではなく、現実の歴史の上で起こったことと考える。日本神話では、八咫烏が「自ら王権のありかを決定する」、と示唆されており、王権のありかを定めるには「王(天皇)は天照大神の子孫」とされていても、天照大神が直接定めるとはされていない。ただし、これは「八咫烏が天照大神の意を受けて定めた」とも受け取れるので、八咫烏とは人の組織や身分の上から言うと、「神の意を伝えるシャーマン」のような立場と思われる。西欧では「鳥に選ばれた者が王になる」という伝承もある。王権は神が授ける、という考えはキリスト教と結びついて、観念としては現在までも残っているのではないのか、と思う。


ただし、古代中国の殷(紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)では、「殷王は神界と人界を行き来できる最高位のシャーマンとされていた」ので、シャーマンからそのまま王に移行した例もある。日本の天皇にも、祖神の天照大神を祀ったり、穀霊を祀るシャーマン的な側面がある。また、かつては人間をそのまま神と考える「現人神」の文化もあり、天皇は王でもあり、太陽の子孫のシャーマンでもあり、神でもあり、それらが区別されずに一体化された存在とされていた。(そして、その地位の権利を八咫烏が定めた、といえる。)そのため、古代における「最高位のシャーマン」と「王権」と「神」とは互いに重なる部分があると考える。西欧でも「健康な王」が「豊穣をもたらす」という思想がかつてあり、凶作の年には、天候が順調でなかった、という点で王が責任を負わされ、殺されたこともあった。それは必ずしも人の行う政治の問題というだけに留まらない王のシャーマン的役割を示している。よって、今、古代の遺物の中にシャーマン的な人の像などを見る時には、それは現代的な観点では「シャーマン」に相当するものなのか、「王」に相当するものなのか、それとも「神」に相当するものなのか、ということはその遺物の存在した時代の文化を考慮した上でなければ、正確な意味を決めることが難しいのではないか、と思う。そして鳥(八咫烏)は、「最高位のシャーマン」の更に上に位置する隠れた真の最高位のシャーマンとされているように感じる。

作物の起源[編集]

作物の起源神話は多彩であり、一律ではない。興味深いものをいくつか挙げたい。台湾では粟が重要な穀物であるらしい。

粟の話

1.昔デポグサン、テポカナンの両人、天上のチャリババオよりはじめて粟を得て栽培せり。今それを徳とし、「パリシ」(神祭)の時には必ず両人に供物して感謝す。(パイワン族南パイワン群スクスクス社、『番慣』排彎族p.336)[23]

粟の鳥となりし話

2.昔は一粒の粟を半截して炊きしものなり。しかるにある者、一粒をそのまま炊ぎたれば、粟怒りて「キャワン」(土鍋)を破りて「ピジツ」鳥となりて飛び去りぬ。(アタヤル族スコレク群マリコワン部族、『番慣』アタヤル族前篇p.315)[24]

粟・稗の創造

3.昔当社に二人の兄弟あり。どこよりこれを得たりけん、豚と瓢とを所有せり。一日その兄弟は出て畑を耕作しつつありしに、その父は右の豚を屠りて食わんとせしに、他人はこれを不吉なりしと、「もし強いて屠らんとならば、我、汝をも殺すべし」と恐喝しければ、父はこれを中止せり。ここにおいて父はその瓢に対して謳いければ、粟、稗などの種子出でたり。すなわちこれをその子に与えて播種せしめたり。これすなわち当社における粟および豚の起源なり云々。(ルカイ族隘寮群コチャポガン社、『番慣』第五巻ノ一p.173)[25]

薯の話(死体化生の薯)

4.昔、葛の蔓にて屍を括りて埋めるために、その後異様の蔓出でしかば、掘りて見しに、薯を得たり。試みに食えば味美なり。それより我らは薯を得るに至れり。すなわち甘薯は葛の根より得たりとの意なり。(ブヌン族タケバタン部族アサンバタン社、『番慣』武崙族前篇p.225)[26]

上記の他にも、異界から作物を得る話、盗んでくる話、鳥の他に狐や鼠が種をもたらす話、歌が作物をもたらす話などがある。1は「天人から穀物を得た」というオーソドックスな物語である。「天の神」というものを有している民族であれば、このような神話が生まれるのは妥当といえる。穀物を誰がもたらしたのかは明確ではない。チャリババオが直接もたらしたのか、鳥や獣が媒介したのかは不明である。ただし、「誰かから作物を貰い受ける」という形式の伝承は、「もたらされる」というよりは「貰いに行く」「盗んでくる」といった、こちらから「出向く」形式の物語が多いようである。

2について。粟の霊を怒らせると、鳥になって飛び去るという物語(2)は、粟が鳥と同一のものとみなされていることが分かる。現実的には鳥と植物は別々のものなのだが、「鳥と植物の一体化」が既に紀元前1000年頃の中国では始まっていた、という証拠になると思う。なぜなら、「鳥仙女が穀物を持って下降してきて、人々に耕作を教えた」となれば、鳥仙女と穀物は別々のもので、穀物を食べても、それは鳥仙女を同様に食べても良い、ということには繋がらない。鳥=穀物、ということになれば、それは下降してきた鳥仙女を穀物と同じ物として食べてもよい、ということにはならないだろうか。ハイヌウェレ神話は、一方で人々を支配するムルア・サテネがいるのに、すでに下位の女神は「芋と同じ物として殺して食べてもよい」という存在に変化している。河伯に人身御供を捧げるのみならず、女神を作物の支配者から、作物そのものに変更することで、新たな「人身御供」の定義が出現したとみるべきであるし、やはり過渡期の物語であると思う。女性(女神)を害すと罰を受ける、という要素も残っているからである。作物は元々「神が支配するもの」であったのだから、「女神が作物と同じ物」とされて、その地位が低下することは、社会的には女性の地位の低下を意味するのではないだろうか。そして、ハイヌウェレ神話を元にした祭祀が存在するならば、ムルア・サテネの人類に対する復讐はもはや何の意味も持たず、殺される女性達は「ただ作物だから」という理由だけで、人間扱いもされずに殺されることになるだけである。そのため、「粟=鳥」とみなす思想は、女性(鳥)を穀物扱いし、人身御供とすることを正当化する思想へと繋がる、実は危険な思想というべきであると考える。

3について。豚と瓢の起源譚、とはいえ、家畜である豚を何故食べてはいけないのか、という疑問を含む伝承である。豚は犠牲に捧げる動物としても標準的なものだ。よって、この物語の豚は、特に神性の強い特殊な豚であり、そのようなものが存在する、という考えがあることを示唆しているように思う。瓢は中国の神話では、大洪水の際に伏羲がひょうたんに乗って逃れた、という神話的に非常に重要なアイテムである。台湾にも大洪水の伝承があるし、少なくとも古代中国の「伏羲と大洪水」の神話が紀元前1000年よりも前に成立し、台湾に伝播していた証拠と言える。「豚神の屠殺の禁止」は、実のところ羿神話の思想とは逆向きの「人身御供肯定」に繋がる思想である(その点についてはおいおい述べる)。鳥ではなくてが天から降りてくる、という神話は父系の文化がかなり進んでからの神話なのではないか、と思う。伏羲は現代にまで「人々の運命を決める神」として名前が残され、中国のシャーマンの始祖的な存在であるし、雷神を助けて自分だけが恩恵を得ており、羿のように人身御供を求める神と対立しようとはしていないからである。また、男性であるので父系文化の神であるとも言えると考える。また瓢に乗ることは、「自分達はすでに、太陽女神も、その部下の鳥仙女も必要とせずに天界と交通できる。」という意志の表れのように思われる。

4について。ハイヌウェレ的であり、特に芋類について「死体化生」の思想が強く進められていたことが分かる。ただし、「甘薯は葛の根より得たり」とあり、死体のせいで葛が芋に変化した、ととれる内容である。『山海経』には、中国南部にある食物神・后稷の墓の周りには、穀物が自然に生じているとの記述がある、とのことなので、「死体が直接作物に変化する」、という形式よりも、「死体の働き掛けで環境が変化して作物が誕生した」という形式の方が古い形なのではないだろうか、と思う。「死んだ神(=黄泉の神)」が登場し、その神は自然に作物を発生させることができるのである。これも父系の文化の思想なのではないだろうか。このようにして、太陽女神と鳥仙女達は、どんどん「必要性」を神話の上から奪われているように思う。「死んだ神」が作物を自然発生させるために、新たな人身御供であるハイヌウェレを種芋として求めるようになるにはもう1歩、というところなのだと思う。死んだ神はハイヌウェレという花嫁を得て、芋という子供を発生せしめるようになるのである。これすなわち、花嫁を求める河伯の神話の焼き直し、と言わざるを得ないのではないだろうか。そして「死んだ神」とは「去勢されて殺された神」、「バラバラにして殺された神」とも重なる。何らかの原因で、罰されて殺された男神が、「黄泉の神」に変化しているのである。エジプト神話のオシリスは、その一番良い例であると思う。ギリシア神話のポセイドーンやハーデースも、一度父親に食べられて「殺された神」であって、海や冥界といった異界の神とされている。また、「殺された神」の一部は「下位の男神」として、タンムーズやアッティスのように、直接穀物(植物)に変化するものも登場した。

これらの点から、「死んだ男神(=黄泉の神)」が歴史的に登場するのは、羿神話の登場により男神が罰を受けて殺された、とされてからではないか、と思う。一方殺されずに、「陰茎を失う」のみで済んだ物語からは、インド神話のアルナのように両性具有的な「神」として神のまま残ったり、キュベレーに使える神官達のように「シャーマン」的な存在となったりして、文化的に枝分かれしていくように思う。インドには現在でも「ヒジュラー」と呼ばれる男性でも女性でもない第三の性として女神に使える半陰陽の人々が存在する。

殺された河伯(巨人神)の神話的分化
河伯(巨人)に人身御供を捧げる 河伯は鳥や蛇でもある 巨人(台湾神話)、ミーノータウロス(ギリシア神話)等
1-1 陰茎を失う話 神のまま半陰陽に アルナ(インド神話)、半分男(民話)等
1-2 陰茎を失う話 シャーマン(神官)に ヒジュラー(インド)、(意味としては)純潔が要求される僧侶等
2-1 死ぬ話 冥界の神に オシリス(エジプト神話)、ハーデース(ギリシア神話)等
2-2 死ぬ話 死体が植物の発生に作用する神 后稷(中国神話)等
2-3 死ぬ話 死体(の一部)が植物に変化する神 蚩尤(中国神話)、アドニース(ギリシア神話)等
2-4 死ぬ話 冥界神となった後、妻(人身御供)を求めて、植物(春)等何かを生ませる神 ハーデース(ギリシア神話)、ハイヌウェレ(インドネシア神話、特にマヨ祭)、エンリル(メソポタミア神話)等

まとめ[編集]

というわけで、特に4については、「ハイヌウェレ型」の神話ではない、と私は思う、というのが最大の結論である。

岩見の狭姫の伝承は、鳥仙女の開拓の伝承を残して当然、と思う人々の非常に強い意思に基づいて残されたものなのではないだろうか、と思う。そして、イラン神話では、霊鳥シームルグは必ずしも雌であるとはされないが、タジキスタンの民話では「母なるシームルグ」とたびたび呼ばれており、この霊鳥の本来の姿は雌であることと、人々に助言を与えて助けるその姿は狭姫の姿と大きく重なり、母系の鳥仙女の性質をうかがい知るのに重要だと感じる。

一方、ハイヌウェレの神話は、強力な女神ムルア・サテネと、殺される下位の女神ハイヌウェレが存在し、ハイヌウェレの死は、彼女が種芋に変身するというよりも、「黄泉の神」に嫁入りして種芋を生む、というのがその本質、というか本来の神話であったのではないか、と思う。ハイヌウェレ神話的な祭祀で殺される娘は、「死んだ神(=黄泉の神)」に扮した祭祀者の妻にされて殺される。妻になった上で、彼女からは芋や椰子が生まれることが期待されるのである。

そして、こうやって殺された娘に、「黄泉の国」での強力な権力を与えて、結局アドーニスやタンムーズを殺す権利を与えてしまっているのが、西方の人々のすごいところだと思う。つまり、ハイヌウェレ神話の最大の類話であり、ハイヌウェレのこの世界での最大の姉妹は、ギリシア神話の「ペルセポネ-」なのである。ムルア・サテネはデーメーテールに相当する。ハーデースのペルセポネー略奪の神話を「ハイヌウェレ型神話」と定義してくれれば、私はイェンゼンを許そうと思う。

扶桑と養蚕[編集]

話を扶桑樹に戻そうと思う。

桑といえば、蚕の餌であって、養蚕とは切っても切れない。

絹織物は、中国で創出されたもので、絹を生産している形跡が新石器時代遺跡(西陰村遺跡、河姆渡遺跡など)から幾度も発見されている[27]。そのため、太陽信仰の文化と養蚕は深いつながりがあるのではないだろうか。刺繍が施されるようになった最も早期の事例は、中国にある戦国時代(紀元前3世紀~5世紀)の墓から発見されたものである。

養蚕の起源は中国大陸にあり、浙江省の遺跡からは紀元前2750年頃(推定)の平絹片、絹帯、絹縄などが出土している[28]。殷時代や周時代の遺跡からも絹製品は発見されていることから継続的に養蚕が行われていたものと考えられている。系統学的な解析では、カイコは約5000年前までにクワコ(Bombyx mandarina)から家畜化されたと考えられている[29]

扶桑樹が古代中国の、いわゆる「世界樹」だったとすると、疑問点が2つ出てくる。一つは、すでに述べたように、扶桑樹は鳥、巨人(河伯)と組み合わされ、関連している。台湾の巨人神には豚のように大食いだったり巨大な蛇のような男根を持つ、という伝承がある。鳥以外にも、扶桑樹に関連している動物はいるのではないだろうか、ということ。もう一つは、「桑」とは養蚕に関連するものである。ということは、養蚕が開始される以前は、扶桑樹に相当するものが古代中国には存在したのだろうか、それはどのようなものだったのだろうか、ということである。

西王母と桑[編集]

東周時代に書かれたとされる『山海経』の大荒西経によると、西王母は「西王母の山」または「玉山」と呼ばれる山を擁する崑崙の丘に住んでおり、西山経には

「人のすがたで豹の尾、虎の玉姿(下半身が虎体)、よく唸る。蓬髻長髪に玉勝(宝玉の頭飾)を戴く。彼女は天の厲と五残(疫病と五種類の刑罰)を司る。」

という半[半神の姿で描写されている[30]。また、海内北経には

「西王母は几(机)によりかかり、勝を戴き、杖をつく」

とあり、基本的には人間に近い存在として描写されている[31]

また、三羽の鳥が西王母のために食事を運んでくるともいい(『海内北経』)、これらの鳥の名は大鶩、小鶩、青鳥であるという(『大荒西経』)。

敦煌写本(11世紀)には「王母が養蚕の方をお授け下さり」とあり、西王母が養蚕の方法を教えた、とされている。小説的な作品ではあるが、「漢武別国洞冥記(2世紀)」に「濛鴻の沢(神話的な地名、濛鴻はカオスを意味する)にて、王母が白海の岸辺で桑を摘んでいた」とある。を摘むのは紡織の作業の開始を示す儀礼でもあった。漢代には皇室の女性達が、桑摘みなど儀礼的な養蚕を行う際には、髪に「華勝」という西王母の髪飾りをつけたという。

「山海経」には

また東へ五十五里ゆくと、宣山と呼ばれる山がある。その山からは、淪水が流れ出す。その川は東南に流れて視水に注ぐ。その中には蛟がたくさんいる。その川のほとりには桑の木が生えている。その幹の太さは五十尺、枝が重なりあって四方にのび、葉の大きさは一尺あまりもある。赤い木目があり、黄色い花がつき、青い萼がある。これを帝女の桑と呼ぶ。

とある。帝女は西王母とされ、織女は天帝の孫と言われている。西王母は女仙を支配する女神でもある。西王母は、女仙の先頭に立って、自ら桑摘み、養蚕、紡織を行う女神でもあったのだろう。桑は西王母とは切っても切れない関係にあったのである。

漢代の図像には、世界樹の頂上に座す西王母がみられ、東王父が出現する以前は、西王母が世界樹である桑の木の頂上に座す、と考えられていたようである。母系社会には「父」というものは存在しないので、これが古い時代の西王母の図像であったのではないか、と考える。

また、日本神話との比較から述べると、日本神話では織女達を統括し、支配するのは太陽神である天照大神である。とすると、桑と養蚕を支配する西王母とは、本来、太陽女神であったとはいえないだろうか。河姆渡文化のレリーフでいえば、「鳥が運んでいる太陽」そのものが西王母の原型だったのだと考える。しかし、西王母は時代が下るにつれて、中国では「太陽女神」としての性質が失われるので、取り残された鳥の従者達の一部に「太陽神」としての性質が移されたのではないか、その過程には故意があったのではないか、と個人的には思う。

ともかく、「桑」を、西王母を頂上に抱く「世界樹」として考えた時、その根元は水の中や、あるいは混沌の中にあり、それらの中には「蛟がいる」と考えられていたのではないだろうか。メソポタミア神話、イラン神話等でも、「世界樹」の根元には蛇が巣くうことが多い。その起源は、少なくとも古代中国の西王母と桑の木にまで遡ると考える。水の中の蛇、とは当然いわゆる「河伯」でもあっただろう。世界樹の根元に巣くうのは、人身御供の乙女を妻として求める蛇の河伯だったといえる。

台湾の伝承では蔓性の植物である葛から芋が発生した、とあるが、葛は「蛇」を模している、ともいえる。死体を与えられると、葛は単独で芋を生む。また、台湾の河伯は巨人であり、巨大な蛇のような男根を持つ。とすると、この「巨人」こそが、世界を支える扶桑なのではないだろうか。ギリシア神話には世界を支えるアトラースという巨人が登場する。中国神話にも盤古という巨人が存在する。

参考文献[編集]

関連リンク[編集]

参照[編集]

  1. 紀元前5000年くらいのもの
  2. 袁珂著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 175-183頁
  3. 増田福太郎『台湾の宗教 -農村を中心とする宗教研究-』 養賢堂 1939年 40-41頁
  4. 本草つうしん 第28号 2010年6月30日付 PDFファイル
  5. 脩務訓|淮南子・脩務訓「古者、民茹草飲水、采樹木之實、食蠃蠬之肉。時多疾病毒傷之害、於是神農乃始教民播種五穀、相土地宜、燥濕肥墝高下、嘗百草之滋味、水泉之甘苦、令民知所辟就。當此之時、一日而遇七十毒」
  6. 足長土は「あしなづち」、また手長土は「てなづち」とも読み、八岐大蛇神話に登場する足名椎命と手名椎命に掛けている。手長足長が元。
  7. 「オオゲツヒメと狭姫」のような母娘関係の類話に「大王の三人の妻」という物語がある。
  8. 『世界神話事典』「ハイヌウェレ」の項(吉田、p. 153)
  9. 『世界神話事典』「イェンゼン」の項(大林、p. 33); harvnb, 大林, 19791, p=141
  10. harvnb, 吉田, 1986, pp=37–39; harvnb, 吉田, 1992, pp=141–143; 大林, 1979, pp=133–135
  11. harvnb, 吉田, 1986, pp=39–40; 吉田, 1992, pp=143–144; sfn, 大林, 1979, pp=135–137
  12. sfn, 大林, 1979, p=137; 吉田, 1992, p=146。 肺腑からアインテ・ラトゥ・パイテ(紫色ヤム芋); 乳房:アインテ・ババウ; 両目:アインテ・マ(生りはじめの形が目に似る); 恥部:"明るい紫色でとてもよい匂いがして美味しい、アインテ・モニという種類"; 尻:アインテ・カ・オク("外皮がかさかさ"); 両耳:アインテ・レイリエラ; 両足:アインテ・ヤサネ; 太股:アインテ・ワブブア(大型種); 頭:ウク・ヨイヨネ(タロ芋の一種)。
  13. sfn, 大林, 1979, pp=138–140; 吉田, 1992, pp=160–161。
  14. 『世界神話事典』「ハイヌウェレ」の項(吉田、pp. 154–155)
  15. 日本語はオーストロネシア語族とアルタイ語族の混合言語であった、という説がある。文化的に見ても、その通りだと思う。
  16. 神々の物語 台湾原住民文学選5 神話・伝説・昔話集、紙村徹編・解説他、草風館、169-170p
  17. 神々の物語 台湾原住民文学選5 神話・伝説・昔話集、紙村徹編・解説他、草風館、170-171p
  18. 神々の物語 台湾原住民文学選5 神話・伝説・昔話集、紙村徹編・解説他、草風館、273-274p
  19. 神々の物語 台湾原住民文学選5 神話・伝説・昔話集、紙村徹編・解説他、草風館、272-273p
  20. 神々の物語 台湾原住民文学選5 神話・伝説・昔話集、紙村徹編・解説他、草風館、315-316p
  21. 神々の物語 台湾原住民文学選5 神話・伝説・昔話集、紙村徹編・解説他、草風館、315p
  22. 神々の物語 台湾原住民文学選5 神話・伝説・昔話集、紙村徹編・解説他、草風館、297-299p
  23. 神々の物語 台湾原住民文学選5 神話・伝説・昔話集、紙村徹編・解説他、草風館、216p
  24. 神々の物語 台湾原住民文学選5 神話・伝説・昔話集、紙村徹編・解説他、草風館、229p
  25. 神々の物語 台湾原住民文学選5 神話・伝説・昔話集、紙村徹編・解説他、草風館、231p
  26. 神々の物語 台湾原住民文学選5 神話・伝説・昔話集、紙村徹編・解説他、草風館、228p
  27. 学術月報, 第 407~411 巻 文部省大学学術局, 1979 367ページ
  28. 亀山勝『安曇族と徐福 弥生時代を創りあげた人たち』龍鳳書房、2009年、84頁。
  29. =Sun, Wei, Yu, HongSong, Shen, YiHong, Banno, Yutaka, Xiang, ZhongHuai, Zhang, Ze, 2012-06, Phylogeny and evolutionary history of the silkworm、url=http://link.springer.com/10.1007/s11427-012-4334-7、Science China Life Sciences, volume=55, 6, pages=483–496, en, 10.1007/s11427-012-4334-7, 1674-7305
  30. 徐, 1998, pp=164-222
  31. |徐, 1998, pp=164-178