全ての道は西安に通ず

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人類の文明発祥の地は、中国、古代エジプト、メソポタミア、インド等であるが、いわゆる「四大文明」は相互に文化的交流があったと考えられるため、彼らを繋いでいた「道」について考えてみたい。

全ての道は西安に通ず

シルクロードと古代文明

上図は古代のシルクロードの図である。古代中国の古都西安(かつての長安)を起点として、東アジア世界と西方世界とを結ぶこの道は、中国とカザフスタン、キルギスとの国境地帯にそびえる天山山脈の北側を通り、

  1. そのままカザフスタンの草原地帯を西進して、カスピ海の北側を通りヨーロッパ方面に抜ける遊牧民の道(ステップ・ルート)
  2. 天山山脈の北側を通り、中央アジアの国々を南下して、イラン、メソポタミア方面へ抜ける「天山北路」
  3. 天山山脈の南側を通り、イラン・インド方面へ抜ける「天山南路」
  4. タクラマカン砂漠南縁のオアシス都市を辿る「西域南道」
  5. 海沿いに移動する「海のシルクロード」

等が存在した。四大文明といわれる古代文明のうち、古代エジプト文明とメソポタミア文明は地理的にも近い場所にあり、神々の概念や神を示す言葉にも共通点が多く、「文明」が始まった時代以前から相互に文化的影響があったことは明かである。また、メソポタミア文明はインダス文明と交易を行っており、こちらも相互に影響を与え合っていたと思われる。

一方の古代中国は、古い時代から主に遊牧民の使用する「ステップ・ルート」を使って、現在の国境近くである天山の麓と交流があった。また、中国南部を抜けて、インドのガンジス川流域に至る道も古くから使用されていた。ステップ・ルートの遊牧民達は、有史以前から状況に応じて、ヨーロッパ、イラン、インド方面への侵入と定住を繰り返し、東西の文化の伝播と交雑の担い手となっていた。

また「玉」をこよなく愛した古代中国の人々は、玉の産地である西域のホータンから玉や翡翠を輸入していた。西域南道のオアシス都市ホータンは、玉を中国、イラン、イラクに向けて輸出しており、交易という点で東西の文化の合流地点となっていた。その一方、アフガニスタン北東部では、青い石である「ラピスラズリ」が産出され、この石は「天空の色」として、西方の古代エジプトやメソポタミアで珍重されていた。

神々の宝玉

宝玉文化と龍信仰の伝播
牛河梁遺跡・碧眼女神像
牛河梁遺跡・猪龍
紅山文化・猪龍
ナカダ文化・碧眼女神像flickr

古代中国において新石器時代の最古の文明といえるのは、黄河中~下流域に存在した裴李崗文化(はいりこうぶんか)(紀元前7000年~5000年)であろう。この文化の遺跡からは賈湖契刻文字(かこけいこくもじ)(紀元前6600年)と呼ばれる印が出土し、中国でも古い時代の書き文字と思われる。紀元前6200年頃には中国東北部の遼河流域で遼河文明が生じ、「文明」と呼びうる文化が黄河流域から遼河流域にまで広がったことが分かる。
遼河文明は世界最古の龍を刻んだ翡翠などの玉製品が発見されており、龍と翡翠の文明といえる。この翡翠は上述の通り、西域のホータン等から仕入れたものと考えられている。古代中国において翡翠は「緑をもたらす太陽の象徴」と考えられて珍重されていたのである。遼河文明の影響を受けて、日本でも遅くとも縄文中期(紀元前3000年)には翡翠性勾玉の生産が開始されていた。
一方「龍」の存在は黄河文明の側にも拡がり、黄河中流域に興った仰韶文化(ぎょうしょうぶんか)(紀元前5000年~3000年頃)の墳墓から龍と思われる装飾が発見されている。

更に時代が下った遼河文明のうち、紅山文化(こうさんぶんか)(紀元前4700年~2900年頃)晩期の牛河梁遺跡(紀元前3500~3000年)からは神殿が発見され、目に翡翠をはめ込んだ女神の頭部が出土した。そのため、この神殿は「女神廟」と呼ばれることとなった。目が翡翠であることから、おそらく「太陽の女神」の頭部であり、その目にはめ込まれた翡翠はやはり西域より仕入れたものと思われる。紅山文化から出土する「龍」の特徴は頭部が豚であったり、馬のたてがみを有しているという点である。かつ女神の「目が緑色で不自然でない」と人々が考えていたとすると、この文化の主な担い手は「コーカソイド」であり、本来は馬と豚を財産とする遊牧民だったのではないかと思われる。この豚崇拝の文化は日本にももたらされ、縄文時代前期(紀元前4000年~3000年頃)の遺跡から豚の頭部が口縁に付いた土器が発掘されている。
ただし、この他にも紅山文化の墳墓からは多くの動物を象った翡翠の装飾品が発見されており、太陽を様々な動物に例える文化でもあったと思われる。古代中国には複数の氏族が太陽神としてそれぞれに異なる動物をトーテムとして有し、小共同体を形成する際に、互いの太陽神を持ち寄って、複数の太陽を共同の象徴とすることがならわしであった。遼河文明から様々な動物を象った翡翠が出土するということは、それだけの太陽トーテムを有する部族がそこに生活していたことをも示すものであると思われる。
このように翡翠といった玉製品を重要視する習慣は後の中国文化にも取り入れられ、例えば秦の始皇帝(しこうてい、紀元前259年~前210年)の遺体は翡翠等の玉で覆われていたとのことである。晩年になって「不老不死の仙薬」の夢に取り憑かれた始皇帝にとって、その姿が永遠に変わらない翡翠等の玉はまさに「永遠」の象徴であって、玉のようになりたい、という願いが非常に強かったのであろうかとも思われるが、死後の世界に対して「翡翠の永遠性」と同じ「永遠」を求める思想は、どうやら遼河文明を発祥とするもののようである。

一方、目を西方に向けると、古代エジプトでは、統一王国が誕生する以前の上エジプトのナカダ文化の古い層(紀元前4400-3500年)から両目にラピスラズリをはめ込んだ女性像が発見されている。「天空の色」の象徴とされるラピスラズリは、時代が下ると太陽神である「ホルスの目」と呼ばれてこの神の「目」の造形に使われたり、更に一般的にも「魔除け」として使われるようになるため、太陽信仰と関連のある石として考えられていたと思われる。すると、この青い目の女性像も「太陽の女神」とみなされており、かつ中国における女神と同様、目の色が青でも不自然ではない人々の女神であると考えられる。そして古代エジプトの人々も豚を食用としていたとのことなので、古代エジプトにおけるナガタ文化と遼河文明における共通点は「豚」と「碧い目」を持つ「太陽女神」ということになる。(ただし、古代エジプトに馬は存在していなかった。)また、古代エジプトの人々がミイラを製作して「永遠の命」というものに深い関心を持っていたことを考えれば、その点も古代中国と同様の思想があったといえよう。
ナカダI期と呼ばれる古い層は、牛河梁遺跡よりも時代が先行するため、もしかしたら神の姿を擬人化し、偶像化する文化は古代エジプトから発生して遼河流域にもたらされたものなのではないかと考える。一方、翡翠といった「石」に「永遠」や「太陽神」という宗教的意味を含ませて使用する文化は中国から古代エジプトに伝播したもので、西方ではそれがラピスラズリに置き換わったものなのではないかと思う。このようにして古代世界はシルクロードを通じて非常に古い時代から交流を持っていたのだと思われる。

関連項目

参考リンク

  • Wikipedia
古代エジプト メソポタミア・インド 中国 日本 その他
古代エジプト
ラピスラズリ
ナカダ文化
ホルス
ホルスの目
ミイラ









メソポタミア
インド
インダス文明
ガンジス川











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タクラマカン砂漠
ホータン市
翡翠
裴李崗文化
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