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* 大足彦尊(おおたらしひこのみこと) - 『日本書紀』
* 大帯日子淤斯呂和氣天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと) - 『[[古事記]]』
* 他大足日子天皇(おおたらしひこのすめらみこと)、大帯日子天皇(おおたらしひこのすめらみこと)、大帯日古天皇(おおたらしひこのすめらみこと)、大帯比古天皇(おおたらしひこのすめらみこと)他大足日子天皇(おおたらしひこのすめらみこと、常陸国風土記)、大帯日子天皇(おおたらしひこのすめらみこと、播磨国風土記)、大帯日古天皇(おおたらしひこのすめらみこと、播磨国風土記)、大帯比古天皇(おおたらしひこのすめらみこと、播磨国風土記)
漢風諡号である「景行天皇」は、代々の天皇と同様、日本書紀の編纂から50-60年後に淡海三船によって撰進された。
=== 九州巡幸 ===
即位12年8月、[[熊襲]](現在の南九州に居住したとされる)が背いたので征伐すべく天皇自ら西下。即位12年8月、熊襲(現在の南九州に居住したとされる)が背いたので征伐すべく天皇自ら西下。
同年9月、[[周防国]]の娑麼(さば、[[山口県]][[防府市]])に着くと[[神夏磯媛]]という女酋が投降してきた。神夏磯媛は鼻垂、耳垂、麻剥、土折猪折という賊に抵抗の意思があるので征伐するよう上奏した。そこでまず麻剥に赤い服や褌、様々な珍しいものを与え、他の三人も呼びよせたところをまとめて誅殺した。同月、筑紫([[九州]])に入り[[豊前国]]の[[長峡川|長峡県]]に行宮(かりみや)を設けた。そこでここを[[京都郡]]([[福岡県]][[行橋市]])と呼ぶ。同年9月、周防国の娑麼(さば、山口県防府市)に着くと神夏磯媛という女酋が投降してきた。神夏磯媛は鼻垂、耳垂、麻剥、土折猪折という賊に抵抗の意思があるので征伐するよう上奏した。そこでまず麻剥に赤い服や褌、様々な珍しいものを与え、他の三人も呼びよせたところをまとめて誅殺した。同月、筑紫(九州)に入り豊前国の長峡県に行宮(かりみや)を設けた。そこでここを京都郡(福岡県行橋市)と呼ぶ。
同年10月、[[豊後国]]の碩田(おおきた、[[大分県]][[大分市]])に進むと[[同年10月、豊後国の碩田(おおきた、大分県大分市)に進むと''速津媛]]という女酋が現れた。速津媛によると天皇に従う意思がない[[土蜘蛛]]がいて青、白、打猿、八田という。そこで進軍をやめて來田見邑に留まり群臣と土蜘蛛を討つ計画を立てた。まず特に勇猛な兵士を選んで椿の木槌を与え、石室の青と白を稲葉の川上に追い立てて賊軍を壊滅させた。椿の槌をつくった所を海石榴市(つばきち)といい、血が大量に流れた所を血田という。続いて打猿を討とうとしたところ、禰疑山(ねぎやま)で散々に射かけられてしまった。一旦退却して川のほとりで占いをし、兵を整えると再び進軍。八田を禰疑野(ねぎの)で破った。これを見た打猿は勝つ見込みがないと思い降服したが、天皇は許さず誅殺した。''という女酋が現れた。速津媛によると天皇に従う意思がない土蜘蛛がいて青、白、打猿、八田という。そこで進軍をやめて來田見邑に留まり群臣と土蜘蛛を討つ計画を立てた。まず特に勇猛な兵士を選んで椿の木槌を与え、石室の青と白を稲葉の川上に追い立てて賊軍を壊滅させた。椿の槌をつくった所を海石榴市(つばきち)といい、血が大量に流れた所を血田という。続いて打猿を討とうとしたところ、禰疑山(ねぎやま)で散々に射かけられてしまった。一旦退却して川のほとりで占いをし、兵を整えると再び進軍。八田を禰疑野(ねぎの)で破った。これを見た打猿は勝つ見込みがないと思い降服したが、天皇は許さず誅殺した。
同年11月、日向国に入り行宮(かりみや)を設けた。これを高屋宮という。12月、襲国にいるという[[クマソタケル|厚鹿文]同年11月、日向国に入り行宮(かりみや)を設けた。これを高屋宮という。12月、襲国にいるという厚鹿文] (熊襲梟帥、くまそたける)<ref>{{Cite web|和書|title= 厚鹿文|url= , https://kotobank.jp/word/厚鹿文-1050176|website=, コトバンク|accessdate=, 2022-02-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/熊曾建 |title=, 熊曾建 |publisher=[[, コトバンク]] |author=, 朝日日本歴史人物事典 |accessdate=, 2019-04-23}}</ref>を討つ計画を立てた<ref>{{cite book|title= 国史大系. 第1巻 日本書紀|url= , https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/76|publisher= , 経済雑誌社|page=137}}(国立国会図書館), p137(国立国会図書館)</ref>。熊襲梟帥は強大で戦えばただでは済まないことがわかっていた。そこで熊襲梟帥の娘である[[''市乾鹿文]](いちふかや)と市鹿文(いちかや)の姉妹に贈り物をしていったん妃とし、謀略を用いて熊襲を討つことにした。姉妹は策に嵌まり、姉の市乾鹿文は特に寵愛された。あるとき市乾鹿文は天皇のところから兵を一、二人連れて熊襲梟帥のところに戻った。そして父に酒を飲ませて泥酔させ兵に殺させた。熊襲梟帥が討たれるや今度は天皇は市乾鹿文の親不孝を咎めて誅殺し、妹は[[火国|火国造]]に送り飛ばしてしまった。翌年夏に熊襲平定は完了し、その地の美人の[[御刀媛]]を妃として[[豊国別皇子]]を得た。日向国造の祖である。''(いちふかや)と''市鹿文''(いちかや)の姉妹に贈り物をしていったん妃とし、謀略を用いて熊襲を討つことにした。姉妹は策に嵌まり、姉の市乾鹿文は特に寵愛された。あるとき市乾鹿文は天皇のところから兵を一、二人連れて熊襲梟帥のところに戻った。そして父に酒を飲ませて泥酔させ兵に殺させた。熊襲梟帥が討たれるや今度は天皇は市乾鹿文の親不孝を咎めて誅殺し、妹は火国造に送り飛ばしてしまった。翌年夏に熊襲平定は完了し、その地の美人の御刀媛を妃として豊国別皇子を得た。日向国造の祖である。
即位17年、高屋宮に留まること六年経ち、子湯県の丹裳小野で朝日を見てこの国を「日向」と名付けた。そして野原の岩の上に立ち、都を思って思邦歌(くにしのびうた)を詠んだ。
*愛しきよし 我家の方ゆ 雲居立ち来も
*倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし(『日本書紀』歌謡三一){{efn2|<ref>『古事記』では、倭建命が死の直前に大和を懐かしんで詠んだ歌とされる。}}</ref>
*命の全けむ人は 畳薦(たたみこも) 平群の山の 白橿が枝を 髻華(うず)に挿せ この子
即位18年、3月に都へ向け出立。夷守([[宮崎県]][[小林市]])で諸縣君の泉媛の歓待を受けた。熊県([[熊本県]][[球磨郡]])に進み、首長である熊津彦兄弟の兄を従わせ弟を誅殺した。葦北(同[[葦北郡]])、火国([[熊本県]])、高来県([[長崎県]][[諫早市]]または[[佐賀県]][[多久市]])を経て玉杵名邑([[熊本県]][[玉名市]])で津頬という[[土蜘蛛]]を誅殺。さらに[[阿蘇国]]([[熊本県]][[阿蘇郡]])、御木([[福岡県]][[大牟田市]])、的邑(いくはのむら、[[福岡県]][[浮羽郡]])へと至った。道中では地名由来説話が多く残されている。即位18年、3月に都へ向け出立。夷守(宮崎県小林市)で諸縣君の泉媛の歓待を受けた。熊県(熊本県球磨郡)に進み、首長である熊津彦兄弟の兄を従わせ弟を誅殺した。葦北(同葦北郡)、火国(熊本県)、高来県(長崎県諫早市または佐賀県多久市)を経て玉杵名邑(熊本県玉名市)で津頬という土蜘蛛を誅殺。さらに阿蘇国(熊本県阿蘇郡)、御木(福岡県大牟田市)、的邑(いくはのむら、福岡県浮羽郡)へと至った。道中では地名由来説話が多く残されている。
即位19年、9月に還御。なお『古事記』に九州巡幸は一切記されていないが、冒頭の系譜記事で日向の美波迦斯毘売(みはかしびめ)を娶って豊国別王を生んだこと、その子孫は日向国造であることを記している。即位19年、9月に還御。なお『古事記』に九州巡幸は一切記されていないが、冒頭の系譜記事で日向の美波迦斯毘売(みはかしびめ)を娶って豊国別王を生んだこと、その子孫は日向国造であることを記している。
=== 日本武尊の活躍 ===
{{Main|ヤマトタケル}}
即位25年7月から27年2月、[[武内宿禰]]に[[東国]]を視察させて豊かな土地([[蝦夷]]、[[日高見国]])を発見する。
== 系譜 ==
=== 系図 ===
{{皇室古墳時代}}
 
== 后妃・皇子女 ==
[[画像:Emperor family tree8-15.png|thumb|right|150px|天皇系図 8~15代]]
 
* [[皇后]](前):[[播磨稲日大郎姫]](はりまのいなびのおおいらつめ) - [[稚武彦命|若建吉備津日子]]([[孝霊天皇]]皇子)女
** [[櫛角別王]](くしつのわけのみこ)
** [[高城入姫皇女]](たかぎいりびめのひめみこ)
** [[弟姫皇女]](おとひめのひめみこ)
* 妃:[[水歯郎媛]](みずはのいらつめ) - [[磐衝別命]]女、[[石城別王]]妹** [[五百野皇女]](いおののひめみこ、久須姫命) - 伊勢[[斎宮]]* 妃:[[五十河媛]](いかわひめ)** [[神櫛皇子]](かむくしのみこ) - 讃岐公([[讃岐国造]])・酒部公祖** [[稲背入彦皇子]](いなせいりびこのみこ) - [[佐伯直#針間別佐伯直を祖とする佐伯氏|佐伯直]]・播磨直([[播磨国造]])祖* 妃:[[高田媛]](たかだひめ) - [[阿部氏]][[阿部木事]]女** [[武国凝別皇子]](たけくにこりわけのみこ) - 伊予御村別・[[和気氏|和気公]]等祖* 妃:日向髪長大田根(ひむかのかみながおおたね)** [[日向襲津彦皇子]](ひむかのそつびこのみこ)* 妃:[[襲武媛]](そのたけひめ)** [[国乳別皇子]](くにちわけのみこ)** [[国背別皇子]](くにせわけのみこ、宮道別皇子)** [[豊戸別皇子]](とよとわけのみこ)* 妃:[[御刀媛|日向御刀媛]](ひむかのみはかしびめ)** [[豊国別皇子]](とよくにわけのみこ) - [[日向国造]]祖* 妃:[[伊那毘若郎女]](いなびのわかいらつめ) - [[稚武彦命|若建吉備津日子]]女、播磨稲日大郎姫妹で『日本書紀』一書では皇后とする** [[真若王]](まわかのみこ、真稚彦命)** [[彦人大兄命]](ひこひとおおえのみこと){{efn2|『日本書紀』の表記は「彦人大兄」であり敬称は付いていない。『古事記』では「日子人之大兄王」。}}* 妃:五十琴姫命(いごとひめのみこと) - [[物部胆咋|物部胆咋宿禰]]女** [[五十功彦命]](いごとひこのみこと) - 伊勢刑部君、三川三保君祖* 妃:迦具漏比売(かぐろひめ)- [[ヤマトタケル]]の曾孫、名は須売伊呂大中日子王{{efn2|『古事記』の[[ヤマトタケル]]の系譜では男系で孫、女系で玄孫となりいずれも合わない。景行天皇の曾孫なら合うが世代的に不合理である。父を若建王でなく[[稚武彦命|若建吉備津日子命]]とすれば[[孝安天皇|ヤマトタラシヒコ]]の曾孫となる。}}の女** 大江王(おおえのみこ)* (以下は母不詳、多くは『[[先代旧事本紀]]』に拠る)** 若木之入日子王(わかきのいりひこのみこ) - 五十狭城入彦皇子と同一人か** [[銀王]](しろがねのみこ、女性)** [[稚屋彦命]](わかやひこのみこと)** [[天帯根命]](あまたらしねのみこと)** 武国皇別命(たけくにこうわけのみこ) - 武国凝別命と同一人か** [[大曽色別命]](おおそしこわけのみこと)** [[石社別命]](いわこそわけのみこと)** 武押別命(たけおしわけのみこと)- 忍之別命と同一人か** 豊門別命(とよとわけのみこと) - 豊戸別皇子と同一人、三嶋水間君、庵智首、壮子首、粟首、筑紫火別君祖** 不知来入彦命(いさくいりひこのみこと) - 五十狭城入彦皇子と同一人** [[曽能目別命]](そのめわけのみこと)** [[十市入彦命]](とおちいりびこのみこと)** [[襲小橋別命]](そのおはしわけのみこと) - 菟田小橋別祖** [[色己焦別命]](しここりわけのみこと)** 息長彦人大兄水城命(おきながのひこひとおおえのみずきのみこと) - 彦人大兄命と同一人か、庵智白幣造祖** [[熊忍津彦命]](くまのおしつひこのみこと) - 日向穴穂別祖** [[武弟別命]](たけおとわけのみこと) - 立知備別祖** 櫛見皇命(くしみみこのみこと) - 讃岐国造祖** [[草木命]](くさきのみこと) - 日向君祖** 稚根子皇子命(わかねこのみこのみこと) - 稚倭根子皇子と同一人か** [[押黒之兄日子王|兄彦命]](えひこのみこと) - 大分穴穂御埼別、海部直、三野之宇泥須別祖先** 宮道別命(みやぢわけのみこと) - 国背別皇子と同一人** [[手事別命]](たごとわけのみこと)** [[大我門別命]](おおあれとわけのみこと)** [[三川宿禰命]](みかわのすくねのみこと)** [[豊手別命]](とよてわけのみこと)** [[倭宿禰命]](やまとのすくねのみこと) - 三川大伴部直祖** [[豊津彦命]](とよつひこのみこと)** [[押黒之弟日子王|弟別命]](おとわけのみこと) - [[牟義都国造|牟宜都君]]祖** [[大焦別命]](おおこりわけのみこと)
『古事記』によれば記録に残っている御子が21人、残らなかった御子が59人、合計80人の御子がいたことになっている。また『日本書紀』では前代の垂仁天皇までは天皇の子女を「~命(みこと)」と表記するが、景行天皇以後は基本的に「~皇子」「~皇女」と表記している<ref name="iwanami"/>。
 
== 年譜 ==
『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである<ref name=iwanami/>。機械的に西暦に置き換えた年代については「[[上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧]]」を参照。
* 垂仁天皇17年
** 誕生
* 垂仁天皇37年
** 1月1日、皇太子に立てられる
* 景行天皇元年
** 7月、[[即位]]
* 景行天皇2年
** 3月、[[播磨稲日大郎姫]]を立后
* 景行天皇3年
** 2月、[[屋主忍男武雄心命]]に紀伊国の神祇を祀らせる。武雄心命はその後9年の間に[[影媛]]を娶り[[武内宿禰]]を儲ける。
* 景行天皇4年
** 2月、[[美濃国]]に行幸。泳宮(くくりのみや、[[岐阜県]][[可児市]])に滞在。[[八坂入媛命]]を妃とする。
** 2月、[[大碓命]]が美濃の美人と密通
** 11月、纒向日代宮に遷都
* 景行天皇12年
** 7月、熊襲が背き朝貢せず
** 8月、筑紫に親征開始
** 9月、[[周防国]][[佐波郡]]で四人の首長を征伐、[[豊前国]][[京都郡]]へ
** 10月、[[豊後国]]の來田見邑で土蜘蛛征伐
** 11月、[[日向国]]へ。仮宮として高屋宮を造営
** 12月、熊襲梟師を征伐
* 景行天皇13年
** 5月、襲国平定
* 景行天皇17年
** [[御刀媛]]を娶る。子孫は日向[[国造]]となる
** 3月、襲国を[[日向国]]と名付け、思邦歌を歌う
* 景行天皇18年
** 3月、夷守([[宮崎県]][[小林市]])へ
** 4月、熊縣([[熊本県]][[人吉市]])で弟熊を征伐、葦北(熊本県[[水俣市]])へ
** 5月、八代県(熊本県[[八代市]])の豊村へ。国を[[火国]]と名付ける。
** 6月、高来県([[長崎県]][[島原市]])、玉杵名邑(熊本県[[玉名市]])を経て[[阿蘇]]国へ
** 7月、[[筑後国|筑紫後国]]の御木([[福岡県]][[大牟田市]])、八女県(福岡県[[八女市]])へ
** 8月、的邑(福岡県[[うきは市]])へ
* 景行天皇19年
** 9月、帰国
* 景行天皇20年
** 2月、[[五百野皇女]]に天照大神を祀らせる
* 景行天皇25年
** 7月、武内宿禰を遣わして、[[北陸]]・東方諸国を視察させる。
* 景行天皇27年
** 2月、武内宿禰が帰還。[[蝦夷]]の存在と土地の豊かさを報告
** 8月、熊襲が再叛
** 10月、[[ヤマトタケル|小碓尊]](16歳)が熊襲征伐に出発
** 12月、小碓尊が熊襲の川上梟師を暗殺、以後日本武尊と名乗る
* 景行天皇28年
** 2月、日本武尊が帰国
* 景行天皇40年
** 7月、大碓皇子に東国遠征を命じるが拒絶、代わりに美濃に封じる
** 10月、日本武尊が東国遠征に出発
* (景行天皇41年)
** 日本武尊が帰途に[[伊勢国]][[能褒野]]で病没(30歳)
* 景行天皇43年
** 日本武尊を伊勢国に埋葬し、[[大和国]]と[[河内国]]にも白鳥陵を造り武部(たけるべ)を定める
* 景行天皇51年
** 8月、[[成務天皇|稚足彦尊]]を立太子し、武内宿禰を[[棟梁]]の臣とする
** 佐伯部を定め日本武尊が連れ帰った蝦夷を諸国に送る
* 景行天皇52年
** 5月、皇后崩御
** 7月、八坂入媛命を立后
* 景行天皇53年
** 8月、日本武尊を追慕し東国巡幸。伊勢国を経て東国へ
** 10月、上総国の淡水門へ
** 12月、伊勢の綺宮へ戻る
* 景行天皇54年
** 9月、帰国
* 景行天皇55年
** 2月、[[彦狭島王]]が東国へ赴任。途上の春日穴咋邑で薨去、[[上野国]]で葬られる
* 景行天皇56年
** 8月、彦狭島王の子の[[御諸別王]]が東国へ赴任
* 景行天皇57年
** 9月、坂手池を造成
** 10月、田部[[屯倉]]を興す
* 景行天皇58年
** 2月、[[近江国]]に行幸。志賀高穴穂宮に滞在すること3年
* 景行天皇60年
** 11月、崩御。宝算は106歳{{efn2|景行天皇60年条に依る。垂仁天皇37年の立太子年から計算した崩年は143歳。}}(『古事記』では137歳)
* 成務天皇2年
** 11月、山邊道上陵に葬られた
== 宮 ==
== 陵・霊廟 ==
[[File:Shibutani Mukoyama Kofun, haisho.jpg|thumb|220px|right|{{center|景行天皇 [[渋谷向山古墳|山邊道上陵]]<br />(奈良県[[天理市]])}}]]
[[天皇陵|陵]](みささぎ)の名は'''山邊道上陵'''(山辺道上陵:やまのべのみちのえのみささぎ)。[[宮内庁]]により[[奈良県]][[天理市]]渋谷町にある遺跡名「[[渋谷向山古墳]]」に治定されている。墳丘長300メートルの[[前方後円墳]]である。宮内庁上の形式は[[前方後円墳|前方後円]]。

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