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=== 肥前国風土記 ===
また『肥前国風土記』には、同様に狭手彦(さでひこ)と領巾を振りながら別れた{{読み仮名|篠原|しぬはらまた『肥前国風土記』には、同様に狭手彦(さでひこ)と領巾を振りながら別れた篠原(しぬはら/しのはら}}の村のしのはら)の村の'''弟日姫子'''(おとひひめこ)という娘の話が収録されているが、この人物は佐用姫と同一視され、もう一つの佐用姫伝説とみなされている{{sfnp|<ref>|, 2006|pp=11–12}}, p11–12</ref><ref name=kakujinmeijiten-otohihimeko/>。
この「{{読み仮名|弟日|おとひ}}」というのはあるいはその人物の名かもしれないが(『万葉集古義』等{{Refn|[[武田祐吉]]の説が『万葉集古義』第1巻〈下天〉のそれに近い{{sfnp|この「弟日(おとひ)」というのはあるいはその人物の名かもしれないが(『万葉集古義』等、武田祐吉の説が『万葉集古義』第1巻〈下天〉のそれに近い<ref>長野|, 1974|pp=2, p2-3}}。}})特称である可能性があり、言葉としては{{efn2|</ref>。)特称である可能性があり、言葉としては<ref>国ぼめの歌に用例がある。}}</ref>、「弟」=「若い、ういういしい」から形成される語意とされる一方で、「年下の者」の意があるとも考察される{{sfnp|<ref>長野|, 1974|pp=2, p2-3}}</ref>。なお、風土記の記述文の挿入歌では彼女のことを「篠原の'''弟姫'''の子〜」と称している{{sfnp|<ref>|, 2006|p=12}}{{Refn|group="注"|原文は「志怒波羅能意登比賣能古〜」{{harvp|, p12</ref>(原文は「志怒波羅能意登比賣能古〜」<ref>佐藤|, 1966|p=35}}だが、解説者によって「しぬはら」または「しぬはら」と読むようである。}}。, p35</ref>だが、解説者によって「しぬはら」または「しぬはら」と読むようである。)。
弟日姫子の記載(『風土記』)には後日談があり、別れた後、狭手彦によく似た男が家に通うようになり、これが沼の蛇の化身であると正体がわかると沼に引き入れられ死んでしまうという話になっている{{sfnp|<ref>|, 2006|pp=11–12}}, p11–12</ref><ref name=kakujinmeijiten-otohihimeko/><ref name="cranston"/>。
『風土記』にはまた、姫が泣きながら歩いて狭手彦から贈られた鏡をうっかり落としてしまい、その場所が「鏡の渡り」として知られるようになったとする{{sfnp|<ref>|, 2006|p=12}}{{sfnp|, p12</ref><ref>金京欄|, 1998|p=24}}, p24</ref>
=== 石化伝説 ===
[[Image:Princess Sayo at Matsu-ura.PNG|thumb|[[歌川国芳]]/画 松浦佐用姫「賢女烈婦傳」<br />「..恋慕の気凝りて、そのままに形(かたち)石となり」と伝わる。|280px]]
より後の時代にはこの女性が悲しみのあまりに石と化したと伝えられるようになった。佐用姫石化伝説の初見は室町時代、[[梵灯庵]]の 「袖下集」([[応永]]ごろ)との考証がある<ref name=nakayama-apud-yoshioka/>。また、石化伝説のきっかけは、『[[十訓抄]]』(13世紀)にこの佐用姫伝説を紹介しており「望夫石」の故事{{efn2|『幽明録』}}も併記しているため、あやまって合成されてしたものと考察されている{{sfnp|藪|2006|p=19}}<ref name=ishikawa/>。時代は下るが、『日本名女物語』(寛文10/[[1670年]])にも石化伝説がみえる<ref>{{harvp|金京欄|1998|pp=24–25}}。{{harvp|佐藤|1966|p=37}}に拠る。</ref> 。

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