=== 日本書紀の年代 ===
日本書紀で景行天皇が九州に巡幸した年代を機械的に西暦に換算すると[[82年]]から[[89年]]、東国巡幸は[[123年]]から[[124年]]になる。また日本武尊の西征は[[97年]]から[[98年]]、東征は[[110年]]から[[111年]]であり、どちらも[[帥升]]が[[後漢]]に朝貢した[[107年]]の前後になる。そのため書紀の編者は帥升を景行天皇またはヤマトタケルと考えていたことが推測される。日本書紀で景行天皇が九州に巡幸した年代を機械的に西暦に換算すると82年から89年、東国巡幸は123年から124年になる。また日本武尊の西征は97年から98年、東征は110年から111年であり、どちらも帥升が後漢に朝貢した107年の前後になる。そのため書紀の編者は帥升を景行天皇またはヤマトタケルと考えていたことが推測される。
=== 征討伝説 ===
景行天皇の時代には、天皇自身による西征、その皇子であるヤマトタケルによる東征・西征はヤマト王権の東西への勢力拡大のエピソードが集約されたものと考えられ、また天皇の実際の治世とする説が強い4世紀に発生した畿内型古墳の地方への拡散という考古学的な見地も考慮すると、全くの創作であるとは言いがたい。ただし、西征に関しては、『古事記』には天皇の西征が載せられていない上、内容の共通部分の存在から天皇の西征とヤマトタケルの西征は元々1つの説話であった可能性が高いとされる(ただし、ヤマトタケルの西征から天皇の西征が分かれたとする説と天皇の西征からヤマトタケルの西征が分かれたとする両説がある)景行天皇の時代には、天皇自身による西征、その皇子であるヤマトタケルによる東征・西征はヤマト王権の東西への勢力拡大のエピソードが集約されたものと考えられ、また天皇の実際の治世とする説が強い4世紀に発生した畿内型古墳の地方への拡散という考古学的な見地も考慮すると、全くの創作であるとは言いがたい。ただし、西征に関しては、『古事記』には天皇の西征が載せられていない上、内容の共通部分の存在から天皇の西征とヤマトタケルの西征は元々1つの説話であった可能性が高いとされる(ただし、ヤマトタケルの西征から天皇の西征が分かれたとする説と天皇の西征からヤマトタケルの西征が分かれたとする両説がある)<ref name=ibaraki>荊木美行「景行天皇朝の征討伝承をめぐって」『日本書紀の成立と史料性』燃焼社、2022年、153-195頁。(原論文:『萬葉集研究』第37冊、塙書房、2020年)</ref>。
こうした伝説の原型は、[[倭の五王]]が中国に使者を送るようになった[[5世紀]]には存在したと考えられ([[武 (倭王)|倭王武]]の上表文に東征・西征に関する記述があるため)、その後も様々な説話が付け加えられながら、『古事記』・『日本書紀』に記された形になっていったと推測されるこうした伝説の原型は、倭の五王が中国に使者を送るようになった5世紀には存在したと考えられ(倭王武の上表文に東征・西征に関する記述があるため)、その後も様々な説話が付け加えられながら、『古事記』・『日本書紀』に記された形になっていったと推測される<ref name=ibaraki/>。
== 参考文献 ==