即位2年、播磨稲日大郎姫を立后。子には大碓皇子や小碓尊(後の日本武尊)がいた。
即位4年、美濃国に行幸。美人と名高い'''弟姫'''を妃にしようと泳宮(くくりのみや)に滞在した。しかし拒絶されたため、姉の'''八坂入媛命'''を妃とした。同じころ、美濃国造の2人の娘が美人であると聞いて妃にしたいと思った。そこで大碓皇子を派遣したが、大碓皇子は姉妹の美しさのあまり使命を忘れて密通し役目を果たさなかった。天皇はこれを恨んだと言う。
『古事記』には、天皇の美濃行幸は記されていないが、冒頭の系譜で八尺入日売命を娶って成務天皇らを生んだことを記している。また大碓命と三野(美濃)国造の2人の娘について『日本書紀』と似た伝承を記し、次のような伝承も記している。天皇は朝夕の食膳に参上しない兄(兄の名は記されていないが、一般には大碓命と考えられている)を参上させるため、小碓命によく教え諭すよう命じた。しかし数日しても何も変わりがないため小碓命に聞くと既に教え諭したという。どのように諭したのか聞くと厠に入るのを待ち伏せして打ちのめし、手足を引き千切って投げ捨てたという。「教え諭す」という言葉を「思い知らせる」、つまり処刑だと勘違いしたのである。小碓命、のちの倭建命(ヤマトタケル)は恐れられ疎まれ、危険な遠征任務に送り出されるようになった。なお、これはあくまで『古事記』での話であり、『日本書紀』では大碓皇子の惨殺はない。日本武尊(ヤマトタケル)と天皇の仲も後述するように良好である。