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=== 日本武尊の活躍 ===
即位25年7月から27年2月、[[武内宿禰]]に[[東国]]を視察させて豊かな土地([[蝦夷]]、[[日高見国]])を発見する。即位25年7月から27年2月、武内宿禰に東国を視察させて豊かな土地(蝦夷、日高見国)を発見する。
即位27年8月、[[熊襲]]が再叛。10月に小碓尊(16歳)に命じて熊襲を征討させる。小碓尊は首長の川上梟帥を謀殺して日本武尊の名を得る。翌年に復命。即位27年8月、熊襲が再叛。10月に小碓尊(16歳)に命じて熊襲を征討させる。小碓尊は首長の川上梟帥を謀殺して日本武尊の名を得る。翌年に復命。
即位40年8月、大碓皇子に東国の蝦夷を平定するよう命じる。しかし大碓皇子は危険な任務を拒否し[[美濃国]]に封じられた。結局、日本武尊が東征に向かうこととなり、途中の[[伊勢神宮]]で叔母の[[倭姫命]](やまとひめのみこと)から[[天叢雲剣|草薙剣]]を授かった。[[陸奥国]]に入り、戦わずして蝦夷を平定。日高見国から新治([[茨城県]][[真壁郡]])・[[甲斐国]][[酒折宮]]・[[信濃国]]を経て[[尾張国]]に戻り、[[即位40年8月、大碓皇子に東国の蝦夷を平定するよう命じる。しかし大碓皇子は危険な任務を拒否し美濃国に封じられた。結局、日本武尊が東征に向かうこととなり、途中の伊勢神宮で叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)から草薙剣を授かった。陸奥国に入り、戦わずして蝦夷を平定。日高見国から新治(茨城県真壁郡)・甲斐国酒折宮・信濃国を経て尾張国に戻り、'''宮簀媛]](みやずひめ)と結婚。その後[[近江国]]に出向くが、[[伊吹山|胆吹山]]の荒神に祟られて身体不調になる。日本武尊はそのまま[[伊勢国]]に入るが能褒野(のぼの、[[三重県]][[亀山市]])で病篤くなり30歳で[[崩御]]、埋葬された後に白鳥となって飛び去った。途中で舞い降りた[[大和国]]と[[河内国]]にも[[ヤマトタケル#墓|白鳥陵]]が造られた。出発から三年後のことである。天皇は日本武尊の死を深く嘆き悲しんだ。'''(みやずひめ)と結婚。その後近江国に出向くが、胆吹山の荒神に祟られて身体不調になる。日本武尊はそのまま伊勢国に入るが能褒野(のぼの、三重県亀山市)で病篤くなり30歳で崩御、埋葬された後に白鳥となって飛び去った。途中で舞い降りた大和国と河内国にも白鳥陵が造られた。出発から三年後のことである。天皇は日本武尊の死を深く嘆き悲しんだ。
即位51年、[[成務天皇|稚足彦尊]]を立太子し、武内宿禰を[[棟梁]]の臣とした。即位51年、稚足彦尊を立太子し、武内宿禰を棟梁の臣とした。
即位53年、日本武尊を追慕して東国巡幸に出る。まず伊勢に入り東海を巡って10月に[[上総国]]に到着、12月に東国から戻って伊勢に滞在、翌年9月に纒向宮に帰った。即位53年、日本武尊を追慕して東国巡幸に出る。まず伊勢に入り東海を巡って10月に上総国に到着、12月に東国から戻って伊勢に滞在、翌年9月に纒向宮に帰った。
即位55年、伯父である[[豊城入彦命|豊城命]]の孫の[[彦狭島王]]を[[東山道]]十五国の[[都督]]とした。しかし任地に向かう途上、春日の穴咋村で亡くなってしまった。そこで翌年に改めて彦狭島王の子の[[御諸別王]]を派遣した。即位55年、伯父である豊城命の孫の彦狭島王を東山道十五国の都督とした。しかし任地に向かう途上、春日の穴咋村で亡くなってしまった。そこで翌年に改めて彦狭島王の子の御諸別王を派遣した。
即位58年に[[近江国]]に行幸。志賀高穴穂宮に滞在すること3年。『古事記』は天皇の東国巡幸、近江行幸を記していない。志賀高穴穂宮は『古事記』では次代の稚足彦天皇(成務天皇)の都とされている。即位58年に近江国に行幸。志賀高穴穂宮に滞在すること3年。『古事記』は天皇の東国巡幸、近江行幸を記していない。志賀高穴穂宮は『古事記』では次代の稚足彦天皇(成務天皇)の都とされている。
即位60年11月、崩御。

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