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太陽の母としての羲和を描いたものとして有名な古典には、『山海経』がある。その「大荒南経」には、
 
太陽の母としての羲和を描いたものとして有名な古典には、『山海経』がある。その「大荒南経」には、
 
<blockquote>東南海之外、甘水之間、有羲和之国、有女子名日羲和、方日浴于甘淵、羲和者、[[帝俊]]之妻、生十日<br />(東南海の外、甘水の間に羲和の国がある。女性がいて、名は羲和といい、甘淵で太陽に水浴びさせた。羲和は帝俊の妻であり、十の太陽を生んだ。)|『山海経』大荒南経</blockquote>
 
<blockquote>東南海之外、甘水之間、有羲和之国、有女子名日羲和、方日浴于甘淵、羲和者、[[帝俊]]之妻、生十日<br />(東南海の外、甘水の間に羲和の国がある。女性がいて、名は羲和といい、甘淵で太陽に水浴びさせた。羲和は帝俊の妻であり、十の太陽を生んだ。)|『山海経』大荒南経</blockquote>
とある。ここで羲和が太陽に水浴びさせる「甘淵」は、同じ『山海経』の海外東経、大荒東経にみえる、[[扶桑]]の大木があり、10個の太陽が湯浴みをするという「湯谷」と同一視される{{R|iizuka14|yon11}}。湯浴みをした太陽は、1日に1個ずつ扶桑の枝から昇るとされ、これは[[甲]]・[[乙]]・[[丙]]・[[丁]]・[[戊]]・[[己]]・[[庚]]・[[辛]]・[[壬]]・[[癸]]の[[十干]]を十日として一くくりにした「[[旬 (単位)|旬]]」を一つの[[単位]]とする、中国の古い[[暦]]の根拠となる十日説話の基となっている{{R|iizuka14|yon11|toyota10}}{{Refnest|group="注"|十日説話については、『[[淮南子]]』巻八 本経訓に、10個の太陽が一斉に昇ってしまったため、地上が大いに乱れ、[[堯]]が[[弓 (武器)|弓]]の名手である[[羿]]に命じて10個の太陽を射させた、という説話もある。羿の妻は姮娥([[嫦娥]])とされるが、嫦娥は元々は常羲だったともいわれ、常羲は羲和と同じく帝俊の妻で十二月を生んだとされ、後世には羲和と同一とみなされることもあった<ref name="iizuka14">{{Citation |和書 |last=飯塚 |first=勝重 |date=2014-02-28 |title=三足烏原像試探 |journal=アジア文化研究所研究年報 |volume=48 |pages=1-14 |url=https://toyo.repo.nii.ac.jp/records/6552 }}</ref><ref name="yon11">{{Citation |和書 |last=延 |first=恩株 |date=2011-03 |title=新羅の始祖神話と日神信仰の考察 &mdash;三氏(朴・昔・金)の始祖説話と娑蘇神母説話を中心に&mdash; |journal=[[桜美林大学|桜美林]]論考『言語文化研究』 |volume=2 |pages=83-100 |issn=21850674 |url=https://obirin.repo.nii.ac.jp/records/939 }}</ref><ref name="sugimoto94">{{Citation |和書 |last=杉本 |first=憲司 |date=1994 |title=呉越文化の鳥 |journal=鷹陵史学 |volume=19 |pages=1-17 |url=https://bukkyo.alma.exlibrisgroup.com/discovery/fulldisplay?context=L&vid=81BU_INST:Services&docid=alma991006875067406201 }}</ref>。}}。太陽を生んだ羲和は、本来は[[太陽神]]そのものであったと解釈され、[[中国思想史]]学者の御手洗勝は、諸外国の太陽神にみられるような竜車を駆る太陽神であった羲和が、太陽と御者が別者と考えられるに至って、太陽の御者と太陽の母に変化していったものとしている{{R|mitarai84}}。
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とある。ここで羲和が太陽に水浴びさせる「甘淵」は、同じ『山海経』の海外東経、大荒東経にみえる、[[扶桑]]の大木があり、10個の太陽が湯浴みをするという「湯谷」と同一視される。湯浴みをした太陽は、1日に1個ずつ扶桑の枝から昇るとされ、これは甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の十干を十日として一くくりにした「旬」を一つの単位とする、中国の古い暦の根拠となる十日説話の基となっている<ref group="注">十日説話については、『淮南子』巻八 本経訓に、10個の太陽が一斉に昇ってしまったため、地上が大いに乱れ、[[堯]]が弓の名手である[[羿]]に命じて10個の太陽を射させた、という説話もある。羿の妻は姮娥([[嫦娥]])とされるが、嫦娥は元々は常羲だったともいわれ、常羲は羲和と同じく帝俊の妻で十二月を生んだとされ、後世には羲和と同一とみなされることもあった</ref><ref name="iizuka14">飯塚 勝重, 2014-02-28, 三足烏原像試探, アジア文化研究所研究年報, volume:48, p1-14, https://toyo.repo.nii.ac.jp/records/6552 </ref><ref name="yon11">延恩株 , 2011-03, 新羅の始祖神話と日神信仰の考察 &mdash;三氏(朴・昔・金)の始祖説話と娑蘇神母説話を中心に&mdash;, 桜美林論考『言語文化研究』, volume:2, p83-100 , issn:21850674, https://obirin.repo.nii.ac.jp/records/939</ref><ref name="sugimoto94">杉本憲司, 1994, 呉越文化の鳥, 鷹陵史学, volume:19, p1-17 , https://bukkyo.alma.exlibrisgroup.com/discovery/fulldisplay?context=L&vid=81BU_INST:Services&docid=alma991006875067406201</ref>。太陽を生んだ羲和は、本来は太陽神そのものであったと解釈され、中国思想史学者の御手洗勝は、諸外国の太陽神にみられるような竜車を駆る太陽神であった羲和が、太陽と御者が別者と考えられるに至って、太陽の御者と太陽の母に変化していったものとしている。
  
 
=== 天文官 ===
 
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2021年10月、[[中華人民共和国|中国]]が同国初の太陽[[宇宙望遠鏡|観測衛星]]を打ち上げた。それまでは、&ldquo;'''C'''hinese '''H'''-'''a'''lpha '''S'''olar '''E'''xplorer&rdquo;のアクロニムでCHASEと呼ばれていたが、打ち上げ成功に伴い、中国神話の太陽神にちなんで「'''羲和号'''」と名付けられた{{R|sorae211022}}。
  
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2026年3月20日 (金) 22:46時点における版

羲和(ぎわ、ぎか、Xīhé)は、中国神話に登場する太陽にまつわる神である。或いは、伝説上の官吏ともいわれる。神としての羲和は、夫は帝俊とされる。太陽の御者、若しくは太陽の母とみなされる。官吏としての羲和は、羲氏と和氏の4人に分けられて四方に配され、天文を司ったとされる。

淵源

中国において、太陽の運行を司る存在というモチーフが登場したのは、紀元前5000年頃に、杭州湾一帯に興った河姆渡文化ではないかとみられる。河姆渡文化では、土器などに鳥の文様が用いられたが、その中で骨製の匙の柄と予想されるものに、背中合わせの一対の鳥と、その背に光芒がついた円を背負う姿が二組描かれたものが見つかっており、この円は太陽と月を表すとみられる。考古学者の林巳奈夫は、太陽を背負う一対の鳥が、太陽を運ぶ車を操る「太陽の御者」としての羲和にあたると考えた。

記述

文献に登場する羲和の神話には、大まかに2つの類型がある。一つは太陽の御者(日御)としての羲和、もう一つは10個の太陽を生んだ母神(十日の母)としての羲和である。一方、羲和を四人に分けて官吏として記した文献もある。

日御

太陽の御者としての羲和の名前が知られるようになったのは、屈原の楚辞『離騒』に詠まれたことによる。『離騒』には、

吾、羲和をして節を弭(とど)めて、崦嵫(えんじ)を望んで、迫る勿からしむ。
(羲和に車を止めるよう命じて、夕日を崦嵫(日の入る山)に近づけさせないようにした。)(屈原, 『離騒』)

とある。同様に、羲和を太陽の御者として扱っている古典には、思想書『淮南子』がある。その天文訓には、

爰に羲和を止め、爰に六螭を息む、是を懸車と謂ふ。(『淮南子』巻三 天文訓)

とあり、『淮南子』のこの記述を引用した類書『初学記』には、

日車に乘り、駕するに六龍を以てし、羲和之を御す。(『初學記』巻一)

と注釈が付けられていて、六頭の龍が牽引し太陽を運ぶ懸車を羲和が御する、という伝説のあったことがわかる[注 1][1]

羲和と竜車・私的考察

羲和の車が「竜車」であるのは、天上世界で彼女が使役しているのが、彼女の下位の夫の一人である雷神(竜神)が彼女の随神だと考えられたからではないだろうか。羲和は母系の時代の女神であって、いわゆる「燃やされた女神」であり、夫の帝俊以外にも、もう一人夫がいたと考える。彼女の随神であり夫であった「竜神」とは、「盤瓠父型」の性質を持つ犬神、あるいはそれに類する神だったと考える。

十日の母

太陽の母としての羲和を描いたものとして有名な古典には、『山海経』がある。その「大荒南経」には、

東南海之外、甘水之間、有羲和之国、有女子名日羲和、方日浴于甘淵、羲和者、帝俊之妻、生十日
(東南海の外、甘水の間に羲和の国がある。女性がいて、名は羲和といい、甘淵で太陽に水浴びさせた。羲和は帝俊の妻であり、十の太陽を生んだ。)|『山海経』大荒南経

とある。ここで羲和が太陽に水浴びさせる「甘淵」は、同じ『山海経』の海外東経、大荒東経にみえる、扶桑の大木があり、10個の太陽が湯浴みをするという「湯谷」と同一視される。湯浴みをした太陽は、1日に1個ずつ扶桑の枝から昇るとされ、これは甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の十干を十日として一くくりにした「旬」を一つの単位とする、中国の古い暦の根拠となる十日説話の基となっている[注 2][2][3][4]。太陽を生んだ羲和は、本来は太陽神そのものであったと解釈され、中国思想史学者の御手洗勝は、諸外国の太陽神にみられるような竜車を駆る太陽神であった羲和が、太陽と御者が別者と考えられるに至って、太陽の御者と太陽の母に変化していったものとしている。

天文官

儒家の経典『尚書』の堯典には、 テンプレート:Quotation とあり、羲和はの命令で天の神にしたがい、太陽・月・星を観測して人々に農事暦を授けたとされるテンプレート:R。また、堯典の別の箇所によると、羲和は羲氏と和氏の総称であり、羲仲・羲叔・和仲・和叔の4人に四方を治めさせたことになっているテンプレート:R。しかし、卜辞や『山海経』にみられる四方を司る神と堯典の記述を比較すると、羲・和の4人は後代に置き換えられたもので、この4人は、本来日御あるいは太陽神である羲和の羲と和を分け、その両者に兄弟の順位を示す仲・叔を付けて4人としたに過ぎないと考えられるテンプレート:R

現代への影響

古代中国では、羲和とも深く関係がある十日説話の基になったとみられる、十日をまとめた「旬」を暦の単位としており、現在も1ヶ月を3つに分け、1日から10日を上旬、11日から20日を中旬、21日から月末を下旬という言葉にそれが残っているテンプレート:R

2021年10月、中国が同国初の太陽観測衛星を打ち上げた。それまでは、“Chinese H-alpha Solar Explorer”のアクロニムでCHASEと呼ばれていたが、打ち上げ成功に伴い、中国神話の太陽神にちなんで「羲和号」と名付けられたテンプレート:R

出典

関連文献

関連項目

脚注


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  1. 松前健, 1964-08-31, 伏羲女媧の神話と華南の竜蛇崇拝(第二回研究大会), 民族學研究, volume29, issue1, p71-74 , doi:10.14890/minkennewseries.29.1_71
  2. 飯塚 勝重, 2014-02-28, 三足烏原像試探, アジア文化研究所研究年報, volume:48, p1-14, https://toyo.repo.nii.ac.jp/records/6552
  3. 延恩株 , 2011-03, 新羅の始祖神話と日神信仰の考察 —三氏(朴・昔・金)の始祖説話と娑蘇神母説話を中心に—, 桜美林論考『言語文化研究』, volume:2, p83-100 , issn:21850674, https://obirin.repo.nii.ac.jp/records/939
  4. 杉本憲司, 1994, 呉越文化の鳥, 鷹陵史学, volume:19, p1-17 , https://bukkyo.alma.exlibrisgroup.com/discovery/fulldisplay?context=L&vid=81BU_INST:Services&docid=alma991006875067406201