「非伏羲型神」の版間の差分
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また、この神話では「'''豚(パイワン族)の息子と父が一体'''」とみなされている。三位一体ならぬ「'''二位一体'''」である。これはキリスト教的な「'''父と子は同じものである'''」という思想の原型といえないだろうか。「'''父と子がなぜ一体と考えられるのか'''」という問題点はあるのだが。なぜなら現代の私たちの通常の「家族」を考えてみても、父と息子は家族かもしれないけれども、別々の人間で、別々の個人である、と誰でも思うのではないだろうか。 | また、この神話では「'''豚(パイワン族)の息子と父が一体'''」とみなされている。三位一体ならぬ「'''二位一体'''」である。これはキリスト教的な「'''父と子は同じものである'''」という思想の原型といえないだろうか。「'''父と子がなぜ一体と考えられるのか'''」という問題点はあるのだが。なぜなら現代の私たちの通常の「家族」を考えてみても、父と息子は家族かもしれないけれども、別々の人間で、別々の個人である、と誰でも思うのではないだろうか。 | ||
| − | だから、「父と子がなぜ一体と考えられるのか」という私なりの回答は、一つは「'''母親に罪あり'''」とするため、と考える。母系社会であれば、子供の立場では父親が誰であるのかは気にしないが、自分が母親の性の対象とされれば、それは問題である。そして、「父」とは言わないが「夫」とか「恋人」の立場であれば、愛する女性が他の男性と仲睦まじくする姿に嫉妬心を感じることは、それは母系社会であってもあることであったのではないだろうか。それは社会的、倫理的には問題なくても、一人の男性としては「裏切られた」と感じて、「女性に罪あり」と憤りを感じるような問題となることもあったかもしれない、と思う。'''男性の嫉妬心を「女性に罪あり」と正当化するためには「夫」という立場が必要なのである''' | + | だから、「父と子がなぜ一体と考えられるのか」という私なりの回答は、一つは「'''母親に罪あり'''」とするため、と考える。母系社会であれば、子供の立場では父親が誰であるのかは気にしないが、自分が母親の性の対象とされれば、それは問題である。そして、「父」とは言わないが「夫」とか「恋人」の立場であれば、愛する女性が他の男性と仲睦まじくする姿に嫉妬心を感じることは、それは母系社会であってもあることであったのではないだろうか。それは社会的、倫理的には問題なくても、一人の男性としては「裏切られた」と感じて、「女性に罪あり」と憤りを感じるような問題となることもあったかもしれない、と思う。'''男性の嫉妬心を「女性に罪あり」と正当化するためには「夫」という立場が必要なのである'''。だから何重にも「'''女性に罪あり'''」とするために、父と子を一体化させてしまったのだろう。 |
母親である女性は「[[燃やされた女神]]」、息子は「[[伏羲型神]]」、豚と犬は典型的な「非伏羲型神」でそれぞれ'''ブタ型'''と'''イヌ型'''である。 | 母親である女性は「[[燃やされた女神]]」、息子は「[[伏羲型神]]」、豚と犬は典型的な「非伏羲型神」でそれぞれ'''ブタ型'''と'''イヌ型'''である。 | ||
2026年2月5日 (木) 19:51時点における版
伏羲型神とは中国神話の伏羲とそこから派生したと思われる神々以外の神で、主に男性神である。大抵の神々は「伏羲型神」なので、中国神話の男神は「伏羲型神」か「非伏羲型神」かでしかないといえる。
分類
- 他人型:伏羲とは別の人物、例えば明らかに実在の人物と思われるものを、そのまま神格化したもの。例:尭(三苗と対立したという伝承を持つ中原の伝説的王)。
- 炎帝型:「吊された女神」を男性化したもの。例:炎帝。
- 神農型:「養母としての女神」を神格化したもの。開拓神が多い。例:神農。
- 風神型:タバロン社の女神ロチェから派生したと思われる「VT系」の子音の名を持つ神々の群。インド神話の風神ヴァーユ、北欧神話の主神オーディンなど、英雄的な男性神であることが多い。
- 父親型:伏羲・女媧型神話の父親とされ、明らかに伏羲型神とは区別されるもの。
- ブタ型:主にパイワン系の「父」とされる神。名ははっきりしない。伏羲型神とほぼ一体となっている場合もある。「夫」としての性質が強い場合には殺されることが多い。伏羲型神と習合している場合には、程度や内容にもよるが伏羲型に含めることとする。
- イヌ型:主にチワン系の「父」とされる神。名ははっきりしない。ブタ型とイヌ型の神は妻を巡って争う場合が多い。大抵、たがいを「間男」だと言って非難する。
- 混合父型:ブタ型とイヌ型が習合・混合していて区別がつかない場合。例:ミーノータウロスの父であるミーノース王。
- 家臣父型:元々「父親」の位置にいたはずが、神話が語り継がれていくうちに地位が低下し、伏羲型神あるいは他の型の神々の「家臣」となっている場合。例:帝俊の家臣である槃瓠。
- 逆賊父型:元々「父親」の位置にいたはずが、神話が語り継がれていくうちに地位が低下し、伏羲型神あるいは他の型の神々の「敵」「逆賊」「悪鬼」などとなっている場合。
「父」の神話
台湾アヤタル族タウツァー部族の伝承より。
昔、一人の婦人がいて、豚と戯れて男児を産んだ。子供が成長しても、互いに伴侶がいなくて寂しい思いをしていた。母親は息子に恋情を抱き、木の汁で顔を染めて息子に近づき「私はあなたの妻になりましょう。」と言った。息子は母とは知らずに結婚し、まもなく女の子が生まれた。そのうちに母の顔の色が元に戻り、息子は母親との不義に恐れおののいたが、どうしようもなかった。母親は正体がしれると、そのままどこかへ消えてしまったが、その後犬と交わって多くの子を産んだ。そのため子孫が増えて至るところに社を建てた。かくしてアヤタル族タウツァー部族は、犬と豚の子孫から成っている[1]。
私的考察
いわゆる「動物先祖」の話だが、母親が複数の相手と関係を持つのは、母系の時代から続く神話であることが推測される。またギリシア神話の「オイディプス王」の原型となる神話とも考える。母親と関係を持つ息子は「豚」の父親と立場が混在しているのであろう。あるいは「息子のみ豚の子である」ということを強調したかったのかもしれない。そして、「母親が罪あり」という思想に発展する下敷きとなる神話とも考える。母系社会であれば、母親が複数の男性と男女の仲になっても、特に咎められる問題ではない。でも、息子と男女の仲になれば、母系社会であっても倫理的に問題となろう。
「母親が罪あり」となれば、バビロニアのマルドゥクとティアマトの神話のように、息子が母親を殺す口実ともなって、息子神を正当化できる。この場合の豚というのはパイワン族、犬というのはタバロン社のトーテムのことでもあろう。ただし「タウツァー部族」とは名前の通りチワン族から派生した人々と思われるので、息子が母親を殺すような恐ろしい神話は忌避されたものと考える。
また、この神話では「豚(パイワン族)の息子と父が一体」とみなされている。三位一体ならぬ「二位一体」である。これはキリスト教的な「父と子は同じものである」という思想の原型といえないだろうか。「父と子がなぜ一体と考えられるのか」という問題点はあるのだが。なぜなら現代の私たちの通常の「家族」を考えてみても、父と息子は家族かもしれないけれども、別々の人間で、別々の個人である、と誰でも思うのではないだろうか。
だから、「父と子がなぜ一体と考えられるのか」という私なりの回答は、一つは「母親に罪あり」とするため、と考える。母系社会であれば、子供の立場では父親が誰であるのかは気にしないが、自分が母親の性の対象とされれば、それは問題である。そして、「父」とは言わないが「夫」とか「恋人」の立場であれば、愛する女性が他の男性と仲睦まじくする姿に嫉妬心を感じることは、それは母系社会であってもあることであったのではないだろうか。それは社会的、倫理的には問題なくても、一人の男性としては「裏切られた」と感じて、「女性に罪あり」と憤りを感じるような問題となることもあったかもしれない、と思う。男性の嫉妬心を「女性に罪あり」と正当化するためには「夫」という立場が必要なのである。だから何重にも「女性に罪あり」とするために、父と子を一体化させてしまったのだろう。
母親である女性は「燃やされた女神」、息子は「伏羲型神」、豚と犬は典型的な「非伏羲型神」でそれぞれブタ型とイヌ型である。
関連項目
参照
- ↑ 神々の物語、台湾原住民文学選5、神村徹編、草風館、2006年8月1日出版、p45