という神話を持っていたために、太陽女神を中心とした神話を作る際に、その勢力を無視できず、阿遅鉏高日子根のまま取り込むのではなく、須佐之男と名前を変えて取り込んで作られたのが、記紀神話なのではないだろうか。阿遅鉏高日子根を「烏神」でもあったと仮定すれば、賀茂建角身命とも同じ神と言える。(系図の上では賀茂建角身命は阿遅鉏高日子根(別雷神)の祖父となっている。)賀茂建角身命は日本における[[延烏朗]]といえる。別の神話も加えて、
阿遅鉏高日子根=賀茂建角身命(阿遅鉏高日子根(賀茂別雷大神)=賀茂建角身命([[延烏朗]])=須佐之男(牛頭天王)=都怒我阿羅斯等(天之日矛)='''雷神あるいは(兼)太陽神'''
としてみると、彼らは阿遅鉏高日子根以外は、「新羅から来た神」「角のある神」「自身が雷神あるいは(兼)太陽神」「妻神も雷神あるいは(兼)太陽神」という点で性質がほぼ一致しているように思う。須佐之男は子孫が天皇家であることから、「地上における皇祖神」という意味も持つ神で、実際人間世界では高天原と異なって「反逆の悪神」とされる場合はほとんどない。その性質は、まさに「地上(倭国)の王」となった太陽神・[[延烏朗]]そのものなのではないだろうか。
よって、記紀神話の「'''三貴子'''」とは、「太陽(姉)と月(弟)」が近親である、という神話と、賀茂系の神話を組み合わせて、事実上、「'''天界の太陽女神、地上の太陽男神'''」が並立している神話を作り上げた結果だと考える。須佐之男を太陽女神の「弟」と位置づける際に、月神(弟)の性質も併せてしまったために、月神は名のみしか残らないこととなったと考える。遼河文明的な「太陽女神と太陽神」が並立するという神話概念を日本風に再編したものといえるのではないだろうか。
阿遅鉏高日子根は'''迦毛大御神'''とも呼ばれ、『『古事記』で初登場時から「大御神」と呼ばれているのは、天照大神と迦毛大御神のみ。』とのことである。京都の賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)には平安時代から鎌倉時代にかけて斎院という、皇族の女性が奉仕する伊勢神宮の斎宮と似た制度があった。上賀茂神社の祭神が'''須佐之男の賀茂氏版'''だったとすれば、これを「'''須佐之男と同じ'''」とみて、皇祖神に許される「大御神」の名で呼ばれたり、子孫とされる斎院が奉仕しても反発は生じないことと思う。賀茂氏系の氏族は古族ではあるが、平安時代には必ずしも位が高い家ではなかった。さほど政治的に配慮が必要な家ではないにもかかわらず、彼らの神社に斎院が奉仕すると定められたのだから平安時代の貴族達の中にも、暗に「'''賀茂別雷大神とは須佐之男のこと'''」という意識は、表に出さないだけであったのかもしれないと考える。
=== その他太陽女神 ===