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* '''父親型''':伏羲・女媧型神話の父親とされ、'''明らかに'''伏羲型神とは区別されるもの。 | * '''父親型''':伏羲・女媧型神話の父親とされ、'''明らかに'''伏羲型神とは区別されるもの。 | ||
** '''ブタ型''':主にパイワン系の「父」とされる神。名ははっきりしない。伏羲型神とほぼ一体となっている場合もある。「夫」としての性質が強い場合には殺されることが多い。伏羲型神と習合している場合には、程度や内容にもよるが[[伏羲型神|伏羲型]]に含めることとする。 | ** '''ブタ型''':主にパイワン系の「父」とされる神。名ははっきりしない。伏羲型神とほぼ一体となっている場合もある。「夫」としての性質が強い場合には殺されることが多い。伏羲型神と習合している場合には、程度や内容にもよるが[[伏羲型神|伏羲型]]に含めることとする。 | ||
| − | ** '''イヌ型''' | + | ** '''イヌ型''':主にタバロン系の「父」とされる神。名ははっきりしない。ブタ型とイヌ型の神は妻を巡って争う場合が多い。大抵、たがいを「間男」だと言って非難する。 |
** '''混合父型''':'''ブタ型'''と'''イヌ型'''が習合・混合していて区別がつかない場合。例:ミーノータウロスの父である'''ミーノース王'''。 | ** '''混合父型''':'''ブタ型'''と'''イヌ型'''が習合・混合していて区別がつかない場合。例:ミーノータウロスの父である'''ミーノース王'''。 | ||
** '''家臣父型''':元々「父親」の位置にいたはずが、神話が語り継がれていくうちに地位が低下し、伏羲型神あるいは他の型の神々の「家臣」となっている場合。例:帝俊の家臣である[[槃瓠]]。 | ** '''家臣父型''':元々「父親」の位置にいたはずが、神話が語り継がれていくうちに地位が低下し、伏羲型神あるいは他の型の神々の「家臣」となっている場合。例:帝俊の家臣である[[槃瓠]]。 | ||
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=== 私的考察 === | === 私的考察 === | ||
| − | いわゆる「動物先祖」の話だが、母親が複数の相手と関係を持つのは、母系の時代から続く神話であることが推測される。またギリシア神話の「[[テーバイ攻めの七将|オイディプス王]]」の原型となる神話とも考える。母親と関係を持つ息子は「豚」の父親と立場が混在しているのであろう。あるいは「息子のみ豚の子である」ということを強調したかったのかもしれない。そして、「'''母親が罪あり''' | + | いわゆる「動物先祖」の話だが、母親が複数の相手と関係を持つのは、母系の時代から続く神話であることが推測される。またギリシア神話の「[[テーバイ攻めの七将|オイディプス王]]」の原型となる神話とも考える。母親と関係を持つ息子は「豚」の父親と立場が混在しているのであろう。あるいは「息子のみ豚の子である」ということを強調したかったのかもしれない。そして、「'''母親が罪あり'''」という思想に発展する下敷きとなる神話とも考える。母系社会であれば、母親が複数の男性と男女の仲になっても、特に咎められる問題ではない。でも、息子と男女の仲になれば、母系社会であっても倫理的に問題となろう。 |
| − | + | 「母親が罪あり」となれば、バビロニアのマルドゥクとティアマトの神話のように、'''息子が母親を殺す口実ともなって、息子神を正当化できる'''。この場合の豚というのはパイワン族、犬というのはタバロン社のトーテムのことでもあろう。ただし「タウツァー部族」とは名前の通り[[チワン族]]から派生した人々と思われるので、息子が母親を殺すような恐ろしい神話は忌避されたものと考える。 | |
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| + | また、この神話では「'''豚(パイワン族)の息子と父が一体'''」とみなされている。三位一体ならぬ「'''二位一体'''」である。これはキリスト教的な「'''父と子は同じものである'''」という思想の原型といえないだろうか。「'''父と子がなぜ一体と考えられるのか'''」という問題点はあるのだが。なぜなら現代の私たちの通常の「家族」を考えてみても、父と息子は家族かもしれないけれども、別々の人間で、別々の個人である、と誰でも思うのではないだろうか。 | ||
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| + | だから、「父と子がなぜ一体と考えられるのか」という私なりの回答は、一つは「'''母親に罪あり'''」とするため、と考える。母系社会であれば、子供の立場では父親が誰であるのかは気にしないが、自分が母親の性の対象とされれば、それは問題である。そして、「父」とは言わないが「夫」とか「恋人」の立場であれば、愛する女性が他の男性と仲睦まじくする姿に嫉妬心を感じることは、それは母系社会であってもあることであったのではないだろうか。それは社会的、倫理的には問題なくても、一人の男性としては「裏切られた」と感じて、「女性に罪あり」と憤りを感じるような問題となることもあったかもしれない、と思う。'''男性の嫉妬心を「女性に罪あり」と正当化するためには「夫」という立場が必要なのである'''。だから何重にも「'''女性に罪あり'''」とするために、父と子を一体化させてしまったのだろう。 | ||
母親である女性は「[[燃やされた女神]]」、息子は「[[伏羲型神]]」、豚と犬は典型的な「非伏羲型神」でそれぞれ'''ブタ型'''と'''イヌ型'''である。 | 母親である女性は「[[燃やされた女神]]」、息子は「[[伏羲型神]]」、豚と犬は典型的な「非伏羲型神」でそれぞれ'''ブタ型'''と'''イヌ型'''である。 | ||
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| + | == 父と息子 == | ||
| + | ギリシア神話のオイディプス王はそれと知らずに父親を殺してしまう。そして父の妻、すなわち母を妻とする。インドの仏教説話にはこういう話がある。 | ||
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| + | <blockquote>天竺に大天という男がいた。父親が商売で留守にしている間に、彼は「この世で最も美しい女と結婚しよう。」と考えた。そしてある時母親が一番美しい女だと気がついたので、母親と結婚することにした。やがて「父親が戻ってくる。」と連絡があったので、大天は父親が家に帰ってくる前に出向いて、父親を殺した。その後、母親の浮気を疑って妻を殺した。その後大天は遠くに移り住んだが、かつて近所にいた羅漢の比丘に出会い、親殺しを言いふらされるのを恐れて比丘を殺した。大天は三逆罪(殺父・殺母・殺羅漢)を犯した。(今昔物語集[https://hon-yak.net/4-23/ 巻四第二十三話 父を殺し母を妻とした話] 今昔物語集現代語訳(最終閲覧日:26-02-05))</blockquote> | ||
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| + | === 私的考察 === | ||
| + | これは大分父系化が進んだ社会の説話に書き換えられているので、もはや「母親」は当然のように複数の男性と関係を持ったりはしない。女性の貞操には厳しい社会になって、浮気を疑われるだけで殺されてしまうような状況である。しかし、「オイディプス王」は父親を殺しているので、母親と関係した息子が父親を殺した、というのが一番元の話にはあったと考えられる。台湾の伝承にはこの部分が欠落しているのだ。しかし、大天には「豚」と「犬」の2人の「父親」がいたはず。彼が殺したのはどちらの父親なのだろうか。大天が「豚」の父親と一体化していたのであれば、彼が殺したのは「'''犬の父親'''」なのではないだろうか。そうすれば、これは結局'''「豚」の夫が「犬」の間男を殺した'''、という話になりはしないだろうか。大天はその父の「豚」と同じ存在なのだから。そして彼は間男の「犬」と関係を持った母親も姦通の罪で殺してしまうのである。父系が進んだ社会であれば、夫が姦通の罪を妻に問うても、息子が姦通の罪を母に問うても、どちらも許される社会になるのではないだろうか。こうして'''間男と夫を裏切った妻はどちらも殺されてしまう'''。妻の最初の夫の手、あるいは彼女の息子の手によって、である。 | ||
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| + | ==== ちょっと寄り道 ==== | ||
| + | ところで「'''殺された犬の父'''」とは誰のことなのだろう。こういう特殊な神話は一つしか心当たりがないので、こう述べるしかない。 | ||
| + | * 息子たちに殺される[[盤瓠|槃瓠]]</br>息子たちは[[盤瓠|槃瓠]]犬を連れて狩に出かけた。途中、水牛に「その犬はお前たちの父親だ」とからかわれ、怒った息子たちは犬を殺した<ref>ヤオ族伝承、百田弥栄子『中国神話の深層』三弥井書店、2020年、660頁</ref>。 | ||
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| + | という神話がある。[[盤瓠|槃瓠]]は中国・[[ヤオ族]]の神である。おそらく[[盤瓠|槃瓠]]は[[ミャオ族]]に婿入りし、「自分だけは豚の息子」だと思ってる息子に殺されてしまったのだろう。水牛とは[[ミャオ族]]のトーテムだが、トーテムが水牛に変わる前は、彼らのトーテムは豚だったと思われる。[[盤瓠|槃瓠]]は元豚であった水牛に殺されたとも言えるのではないか。おそらく、ミャオ族の'''水牛神シィウニュウ'''(Hxub Niux)(中国神話の[[伏羲]])が[[盤瓠|槃瓠]]を殺し、また[[盤瓠|槃瓠]]の娘のニュウシャン(婆神)も殺してしまったので、シィウニュウはシャンリャンに石に変えられてしまったのだろう。シィウニュウの名を伏羲とすれば彼はインド神話のプルシャに相当するし、その名をグミヤーとすればゲルマン神話のユミルに相当すると考える。シャンリャンは殺した水牛を「世界の土台」に使ってしまったのかもしれない。そしてニュウシャンがインドの説話の「比丘」に相当するのだろう。 | ||
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| + | こうして、「豚の息子」が母の間男だった「犬」を殺した、という神話ができた。これが「水牛の息子」が母の間男だった「犬」を殺した、という話に変化した。もっと時代が下ると、どういうわけか「間男の犬」のトーテムが一部で「豚」に変更されてしまって、'''「水牛の息子」が母の間男だった「豚」を殺した'''、という話に変化したように思う。台湾のブヌン族には、'''「猪と浮気した妻と猪を夫が殺した」'''という話がある<ref>神々の物語、台湾原住民文学選5、神村徹編、草風館、2006年8月1日出版、p353-p355</ref>。こうして、殺した者と殺された者が入れ替わるような奇妙な神話が生じた。 | ||
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| + | == 父と息子のチェンジリング == | ||
| + | 日本の仏教説話にこんな話がある。 | ||
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| + | <blockquote>行基が難波で布教のために説法をしていた。一人の女が男の子を連れてきていたが、その子は十歳を過ぎているのに、絶えず泣き喚き、歩くこともできず、乳を飲んでいた。行基は女に「その子供は淵に投げ捨てなさい。」と言った。人々は「慈悲深い行基様が、なんでそのような無慈悲なことを言うのだろう。」と不審がった。女は子供がかわいかったので捨てず、次の日もまた子連れで説法を聞きにやってきた。しかし、また子供が泣きわめくので、ついに耐えきれず子供を淵に捨てた。すると子供は水の上に浮かんで「ああ残念だ。もう三年おまえから取り立てて食ってやろうと思ったのに。」と言った。行基はこの話を聞き、母親に「お前は前世で、彼の物を借りて返済しなかったので、貸主がおまえの子供に生まれ変わって取り立てようとしたのだ。」と教えたとのことだ<ref>日本霊異記第三十、日本古典文学全集、小学館、p225-227</ref>。</blockquote> | ||
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| + | これは一見すると母子姦の話ではない。ただ「泣きわめく子供」というのは須佐之男をイメージさせ、なにがしかの神話が崩れた話であると推察される。そして、前世でなにがしかの恨みがあると、それを晴らそうとして相手の子供に生まれ変わったりする、と古代の人が考えていたことが分かる。ということは、'''夫が妻の浮気を恨んで亡くなった場合、妻の息子に生まれ変わって復讐することもある'''、とそのようにも考えられていたのではないだろうか。この場合、息子の実の父親は「亡くなった母親の先夫」ではないかもしれない。でも「生まれ変わり」だから、息子は先夫も同然である。彼は、自分を裏切った妻に復讐するために、間男と妻の息子として生まれ変わった、と考えられたのではないだろうか。だから、父親でもある間男を殺してしまうし、母親も浮気の罪で殺してしまうのだ。息子が母親に「貸したもの」とはまさに「彼の命」そのものだったので、彼は生まれ変わって相手の命を取り立てたのではないだろうか。 | ||
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| + | 少なくとも、後世の人がそう考えたから、「'''母親と結婚して父親と母親を殺す男'''」の話と、「'''浮気した妻と浮気相手を殺す男'''」の神話が成立したのだと考える。この2つの話は「同じ意味」を持つ話で、'''「浮気相手を殺す話」は前世の立場から見た話'''、'''「母親と父親を殺す話」は後世の立場から見た話'''なのだけれども、'''殺人者は二位一体で「父と子」でもあり、「同じ人物」なのでもある'''。ただし、霊異記の話の目的は行基の偉大さを示すものなので、母親は殺されずに仏の功徳で助けられることとなっている。そして、「泣きわめくばかりの子供」というのは須佐之男的でもあるし、西欧の伝承のいわゆる「取り替え子」的でもあると考える。取り替え子は「悪い妖精」が本当の赤ん坊を自分たちの仲間と取り替えてしまう、という伝承だが、これも「生まれ変わり」の概念の一種かもしれないと思う。 | ||
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| + | == 愛欲と生まれ変わりの関係 == | ||
| + | 霊異記が編纂されたのは平安時代であって、平安時代の日本はまだ母系が強力な社会だった。なので、こんな説話もある。 | ||
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| + | <blockquote>昔、墓の前で激しく泣いている女がいたので、仏がそれを見て嘆いた。弟子が嘆いたわけを聞くと、仏は「この女は前世で一人の男子を生み、その子に強く愛着して、口でその子の男根を吸った。三年後に女は病で亡くなったが、その際にも息子の一物を愛撫して『後世ではずっとおまえの妻になろう』と言った。こうして女は隣家の娘に生まれ変わり、息子の妻となった。その夫を亡くしたので彼女は泣いているのだが、私はこの愛欲にまみれて悪い因縁を作った女のことを嘆いたのだ。」と言った。<ref>日本霊異記第四十一、日本古典文学全集、小学館、p248-251</ref>。</blockquote> | ||
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| + | これは桑を摘んでいて蛇と通じて亡くなった「和製馬頭娘」の話に挿入的に付随して語られたエピソードである。ここまで原型が崩れてしまうと、「母子姦」という珍しい話だから、元の話が類推できるけれども、元の話を知らなければ想像や推察だけで元の形に戻すのは難しいと感じてしまう。ただ「馬頭娘」と共に語られているので、娘を犯して殺した蛇神と、母親との愛欲にまみれた男は、どちらも「元は同じもの」だから同じ項に一緒に収録したのか、とそのように想像してしまう。ともかく、古代の人が「人間は執着するものがあると、その周辺に生まれ変わることがある」と考えていたことが分かるし、'''「母子姦」の話は「生まれ変わり」という概念と非常に関連が深い'''ことが分かる。 | ||
== 関連項目 == | == 関連項目 == | ||
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2026年2月6日 (金) 00:59時点における最新版
伏羲型神とは中国神話の伏羲とそこから派生したと思われる神々以外の神で、主に男性神である。大抵の神々は「伏羲型神」なので、中国神話の男神は「伏羲型神」か「非伏羲型神」かでしかないといえる。
分類[編集]
- 他人型:伏羲とは別の人物、例えば明らかに実在の人物と思われるものを、そのまま神格化したもの。例:尭(三苗と対立したという伝承を持つ中原の伝説的王)。
- 炎帝型:「吊された女神」を男性化したもの。例:炎帝。
- 神農型:「養母としての女神」を神格化したもの。開拓神が多い。例:神農。
- 風神型:タバロン社の女神ロチェから派生したと思われる「VT系」の子音の名を持つ神々の群。インド神話の風神ヴァーユ、北欧神話の主神オーディンなど、英雄的な男性神であることが多い。
- 父親型:伏羲・女媧型神話の父親とされ、明らかに伏羲型神とは区別されるもの。
- ブタ型:主にパイワン系の「父」とされる神。名ははっきりしない。伏羲型神とほぼ一体となっている場合もある。「夫」としての性質が強い場合には殺されることが多い。伏羲型神と習合している場合には、程度や内容にもよるが伏羲型に含めることとする。
- イヌ型:主にタバロン系の「父」とされる神。名ははっきりしない。ブタ型とイヌ型の神は妻を巡って争う場合が多い。大抵、たがいを「間男」だと言って非難する。
- 混合父型:ブタ型とイヌ型が習合・混合していて区別がつかない場合。例:ミーノータウロスの父であるミーノース王。
- 家臣父型:元々「父親」の位置にいたはずが、神話が語り継がれていくうちに地位が低下し、伏羲型神あるいは他の型の神々の「家臣」となっている場合。例:帝俊の家臣である槃瓠。
- 逆賊父型:元々「父親」の位置にいたはずが、神話が語り継がれていくうちに地位が低下し、伏羲型神あるいは他の型の神々の「敵」「逆賊」「悪鬼」などとなっている場合。
「父」の神話[編集]
台湾アヤタル族タウツァー部族の伝承より。
昔、一人の婦人がいて、豚と戯れて男児を産んだ。子供が成長しても、互いに伴侶がいなくて寂しい思いをしていた。母親は息子に恋情を抱き、木の汁で顔を染めて息子に近づき「私はあなたの妻になりましょう。」と言った。息子は母とは知らずに結婚し、まもなく女の子が生まれた。そのうちに母の顔の色が元に戻り、息子は母親との不義に恐れおののいたが、どうしようもなかった。母親は正体がしれると、そのままどこかへ消えてしまったが、その後犬と交わって多くの子を産んだ。そのため子孫が増えて至るところに社を建てた。かくしてアヤタル族タウツァー部族は、犬と豚の子孫から成っている[1]。
私的考察[編集]
いわゆる「動物先祖」の話だが、母親が複数の相手と関係を持つのは、母系の時代から続く神話であることが推測される。またギリシア神話の「オイディプス王」の原型となる神話とも考える。母親と関係を持つ息子は「豚」の父親と立場が混在しているのであろう。あるいは「息子のみ豚の子である」ということを強調したかったのかもしれない。そして、「母親が罪あり」という思想に発展する下敷きとなる神話とも考える。母系社会であれば、母親が複数の男性と男女の仲になっても、特に咎められる問題ではない。でも、息子と男女の仲になれば、母系社会であっても倫理的に問題となろう。
「母親が罪あり」となれば、バビロニアのマルドゥクとティアマトの神話のように、息子が母親を殺す口実ともなって、息子神を正当化できる。この場合の豚というのはパイワン族、犬というのはタバロン社のトーテムのことでもあろう。ただし「タウツァー部族」とは名前の通りチワン族から派生した人々と思われるので、息子が母親を殺すような恐ろしい神話は忌避されたものと考える。
また、この神話では「豚(パイワン族)の息子と父が一体」とみなされている。三位一体ならぬ「二位一体」である。これはキリスト教的な「父と子は同じものである」という思想の原型といえないだろうか。「父と子がなぜ一体と考えられるのか」という問題点はあるのだが。なぜなら現代の私たちの通常の「家族」を考えてみても、父と息子は家族かもしれないけれども、別々の人間で、別々の個人である、と誰でも思うのではないだろうか。
だから、「父と子がなぜ一体と考えられるのか」という私なりの回答は、一つは「母親に罪あり」とするため、と考える。母系社会であれば、子供の立場では父親が誰であるのかは気にしないが、自分が母親の性の対象とされれば、それは問題である。そして、「父」とは言わないが「夫」とか「恋人」の立場であれば、愛する女性が他の男性と仲睦まじくする姿に嫉妬心を感じることは、それは母系社会であってもあることであったのではないだろうか。それは社会的、倫理的には問題なくても、一人の男性としては「裏切られた」と感じて、「女性に罪あり」と憤りを感じるような問題となることもあったかもしれない、と思う。男性の嫉妬心を「女性に罪あり」と正当化するためには「夫」という立場が必要なのである。だから何重にも「女性に罪あり」とするために、父と子を一体化させてしまったのだろう。
母親である女性は「燃やされた女神」、息子は「伏羲型神」、豚と犬は典型的な「非伏羲型神」でそれぞれブタ型とイヌ型である。
父と息子[編集]
ギリシア神話のオイディプス王はそれと知らずに父親を殺してしまう。そして父の妻、すなわち母を妻とする。インドの仏教説話にはこういう話がある。
天竺に大天という男がいた。父親が商売で留守にしている間に、彼は「この世で最も美しい女と結婚しよう。」と考えた。そしてある時母親が一番美しい女だと気がついたので、母親と結婚することにした。やがて「父親が戻ってくる。」と連絡があったので、大天は父親が家に帰ってくる前に出向いて、父親を殺した。その後、母親の浮気を疑って妻を殺した。その後大天は遠くに移り住んだが、かつて近所にいた羅漢の比丘に出会い、親殺しを言いふらされるのを恐れて比丘を殺した。大天は三逆罪(殺父・殺母・殺羅漢)を犯した。(今昔物語集巻四第二十三話 父を殺し母を妻とした話 今昔物語集現代語訳(最終閲覧日:26-02-05))
私的考察[編集]
これは大分父系化が進んだ社会の説話に書き換えられているので、もはや「母親」は当然のように複数の男性と関係を持ったりはしない。女性の貞操には厳しい社会になって、浮気を疑われるだけで殺されてしまうような状況である。しかし、「オイディプス王」は父親を殺しているので、母親と関係した息子が父親を殺した、というのが一番元の話にはあったと考えられる。台湾の伝承にはこの部分が欠落しているのだ。しかし、大天には「豚」と「犬」の2人の「父親」がいたはず。彼が殺したのはどちらの父親なのだろうか。大天が「豚」の父親と一体化していたのであれば、彼が殺したのは「犬の父親」なのではないだろうか。そうすれば、これは結局「豚」の夫が「犬」の間男を殺した、という話になりはしないだろうか。大天はその父の「豚」と同じ存在なのだから。そして彼は間男の「犬」と関係を持った母親も姦通の罪で殺してしまうのである。父系が進んだ社会であれば、夫が姦通の罪を妻に問うても、息子が姦通の罪を母に問うても、どちらも許される社会になるのではないだろうか。こうして間男と夫を裏切った妻はどちらも殺されてしまう。妻の最初の夫の手、あるいは彼女の息子の手によって、である。
ちょっと寄り道[編集]
ところで「殺された犬の父」とは誰のことなのだろう。こういう特殊な神話は一つしか心当たりがないので、こう述べるしかない。
という神話がある。槃瓠は中国・ヤオ族の神である。おそらく槃瓠はミャオ族に婿入りし、「自分だけは豚の息子」だと思ってる息子に殺されてしまったのだろう。水牛とはミャオ族のトーテムだが、トーテムが水牛に変わる前は、彼らのトーテムは豚だったと思われる。槃瓠は元豚であった水牛に殺されたとも言えるのではないか。おそらく、ミャオ族の水牛神シィウニュウ(Hxub Niux)(中国神話の伏羲)が槃瓠を殺し、また槃瓠の娘のニュウシャン(婆神)も殺してしまったので、シィウニュウはシャンリャンに石に変えられてしまったのだろう。シィウニュウの名を伏羲とすれば彼はインド神話のプルシャに相当するし、その名をグミヤーとすればゲルマン神話のユミルに相当すると考える。シャンリャンは殺した水牛を「世界の土台」に使ってしまったのかもしれない。そしてニュウシャンがインドの説話の「比丘」に相当するのだろう。
こうして、「豚の息子」が母の間男だった「犬」を殺した、という神話ができた。これが「水牛の息子」が母の間男だった「犬」を殺した、という話に変化した。もっと時代が下ると、どういうわけか「間男の犬」のトーテムが一部で「豚」に変更されてしまって、「水牛の息子」が母の間男だった「豚」を殺した、という話に変化したように思う。台湾のブヌン族には、「猪と浮気した妻と猪を夫が殺した」という話がある[3]。こうして、殺した者と殺された者が入れ替わるような奇妙な神話が生じた。
父と息子のチェンジリング[編集]
日本の仏教説話にこんな話がある。
行基が難波で布教のために説法をしていた。一人の女が男の子を連れてきていたが、その子は十歳を過ぎているのに、絶えず泣き喚き、歩くこともできず、乳を飲んでいた。行基は女に「その子供は淵に投げ捨てなさい。」と言った。人々は「慈悲深い行基様が、なんでそのような無慈悲なことを言うのだろう。」と不審がった。女は子供がかわいかったので捨てず、次の日もまた子連れで説法を聞きにやってきた。しかし、また子供が泣きわめくので、ついに耐えきれず子供を淵に捨てた。すると子供は水の上に浮かんで「ああ残念だ。もう三年おまえから取り立てて食ってやろうと思ったのに。」と言った。行基はこの話を聞き、母親に「お前は前世で、彼の物を借りて返済しなかったので、貸主がおまえの子供に生まれ変わって取り立てようとしたのだ。」と教えたとのことだ[4]。
これは一見すると母子姦の話ではない。ただ「泣きわめく子供」というのは須佐之男をイメージさせ、なにがしかの神話が崩れた話であると推察される。そして、前世でなにがしかの恨みがあると、それを晴らそうとして相手の子供に生まれ変わったりする、と古代の人が考えていたことが分かる。ということは、夫が妻の浮気を恨んで亡くなった場合、妻の息子に生まれ変わって復讐することもある、とそのようにも考えられていたのではないだろうか。この場合、息子の実の父親は「亡くなった母親の先夫」ではないかもしれない。でも「生まれ変わり」だから、息子は先夫も同然である。彼は、自分を裏切った妻に復讐するために、間男と妻の息子として生まれ変わった、と考えられたのではないだろうか。だから、父親でもある間男を殺してしまうし、母親も浮気の罪で殺してしまうのだ。息子が母親に「貸したもの」とはまさに「彼の命」そのものだったので、彼は生まれ変わって相手の命を取り立てたのではないだろうか。
少なくとも、後世の人がそう考えたから、「母親と結婚して父親と母親を殺す男」の話と、「浮気した妻と浮気相手を殺す男」の神話が成立したのだと考える。この2つの話は「同じ意味」を持つ話で、「浮気相手を殺す話」は前世の立場から見た話、「母親と父親を殺す話」は後世の立場から見た話なのだけれども、殺人者は二位一体で「父と子」でもあり、「同じ人物」なのでもある。ただし、霊異記の話の目的は行基の偉大さを示すものなので、母親は殺されずに仏の功徳で助けられることとなっている。そして、「泣きわめくばかりの子供」というのは須佐之男的でもあるし、西欧の伝承のいわゆる「取り替え子」的でもあると考える。取り替え子は「悪い妖精」が本当の赤ん坊を自分たちの仲間と取り替えてしまう、という伝承だが、これも「生まれ変わり」の概念の一種かもしれないと思う。
愛欲と生まれ変わりの関係[編集]
霊異記が編纂されたのは平安時代であって、平安時代の日本はまだ母系が強力な社会だった。なので、こんな説話もある。
昔、墓の前で激しく泣いている女がいたので、仏がそれを見て嘆いた。弟子が嘆いたわけを聞くと、仏は「この女は前世で一人の男子を生み、その子に強く愛着して、口でその子の男根を吸った。三年後に女は病で亡くなったが、その際にも息子の一物を愛撫して『後世ではずっとおまえの妻になろう』と言った。こうして女は隣家の娘に生まれ変わり、息子の妻となった。その夫を亡くしたので彼女は泣いているのだが、私はこの愛欲にまみれて悪い因縁を作った女のことを嘆いたのだ。」と言った。[5]。
これは桑を摘んでいて蛇と通じて亡くなった「和製馬頭娘」の話に挿入的に付随して語られたエピソードである。ここまで原型が崩れてしまうと、「母子姦」という珍しい話だから、元の話が類推できるけれども、元の話を知らなければ想像や推察だけで元の形に戻すのは難しいと感じてしまう。ただ「馬頭娘」と共に語られているので、娘を犯して殺した蛇神と、母親との愛欲にまみれた男は、どちらも「元は同じもの」だから同じ項に一緒に収録したのか、とそのように想像してしまう。ともかく、古代の人が「人間は執着するものがあると、その周辺に生まれ変わることがある」と考えていたことが分かるし、「母子姦」の話は「生まれ変わり」という概念と非常に関連が深いことが分かる。