「非伏羲型神」の版間の差分

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* '''他人型''':伏羲とは別の人物、例えば明らかに実在の人物と思われるものを、そのまま神格化したもの。例:'''尭'''(三苗と対立したという伝承を持つ中原の伝説的王)。
 
* '''他人型''':伏羲とは別の人物、例えば明らかに実在の人物と思われるものを、そのまま神格化したもの。例:'''尭'''(三苗と対立したという伝承を持つ中原の伝説的王)。
 
* '''炎帝型''':「吊された女神」を男性化したもの。例:[[炎帝]]。
 
* '''炎帝型''':「吊された女神」を男性化したもの。例:[[炎帝]]。
* '''神農型''':「養母としての女神」を神格化したもの。開拓神が多い。例:神農。
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* '''神農型''':「養母としての女神」を神格化したもの。開拓神が多い。例:[[神農]]。
 
** '''風神型''':タバロン社の女神ロチェから派生したと思われる「'''VT系'''」の子音の名を持つ神々の群。インド神話の風神ヴァーユ、北欧神話の主神オーディンなど、英雄的な男性神であることが多い。
 
** '''風神型''':タバロン社の女神ロチェから派生したと思われる「'''VT系'''」の子音の名を持つ神々の群。インド神話の風神ヴァーユ、北欧神話の主神オーディンなど、英雄的な男性神であることが多い。
 
* '''父親型''':伏羲・女媧型神話の父親とされ、'''明らかに'''伏羲型神とは区別されるもの。
 
* '''父親型''':伏羲・女媧型神話の父親とされ、'''明らかに'''伏羲型神とは区別されるもの。
 
** '''ブタ型''':主にパイワン系の「父」とされる神。名ははっきりしない。伏羲型神とほぼ一体となっている場合もある。「夫」としての性質が強い場合には殺されることが多い。伏羲型神と習合している場合には、程度や内容にもよるが[[伏羲型神|伏羲型]]に含めることとする。
 
** '''ブタ型''':主にパイワン系の「父」とされる神。名ははっきりしない。伏羲型神とほぼ一体となっている場合もある。「夫」としての性質が強い場合には殺されることが多い。伏羲型神と習合している場合には、程度や内容にもよるが[[伏羲型神|伏羲型]]に含めることとする。
** '''イヌ型''':主にチワン系の「父」とされる神。名ははっきりしない。ブタ型とイヌ型の神は妻を巡って争う場合が多い。大抵、たがいを「間男」だと言って非難する。
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** '''イヌ型''':主にタバロン系の「父」とされる神。名ははっきりしない。ブタ型とイヌ型の神は妻を巡って争う場合が多い。大抵、たがいを「間男」だと言って非難する。
 
** '''混合父型''':'''ブタ型'''と'''イヌ型'''が習合・混合していて区別がつかない場合。例:ミーノータウロスの父である'''ミーノース王'''。
 
** '''混合父型''':'''ブタ型'''と'''イヌ型'''が習合・混合していて区別がつかない場合。例:ミーノータウロスの父である'''ミーノース王'''。
 
** '''家臣父型''':元々「父親」の位置にいたはずが、神話が語り継がれていくうちに地位が低下し、伏羲型神あるいは他の型の神々の「家臣」となっている場合。例:帝俊の家臣である[[槃瓠]]。
 
** '''家臣父型''':元々「父親」の位置にいたはずが、神話が語り継がれていくうちに地位が低下し、伏羲型神あるいは他の型の神々の「家臣」となっている場合。例:帝俊の家臣である[[槃瓠]]。
 
** '''逆賊父型''':元々「父親」の位置にいたはずが、神話が語り継がれていくうちに地位が低下し、伏羲型神あるいは他の型の神々の「敵」「逆賊」「悪鬼」などとなっている場合。
 
** '''逆賊父型''':元々「父親」の位置にいたはずが、神話が語り継がれていくうちに地位が低下し、伏羲型神あるいは他の型の神々の「敵」「逆賊」「悪鬼」などとなっている場合。
  
== 伏羲とは何者なのか ==
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== 「父」の神話 ==
=== ヴァルナとはなんだろう ===
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台湾アヤタル族タウツァー部族の伝承より。
ヴァルナとは、イラン・インド神話の神であり、'''男性神'''とされる。天空神であったり、水神であったりする。ミャオ族の女神「[[バロン]]」を'''男性化したもの'''と考える。とするとこの神はミャオ族の神なのか、というと必ずしもそうではないと考える。
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<blockquote>昔、一人の婦人がいて、豚と戯れて男児を産んだ。子供が成長しても、互いに伴侶がいなくて寂しい思いをしていた。母親は息子に恋情を抱き、木の汁で顔を染めて息子に近づき「私はあなたの妻になりましょう。」と言った。息子は母とは知らずに結婚し、まもなく女の子が生まれた。そのうちに母の顔の色が元に戻り、息子は母親との不義に恐れおののいたが、どうしようもなかった。母親は正体がしれると、そのままどこかへ消えてしまったが、その後犬と交わって多くの子を産んだ。そのため子孫が増えて至るところに社を建てた。かくしてアヤタル族タウツァー部族は、犬と豚の子孫から成っている<ref>神々の物語、台湾原住民文学選5、神村徹編、草風館、2006年8月1日出版、p45</ref>。</blockquote>
  
この神の発生には'''[[大渓文化]]'''が関係していると考える。'''[[大渓文化]]'''は楓の木を神聖視し、城砦を作り、一般人は「竹」をトーテムとする、というような緩やかな階級制の発生した社会と考える。担い手はミャオ族とされるけれども、ミャオ族だけの文化ではなく、周辺の少数民族も構成員に含まれていたと考える。また城砦が作られるくらいなので「'''軍団'''」の重要性が強く、母系社会であっても男性の社会的地位は他の母系集団に比べて高かったのではないか、と思う。彼らは基本的には母系的なミャオ族の祖神を神として祀っていたと考える。非ミャオ族集団は、どうしても社会的地位が低い側に追いやられやすいので、職業軍人としての出世を望み、社会的地位を上げたいと考えていたのではないだろうか。母系集団のミャオ族の方は、そういう彼らをいわゆる「傭兵的」に利用したい、という思惑もあったかもしれない。よって、下層階級は兵士としての男性が重要視される父系社会になりやすかったのではないか、と考える。男の子が出世できるかできないかが、家族にとって社会的地位を左右したのだ。
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=== 私的考察 ===
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いわゆる「動物先祖」の話だが、母親が複数の相手と関係を持つのは、母系の時代から続く神話であることが推測される。またギリシア神話の「[[テーバイ攻めの七将|オイディプス王]]」の原型となる神話とも考える。母親と関係を持つ息子は「豚」の父親と立場が混在しているのであろう。あるいは「息子のみ豚の子である」ということを強調したかったのかもしれない。そして、「'''母親が罪あり'''」という思想に発展する下敷きとなる神話とも考える。母系社会であれば、母親が複数の男性と男女の仲になっても、特に咎められる問題ではない。でも、息子と男女の仲になれば、母系社会であっても倫理的に問題となろう。
  
そこで、一部のミャオ族、特にあまり社会的地位が高くない人々の中には、母系社会で女性が優位であることに不満を持ち、父系への移行を求める動きが強くなったものと思われる。彼らはミャオ族以外にも同志を募り、バロン女神を男神に置き換えた、「ヴァルナ」という神を作り出したと思われる。急激な社会の「父系化」を狙う、過激な「ヴァルナ党」とも言うべき集団だったと考える。氏族構成は、バロン女神の名からとっているにも関わらずごく少数の過激派苗族と、それに賛同する各部族となっていたのだろう。その中にはチワン族の一部も加わっていたと思われる。チワン族はミャオ族にとって特別な氏族だったと考える。なぜなら、遠い昔にチワン族から入り婿的にミャオ族の女首長(太陽女神の地上における代理人)の側近となり、「人肉食と人身御供禁止」と「兄妹婚禁止」という2大改革を行った英雄がいたからである。チワン族のトーテムは犬と蛙なので、ヴァルナ党に加わったチワン族はこの英雄を「槃瓠王」と読んだと考える。これも結局バロン女神の名前である。しかし仕方がなかった。母系社会では父親は重要視されないので、遠い男性の先祖は名か残っておらず、そのトーテムにちなんで、ミャオ族の先祖は''''''、チワン族の先祖は'''犬'''と言うしかなかったのだろう。
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「母親が罪あり」となれば、バビロニアのマルドゥクとティアマトの神話のように、'''息子が母親を殺す口実ともなって、息子神を正当化できる'''。この場合の豚というのはパイワン族、犬というのはタバロン社のトーテムのことでもあろう。ただし「タウツァー部族」とは名前の通り[[チワン族]]から派生した人々と思われるので、息子が母親を殺すような恐ろしい神話は忌避されたものと考える。
  
ということで、チワン族はミャオ族にとって、特別な部族ではあったけれども、立場としてはやはり「臣下」だったのだと考える。でもチワン族は真面目で律儀な人々だったので、遠い先祖が真面目に臣従していたミャオ族に、先祖に倣って臣従し続けている人達がいたのかもしれないと考える。チワン族は、彼らは彼らで独自の神々を擁していたので、宗教的に他の諸部族ほどは「ミャオ族化」しなかったのだと考える。こうして、過激な父系化を狙う「'''ヴァルナ党'''」が結成され、母系社会であったミャオ族と対立するようになったと考える。チワン族は有力な構成部族だったので、特別にチワンの名をとって「'''デーヴァ党'''」を結成した。ヴァルナと対立するデーヴァではなく、「'''ヴァルナ党の中のデーヴァ党'''」である。'''ミャオ族の女王を巡って、ミャオ族とチワン族が対立したのは、遙か何千年も昔の話である。'''ヴァルナ党の構成要員は
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また、この神話では「'''豚(パイワン族)の息子と父が一体'''」とみなされている。三位一体ならぬ「'''二位一体'''」である。これはキリスト教的な「'''父と子は同じものである'''」という思想の原型といえないだろうか。「'''父と子がなぜ一体と考えられるのか'''」という問題点はあるのだが。なぜなら現代の私たちの通常の「家族」を考えてみても、父と息子は家族かもしれないけれども、別々の人間で、別々の個人である、と誰でも思うのではないだろうか。
* ごく少数の(だけど中枢的な)過激ミャオ族
 
* 次席の一部チワン族
 
* 諸部族
 
だったと考える。彼らは彼らで、男性の社会的地位の向上を目指しながら共同で大規模な水稲耕作社会を運営するようになっていったと考える。当然ミャオ族本隊はこの動きから離脱してしまうし、この動きに加わらないで山間部などで古くからの伝統的な生活を続ける人々も大勢いたことと思われる。彼らの最初の到達点といえるのは、現在の上海付近に成立した「[[馬家浜文化]]」と「[[河姆渡文化]]」と考える。この2つの文化は近隣にあり、互いに交流しながらそれぞれ独自の宗教体制を敷いていた。おそらく「[[馬家浜文化]]」はヴァルナ党、「[[河姆渡文化]]」はデーヴァ党が築いた社会と思う。
 
  
ともかく、「ヴァルナ党」とは台湾原住民では主にパイワン族、という名になったと考える。彼らの伝説的な始祖の中に'''サプラルヤンヤン'''、サカポラル、サプルガンなどの名を持つ男性がいる。彼はサシミダル、サジュムジという男性と父子などの近親で語られることが多い<ref>神々の物語、台湾原住民文学選5、神村徹編、草風館、2006年8月1日出版、p267、280、397、412、431、446</ref>。彼には'''モアカイ'''という妻がいることが多い。モアカイとは中国神話の「'''[[女媧]]'''」に相当する名と思われる。要するに「サプラルヤンヤン」などの名前で呼ばれる頭目は、名前の子音からみても中国神話の'''[[伏羲]]'''に相当すると考える。
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だから、「父と子がなぜ一体と考えられるのか」という私なりの回答は、一つは「'''母親に罪あり'''」とするため、と考える。母系社会であれば、子供の立場では父親が誰であるのかは気にしないが、自分が母親の性の対象とされれば、それは問題である。そして、「父」とは言わないが「夫」とか「恋人」の立場であれば、愛する女性が他の男性と仲睦まじくする姿に嫉妬心を感じることは、それは母系社会であってもあることであったのではないだろうか。それは社会的、倫理的には問題なくても、一人の男性としては「裏切られた」と感じて、「女性に罪あり」と憤りを感じるような問題となることもあったかもしれない、と思う。'''男性の嫉妬心を「女性に罪あり」と正当化するためには「夫」という立場が必要なのである'''。だから何重にも「'''女性に罪あり'''」とするために、父と子を一体化させてしまったのだろう。
  
つまり、'''中国神話における「ヴァルナ」とは何かといえば、ミャオ族の女神バロンを流用して男神に置き換えたものであり、それは古代に存在した他民族から成る氏族の名として使われ、現在のプーラン族(台湾のパイアン族など)にその名を留めている神である。その男女の始祖的首長とされたのが現在の「[[伏羲]]」と「[[女媧]]」の組み合わせの出発点だった'''といえる。ミャオ族神話の'''[[伏羲]]'''は、大岩と化してしまう水牛のシィウニュウ(Hxub Niux)と考える。彼はシャンリャン(Xang Liang)女神と耕作を終えた後、石と化してしまう神だ。
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母親である女性は「[[燃やされた女神]]」、息子は「[[伏羲型神]]」、豚と犬は典型的な「非伏羲型神」でそれぞれ'''ブタ型''''''イヌ型'''である。
  
現在のプーラン族の伝承では、「ヴァルナ」に相当する神は「茶の木」を植えた神、あるいは「茶の木そのもの」とみなされているようで、かつて「創造神」とされていた名残のようなものは感じられるけれども、最も重要な「神」は英雄神でもあるグミヤーに置き換わってしまっているように感じる。台湾の伝承では逆に「創造神」としてのグミヤーの姿は薄れており、「空を飛ぶ神」といった性質が断片的に残されているのみと感じる。ミャオ族の中での「グミヤー」に相当する神は、「'''父なる[[アペ・コペン]]'''」と考える。同族食いと近親結婚を容認する神である。アペ・コペンはおおむね「死ぬ神」といえる。中国神話で大洪水を生き残る子供達の父は死ぬことが多いし、アペ・コペンも天に昇って地上には帰ってこない。ただし、'''天空を飛んでさまよう'''神とされている。
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== 父と息子 ==
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ギリシア神話のオイディプス王はそれと知らずに父親を殺してしまう。そして父の妻、すなわち母を妻とする。インドの仏教説話にはこういう話がある。
  
このように見ていくと、伏羲やグミヤーは、ミャオ族の中では「死ぬ父神」あるいは「死ぬ牛神」のような存在であって、本来は「死ぬ男神」だったと思われる。[[伏羲]]は始祖神話としては、'''「死ぬ神」の要素を父に移し、「死なない神」として設定された神のように思える'''。
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<blockquote>天竺に大天という男がいた。父親が商売で留守にしている間に、彼は「この世で最も美しい女と結婚しよう。」と考えた。そしてある時母親が一番美しい女だと気がついたので、母親と結婚することにした。やがて「父親が戻ってくる。」と連絡があったので、大天は父親が家に帰ってくる前に出向いて、父親を殺した。その後、母親の浮気を疑って妻を殺した。その後大天は遠くに移り住んだが、かつて近所にいた羅漢の比丘に出会い、親殺しを言いふらされるのを恐れて比丘を殺した。大天は三逆罪(殺父・殺母・殺羅漢)を犯した。(今昔物語集[https://hon-yak.net/4-23/ 巻四第二十三話 父を殺し母を妻とした話] 今昔物語集現代語訳(最終閲覧日:26-02-05))</blockquote>
  
時代が下って王権が発生してくれば、伏羲は「人類の始祖」のみでなく「王権の始祖」も兼ねるようになる。「伏羲」を擁していた氏族が、最終的に中原の王権を獲得したとすれば、彼らの祖といえるのは誰だろうか。それは「'''[[黄帝]]'''」ではないだろうか。とすれば、[[黄帝]]は伏羲の「一形態」といえる。彼はパイワン族の「父なる一族長」から、中国全体の始祖神・[[黄帝]]に上り詰めたのだろう。
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=== 私的考察 ===
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これは大分父系化が進んだ社会の説話に書き換えられているので、もはや「母親」は当然のように複数の男性と関係を持ったりはしない。女性の貞操には厳しい社会になって、浮気を疑われるだけで殺されてしまうような状況である。しかし、「オイディプス王」は父親を殺しているので、母親と関係した息子が父親を殺した、というのが一番元の話にはあったと考えられる。台湾の伝承にはこの部分が欠落しているのだ。しかし、大天には「豚」と「犬」の2人の「父親」がいたはず。彼が殺したのはどちらの父親なのだろうか。大天が「豚」の父親と一体化していたのであれば、彼が殺したのは「'''犬の父親'''」なのではないだろうか。そうすれば、これは結局'''「豚」の夫が「犬」の間男を殺した'''、という話になりはしないだろうか。大天はその父の「豚」と同じ存在なのだから。そして彼は間男の「犬」と関係を持った母親も姦通の罪で殺してしまうのである。父系が進んだ社会であれば、夫が姦通の罪を妻に問うても、息子が姦通の罪を母に問うても、どちらも許される社会になるのではないだろうか。こうして'''間男と夫を裏切った妻はどちらも殺されてしまう'''。妻の最初の夫の手、あるいは彼女の息子の手によって、である。
  
遺伝子的には、Y染色体ハプログループO-M119は現代中国に於いては全国男性人口の約11.06%を占める<ref>https://www.23mofang.com/ancestry/ytree/O-M119/detail</ref>が、その大半(中国全国男性人口の約5.95%)は今より約5,440年前<ref name = "23mofang">[https://www.23mofang.com/ancestry/ytree/O-M119 Phylogenetic tree of Y-DNA at 23mofang]</ref>または4,622(95% CI 5,597 - 3,809)年前<ref name = "FTDNA">[https://discover.familytreedna.com/y-dna/O-M119/tree FamilyTreeDNAによるハプログループO1a-M119の系統樹]</ref>に'''一人の共通祖先をもち'''、良渚文化と関係があろうと推測されているO-F81というサブクレードに属している<ref>https://www.23mofang.com/ancestry/ytree/O-F81/detail</ref>、とのことである。この中国全土の約6%を占める共通の「父」といえる人物が、良渚文化を形成したパイワン族の出身で、彼こそが「漢民族の父」とも言うべき実在の存在なのではないかと考える。彼と彼の子孫が増え、中国全体の政治に大きな影響を与えるようになったので、彼らの神話や始祖神話が後の中国神話にほぼ移行することになったのではないか、と考える。要は[[伏羲]][[黄帝]]も、元は良渚文化を形成したパイワン族の神だったのだろう。
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==== ちょっと寄り道 ====
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ところで「'''殺された犬の父'''」とは誰のことなのだろう。こういう特殊な神話は一つしか心当たりがないので、こう述べるしかない。
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* 息子たちに殺される[[盤瓠|槃瓠]]</br>息子たちは[[盤瓠|槃瓠]]犬を連れて狩に出かけた。途中、水牛に「その犬はお前たちの父親だ」とからかわれ、怒った息子たちは犬を殺した<ref>ヤオ族伝承、百田弥栄子『中国神話の深層』三弥井書店、2020年、660頁</ref>。
  
また、台湾原住民の神話・伝承を見るに、どの部族も少しずつ違っても似たような伝承を持っているので、彼らはあまり神話や神の名で部族の個を主張するというナショナリズム的な思想はほぼ持っていなかったと考える。だから、伏羲のような性質、伏羲のような伝承を持つ神あるいは始祖は、どの部族にも存在し得た。彼らは互いに神話・伝承を共有しながら、血族ではなく同盟から成る「他民族部族」を形成したと考えられる。これは古代ユダヤの「12支族」のようなものだったかもしれないと考える。
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という神話がある。[[盤瓠|槃瓠]]は中国・[[ヤオ族]]の神である。おそらく[[盤瓠|槃瓠]]は[[ミャオ族]]に婿入りし、「自分だけは豚の息子」だと思ってる息子に殺されてしまったのだろう。水牛とは[[ミャオ族]]のトーテムだが、トーテムが水牛に変わる前は、彼らのトーテムは豚だったと思われる。[[盤瓠|槃瓠]]は元豚であった水牛に殺されたとも言えるのではないか。おそらく、ミャオ族の'''水牛神シィウニュウ'''(Hxub Niux)(中国神話の[[伏羲]])が[[盤瓠|槃瓠]]を殺し、また[[盤瓠|槃瓠]]の娘のニュウシャン(婆神)も殺してしまったので、シィウニュウはシャンリャンに石に変えられてしまったのだろう。シィウニュウの名を伏羲とすれば彼はインド神話のプルシャに相当するし、その名をグミヤーとすればゲルマン神話のユミルに相当すると考える。シャンリャンは殺した水牛を「世界の土台」に使ってしまったのかもしれない。そしてニュウシャンがインドの説話の「比丘」に相当するのだろう。
  
この集団の特徴は'''「母系社会」を敵視している'''ことである。「風によってはらみ、父親の分からない子を産む」とされるいわゆる「'''女人島'''」の伝承や、'''チモ族'''を殺して芋を盗む伝承などがある。'''女人島や、チモ族というのは、母系社会であった[[ミャオ族]]を投影している'''と考える<ref>神々の物語、台湾原住民文学選5、神村徹編、草風館、2006年8月1日出版、p421</ref>
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こうして、「豚の息子」が母の間男だった「犬」を殺した、という神話ができた。これが「水牛の息子」が母の間男だった「犬」を殺した、という話に変化した。もっと時代が下ると、どういうわけか「間男の犬」のトーテムが一部で「豚」に変更されてしまって、'''「水牛の息子」が母の間男だった「豚」を殺した'''、という話に変化したように思う。台湾のブヌン族には、'''「猪と浮気した妻と猪を夫が殺した」'''という話がある<ref>神々の物語、台湾原住民文学選5、神村徹編、草風館、2006年8月1日出版、p353-p355</ref>。こうして、殺した者と殺された者が入れ替わるような奇妙な神話が生じた。
  
ということは、中国神話における「三苗」がミャオ族の先祖のことを指すとすれば、彼らと戦ったのは堯と言われているので、「'''尭とはいずれかの時代のパイワン族(プーラン族)の始祖的首長'''」のことを指すのではないかと考える。まだ「漢民族」というものが発生していない時代の話である。
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== 父と息子のチェンジリング ==
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日本の仏教説話にこんな話がある。
  
ということで、'''ヴァルナ'''とは何かといえば、最終的には'''中国神話の「[[黄帝]]」に変化した「[[伏羲]]」と「同じ神」'''といえると考える。しかし、重要な神は彼だけではない。
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<blockquote>行基が難波で布教のために説法をしていた。一人の女が男の子を連れてきていたが、その子は十歳を過ぎているのに、絶えず泣き喚き、歩くこともできず、乳を飲んでいた。行基は女に「その子供は淵に投げ捨てなさい。」と言った。人々は「慈悲深い行基様が、なんでそのような無慈悲なことを言うのだろう。」と不審がった。女は子供がかわいかったので捨てず、次の日もまた子連れで説法を聞きにやってきた。しかし、また子供が泣きわめくので、ついに耐えきれず子供を淵に捨てた。すると子供は水の上に浮かんで「ああ残念だ。もう三年おまえから取り立てて食ってやろうと思ったのに。」と言った。行基はこの話を聞き、母親に「お前は前世で、彼の物を借りて返済しなかったので、貸主がおまえの子供に生まれ変わって取り立てようとしたのだ。」と教えたとのことだ<ref>日本霊異記第三十、日本古典文学全集、小学館、p225-227</ref>。</blockquote>
  
=== デーヴァとはなんだろう ===
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これは一見すると母子姦の話ではない。ただ「泣きわめく子供」というのは須佐之男をイメージさせ、なにがしかの神話が崩れた話であると推察される。そして、前世でなにがしかの恨みがあると、それを晴らそうとして相手の子供に生まれ変わったりする、と古代の人が考えていたことが分かる。ということは、'''夫が妻の浮気を恨んで亡くなった場合、妻の息子に生まれ変わって復讐することもある'''、とそのようにも考えられていたのではないだろうか。この場合、息子の実の父親は「亡くなった母親の先夫」ではないかもしれない。でも「生まれ変わり」だから、息子は先夫も同然である。彼は、自分を裏切った妻に復讐するために、間男と妻の息子として生まれ変わった、と考えられたのではないだろうか。だから、父親でもある間男を殺してしまうし、母親も浮気の罪で殺してしまうのだ。息子が母親に「貸したもの」とはまさに「彼の命」そのものだったので、彼は生まれ変わって相手の命を取り立てたのではないだろうか。
中国神話における「デーヴァ」とは、「パイワン族」に比べればもっと血族性が高い集団で、「'''[[チワン族]]」の一派'''と考える。彼らの伝説的な先祖の槃瓠の名もバロンからとったもので、犬と蛙をトーテムに持つ人々といえる。彼らはミャオ族と関連が深く、臣従的な部族もいたので、ミャオ族の一部が過激な父系化を目指したときに行動を共にしたのではないかと考える。こちらは台湾では「'''アミ族タバロン社'''」や「'''アヤタル族'''」という名となっているのだろう。ただし、全体的にこちらの方がパイワン族よりは女神信仰に好意的であって、好意的な文化を色濃く残したと考える。アヤタル族の英雄に「ブタ」という男がいるが、これはチワン族の[[布洛陀]]、日本物部氏の布津主に相当する神と考える<ref>神々の物語、台湾原住民文学選5、神村徹編、草風館、2006年8月1日出版、p374-375</ref>。
 
  
そして印欧語族の神話で有名な「ヴァルナ対デーヴァの対立」のうち、黄帝がヴァルナに相当するならば、デーヴァに相当するのは炎帝である、と述べる他ない。チワン族は台湾では主にタバロン社に名を変えたと思われるが、タバロン社には「T」音で始まる名の神々が多く、プユマ族と戦ったタバロン社の英雄に「'''テオイツ'''」という名の男が見えるので、彼が[[蚩尤]]及び[[饕餮]]の、少なくとも'''名前'''は原型と考える。もちろんタバロン社で英雄として語り継がれているのだから、テオイツは決して「負ける神」でも「死ぬ神」でもない。その点が中国神話の[[蚩尤]]・[[饕餮]]とは異なっている。
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少なくとも、後世の人がそう考えたから、「'''母親と結婚して父親と母親を殺す男'''」の話と、「'''浮気した妻と浮気相手を殺す男'''」の神話が成立したのだと考える。この2つの話は「同じ意味」を持つ話で、'''「浮気相手を殺す話」は前世の立場から見た話'''、'''「母親と父親を殺す話」は後世の立場から見た話'''なのだけれども、'''殺人者は二位一体で「父と子」でもあり、「同じ人物」なのでもある'''。ただし、霊異記の話の目的は行基の偉大さを示すものなので、母親は殺されずに仏の功徳で助けられることとなっている。そして、「泣きわめくばかりの子供」というのは須佐之男的でもあるし、西欧の伝承のいわゆる「取り替え子」的でもあると考える。取り替え子は「悪い妖精」が本当の赤ん坊を自分たちの仲間と取り替えてしまう、という伝承だが、これも「生まれ変わり」の概念の一種かもしれないと思う。
  
どちらかというと、中原ではいわば「勝ち組」といえる[[黄帝]]や[[伏羲]]は、本来「死ぬ神」、「負ける神」だったのだけれども、子孫が中原の覇者となったために、本来の姿とは逆に「死なない英雄神」にまつりあげられてしまい、彼らと対立したチワン族の神は、本来「勝者」だったのに、「殺される神」に変更されてしまったのではないかと考える。
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== 愛欲と生まれ変わりの関係 ==
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霊異記が編纂されたのは平安時代であって、平安時代の日本はまだ母系が強力な社会だった。なので、こんな説話もある。
  
=== ヴァルナ対デーヴァ ===
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<blockquote>昔、墓の前で激しく泣いている女がいたので、仏がそれを見て嘆いた。弟子が嘆いたわけを聞くと、仏は「この女は前世で一人の男子を生み、その子に強く愛着して、口でその子の男根を吸った。三年後に女は病で亡くなったが、その際にも息子の一物を愛撫して『後世ではずっとおまえの妻になろう』と言った。こうして女は隣家の娘に生まれ変わり、息子の妻となった。その夫を亡くしたので彼女は泣いているのだが、私はこの愛欲にまみれて悪い因縁を作った女のことを嘆いたのだ。」と言った。<ref>日本霊異記第四十一、日本古典文学全集、小学館、p248-251</ref>。</blockquote>
台湾の伝承には「タバロン社とバアタン社との戦争」とか「タバロン対プユマの戦争」の伝承があり、女性を巡った戦争が、かつて彼らの間にあった、とされている<ref>神々の物語、台湾原住民文学選5、神村徹編、草風館、2006年8月1日出版、p382-390</ref>。でも、それは昔の話で、現在両者は仲良く暮らしている、ともされている。しかも神話を見るに、両者には共通した話もあり、伏羲型神は、タバロン社の側にもいるといえる。というよりも、'''英雄ブタそのものが、伏羲型神のように思える'''。彼らの先祖は互いに争い戦ったかもしれないが、子孫の一部は協調的に活動しており、それぞれの神々や文化は類似したり、入り交じったりしているのだろう。
 
  
=== 蚩尤とはなんだろう ===
+
これは桑を摘んでいて蛇と通じて亡くなった「和製馬頭娘」の話に挿入的に付随して語られたエピソードである。ここまで原型が崩れてしまうと、「母子姦」という珍しい話だから、元の話が類推できるけれども、元の話を知らなければ想像や推察だけで元の形に戻すのは難しいと感じてしまう。ただ「馬頭娘」と共に語られているので、娘を犯して殺した蛇神と、母親との愛欲にまみれた男は、どちらも「元は同じもの」だから同じ項に一緒に収録したのか、とそのように想像してしまう。ともかく、古代の人が「人間は執着するものがあると、その周辺に生まれ変わることがある」と考えていたことが分かるし、'''「母子姦」の話は「生まれ変わり」という概念と非常に関連が深い'''ことが分かる。
プユマ族と戦ったタバロン社の英雄に「'''テオイツ'''」という名の男が見えるので、彼が[[蚩尤]]及び[[饕餮]]の、少なくとも'''名前'''は原型と考える。だから、蚩尤がどこの氏族出身であるかはまず置いておくとしても、どこの「神」としてみなされていたかといえば、一番は父系の思想が強い「チワン族」の神とされていたのが、その名前の出発点ではないかと思う。黄帝(パイワン族(プーラン族)・ヴァルナ)の側と対立した炎帝(アミ族タガログ社(チワン族)・デーヴァ)の神とみなされ、中原で強く悪神として残されたのではないだろうか。ただしパイワン族のサジュムジも饕餮に類する名と思われるので、この名も特定の部族専用の神とは言えなかったと考える。デーヴァの側の饕餮は蚩尤でもあり、ヴァルナの側の饕餮は息子神としての性質が強く、後の中国神話では少昊(推定****s-luwʕ-qawʔ***)と[[祝融]]になったと考える。日本神話ではこの神を須佐之男と呼ぶと思う。いずれも元は「同じ名前の神」だったかもしれないけれども、語り継いでいる部族や氏族が異なるから、その点では「異なる神」といえるのではないだろうか。
 
 
 
苗族で蚩尤に相当する神は、大岩と化してしまう水牛のシィウニュウ(Hxub Niux)と考える。彼はシャンリャン(Xang Liang)女神と耕作を終えた後、石と化してしまう。これだけのエピソードなのだけれども、これが中国神話での「'''魃女神が蚩尤を倒した'''」という部分と対応するミャオ族の神話なのである。中国語で「日」のことを「リー」と読むそうなので、リャン女神とは「太陽女神」のことと考える。魃女神も日や火に関する女神で、元は太陽女神と思われるので、要はどちらも「'''太陽女神が牡牛の神を倒した'''」という神話である。シィウニュウの名は中国語の「'''[[伏羲]]'''」に相当すると考える。蚩尤が殺されて楓の木になった、というのはいわば後世の中原側の言い分であって、[[大渓文化]]での楓信仰が蚩尤信仰であるとはいえない。古い時代に「木と化す」神の多くは女神である。大渓文化で信仰されていた「楓の木の神」とは、蚩尤ではなく、「種の家」を焼いてしまった'''ニュウシャン(Niu Xang)'''がその罰として、死後変化したものとみなすのが正解だと考える。この「ニュウ女神」の名は、中国神話の「'''[[女媧]]'''」に相当する名なのではないだろうか。だから、「'''魃女神が蚩尤(牛神)を倒した'''」という神話は、ミャオ族の伝承では「'''リャン女神が伏羲を倒した'''」という話になってしまうのだ。とすれば、「'''[[蚩尤]]'''」というのはその由来がどのような神だったとしても、'''漢族の「[[伏羲]]」を「殺された神」としないため'''に、その代わりに設定されたいわば「'''スケープゴート'''の牡牛神」といえるのではないだろうか。本来、蚩尤はチワン族の神で「牡牛」の神ではなかったし、牡牛の神は伏羲(黄帝)で、殺されてしまうのはこちらだったのだ。
 
 
 
=== 炎帝とはなんだろう ===
 
古い時代の神々の中に黄帝や伏羲が存在するなら、「炎帝」だっているはずである。そもそも炎帝がいなければ炎黄の対立神話が生まれようもない。炎帝はその体が透き通っていた、ということでも有名である。台湾のアミ族タバロン社にはテヤマサンという美しく光り輝いて'''体内が透き通って見えた'''、という女神が登場する。彼女はブララカスという海から来た男に連れ去られてしまう。ブララカスというのは、名前から見て中国神話の「'''[[伏羲]]'''」のことであり、テヤマサンとはインドやケルトでダヌと言われる大母女神に近い女神のことと考える。おそらく彼女はチワン族の「太陽女神」であって、チワン族の言い分によれば、彼女こそがパイワン族にさらわれ、殺されてしまった女神なのだ、ということなのだろう<ref>神々の物語、台湾原住民文学選5、神村徹編、草風館、2006年8月1日出版、p66-70</ref>。
 
 
 
海にさらわれてしまったテヤマサンは戻ってこない。しかしアミ族の別の神話では、チカナサウという女神がいて、彼女の息子のチマチウチウは海で行方不明になるけれども、魚に乗って戻ってくる。この魚の名がチサイニンといって、おそらくギリシア神話のトリトーンに相当する神と考える。が、ともかくアミ族の人々は「海にさらわれた女神」を「生還する男神」に変えて死なないことにして陸に戻してしまったのだと考える。母のチカナサウがこの生還に関わったとはされていないけれども、もしかしたら彼女の霊力のようなものが、チサイニンを魚に変えて息子を助けた、とされるのかもしれない。チマチウチウはテヤマサンであり、チサイニンでもあると考える。いずれもほぼ「TT」の子音の名を持つ神々である<ref>神々の物語、台湾原住民文学選5、神村徹編、草風館、2006年8月1日出版、p245-247</ref>。
 
 
 
スイス・レートロマンの伝承に「山のこびと」という話がある。これは『グレータとチアリという姉妹がいて、姉がおそろしい山のこびと「ギアン・ピッツェン」にさらわれたので、妹が助け出しに行く。妹はとらわれた姉を袋に詰め、こびとを騙して背負わせ、外に運び出させる。その後、チアリはこびとを水に投げ込んで殺す。』という話である。「ギアン・ピッツェン」とはグミヤーに類する名で、台湾アミ族のブララカス(伏羲)に相当する神と考える。チアリというのはチカナサウに類する女神で、おそらく彼女が姉の生還や再生を助けた、という神話が古くにあり、それが台湾とケルトに分かれて伝播したと考える。息子とされているチマチウチウは元は女神で、息子ではなく「姉」だったのだと考える。
 
 
 
とすれば、黄帝(伏羲・ブララカス)に殺された体の透き通って光り輝いていた「'''[[炎帝]]'''」とは太陽女神であったテヤマサンのことだったと考える。中原で彼女は男性形の炎帝に作り替えられてしまい、台湾でも「チマチウチウ」という男神に作り替えられてしまったけれども、遠く離れたケルトでは女神のままの姿が語り継がれていたと考える。そして、台湾の「チマチウチウ」というのは、とりもなおさず日本の「'''浦島太郎'''」のことなので、'''浦島太郎を擁する海部氏とはアミ族の分派'''なのだろうな、と考える。浦島太郎はどちらかというと布津主に近い名かと思うけれども、これを「倭直(ヤマトノアタイ)」としたら「チマチウチウ」のことと考える。日本の浦島太郎に目立つ母親はいないが、丹後半島には天香山命とその母・[[天道日女命]]が仲睦まじく土地を開拓した、という伝説が残る。また、千葉県には[[手児奈]]という、ややテヤマサン的な儚い女性の伝承がある。茨城県には寒田の郎子と共に亡くなる[[手子后神社 (神栖市)|手子比売命]]の神話が残る。いずれも海部氏の伝承で、伏羲あるいはグミヤーに類する神に殺される「女神」だったものと考える。彼女こそが、チワン族に由来する「伏羲(黄帝)に殺される女神」なのであって、彼女こそが「'''炎帝の原型'''」といえるのではないだろうか。
 
 
 
また、チカナサウとテヤマサンは名か似ているけれども、「異なる女神」であって、「テヤマサン」の方は死すべき女神で、姉であり「吊された女神」が本来の姿と考える。一方の母なる「チカナサウ」は「養母としての女神」である。インド神話でいえば、テヤマサンはヤミー女神、チカナサウがダヌ女神と考える。「山のこびと」のチリアはダヌ女神の方で、姉のグレータがヤミー女神といえる。日本では[[手児奈]]が姉で、[[天道日女命]]が妹といえるのではないだろうか。パイワン族側の神話では、「テヤマサン」は「女媧」とか「塗山氏女」に相当する。チカナサウは中国神話では「魃女神」としての名しか残っていない。日本神話では、彼女たちは「母娘」に分けられて、テヤマサンが[[伊邪那美命]]、チカナサウが[[天照大御神]]と考える。テヤマサンがその名から丹後半島の「[[豊受大神]]」だとすると、これは[[伊邪那美命]]と同起源の女神であり、[[伊邪那美命]]が「パイワン的な[[女媧]]的女神」だとすれば、[[豊受大神]]は「タバロン的な[[炎帝]]的女神」とすることができそうである。彼女たちはいずれも「'''[[伏羲]]'''」に関わる「同じ女神」なのだ。姉の[[豊受大神]]は今伊勢の外宮におり、妹の[[天照大御神]]は内宮にいる、といえる。
 
 
 
=== 神農とは何だろう ===
 
通常、神農とは炎帝とほぼ一として語られるが、果たしてそうなのだろうか。神農は「農耕を行う神」のことなので、炎帝とは異なると考える。こちらはミャオ族神話のシャンリャン(Xang Liang)女神のことと考える。日本神話の[[乙子狭姫]]に相当する。[[天照大御神]]は性質を拡張しすぎているが、やはり同じ神といえよう。
 
 
 
== グミヤー ==
 
中国プーラン族の神[[グミヤー]]は、'''[[女媧]]に「若」という言葉を接頭辞的につけて「若女媧」という名前にして男性神にしたもの'''と考える。単に名前を少し変えて、性別を変えただけなので、事績等はほぼ「女媧と同じ」と考える。
 
 
 
グミヤーが殺して世界を作ったという犀のような「リー」という動物は、これも「太陽」のことを思わせ、「太陽女神」のことと考える。ミャオ族の伝承でいうところの、'''フーファン(Fux Fang・大地)と「種の家」'''のことであろう。ミャオ族の伝承では、すでに「作り替えられてしまった後の姿」でしか残っていないといえる。でも、種とは通常地面から生えるものなので、「大地」と「種の家」が「同じもの」というのは分かりやすいのではないだろうか。
 
 
 
伏羲との違いは、伏羲は「人類の父系の始祖」とするために人間的に作られた存在で妻がいるが、グミヤーは「母系の女神」を「父系の男神」にするために男に置き換えただけだから、古い母系の大母が「多夫が通う女神」であって定まった夫のいない独身の女神であったことに対応して、'''「独身的な男神」という性質が強い'''ということだと考える。また、逆に'''一夫多妻の文化の原点となる神'''ともなっただろう。また「空を飛ぶ」という性質が強調される場合がある。総合すると、人間が修行して何らかの超人的な能力を得るような、中国でいうところのいわゆる「神仙」、宗教的な「僧侶」とか「神父」とか、独身でかつ修行や経験を積んで、一般人とは異なる聖なる存在となる階級職の原点となるような神と考える。
 
 
 
ただし、結局伝播するうちに、伏羲的な「人類の始祖」とされる神と性質が入り交じってしまい、[[伏羲]]とグミヤーの区別がつかないような、どちらも似たような神になってしまっている場合もあると考える。そのため、本来の「伏羲」が「殺された神」だとすると、グミヤーもその性質を共有していると思われる。メソポタミアの'''ドゥムジ'''に代表される'''犠牲獣的な男性の神々'''である。こちらの方が[[伏羲]]・[[グミヤー]]の本来の姿だったのではないだろうか。
 
 
 
ただ、一部で「偉大な創造神」としてグミヤーが設定されてしまったために、他の氏族の異なる名前の系統の神々の中にグミヤーの性質が取り込まれてしまっている場合があると考える。
 
 
 
例えば、日本神話を例に挙げれば、神でもあり始祖神でもあり、独身的な神でもある'''高御産巣日神'''(た'''かみむす'''びのかみ)はグミヤーが変化したものと考える。その他、天香山命(あめの'''かぐやま'''のみこと)、「軻遇突智(か'''ぐつち''')」もそうであろう。また、民間伝承の「久米の仙人」、常陸国風土記に見える「[[手子后神社 (神栖市)|寒田の郎子]]('''かんだ'''のいらつこ)」も同様に起源はグミヤーだと考える。「高御産巣日神」は創造神だけれども、「久米の仙人」は半神半人であって、どちらかといえば人間に属する存在である。「寒田の郎子」は亡くなってしまう少年だが、女神と対になって、どちらかといえば伏羲的な性質といえる。
 
 
 
また、空を飛んで逃げるゲルマン神話の鍛冶の王のヴェルンドやユダヤ神話の絶対的創造神ヤハウェなどは、名前はグミヤーに類するものではないけれども、性質的には類似している神といえると考える。中国神話の帝俊はグミヤーの名が変化したものと考える。中国神話のムドン神、他ここから派生したと思われる「ミトラス」に関する神々の起源もグミヤーであろう。
 
 
 
そして、少数ではあるが「月神」としても語られることがある。エジプト神話のクヌム、ヒッタイトの月神[[ハパンタリ|アルマ]]などである。少数派ではあるけれども、グミヤーの一形態として「月神」があることは、日本神話という点から見て、重要だと考える。なぜなら、記紀神話に名前しか出てこない「[[月読命|月夜見]]」とは、グミヤーが変化したものだと思われるからである。
 
  
 
== 関連項目 ==
 
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2026年2月6日 (金) 00:59時点における最新版

伏羲型神とは中国神話の伏羲とそこから派生したと思われる神々以外の神で、主に男性神である。大抵の神々は「伏羲型神」なので、中国神話の男神は「伏羲型神」か「非伏羲型神」かでしかないといえる。

分類[編集]

  • 他人型:伏羲とは別の人物、例えば明らかに実在の人物と思われるものを、そのまま神格化したもの。例:(三苗と対立したという伝承を持つ中原の伝説的王)。
  • 炎帝型:「吊された女神」を男性化したもの。例:炎帝
  • 神農型:「養母としての女神」を神格化したもの。開拓神が多い。例:神農
    • 風神型:タバロン社の女神ロチェから派生したと思われる「VT系」の子音の名を持つ神々の群。インド神話の風神ヴァーユ、北欧神話の主神オーディンなど、英雄的な男性神であることが多い。
  • 父親型:伏羲・女媧型神話の父親とされ、明らかに伏羲型神とは区別されるもの。
    • ブタ型:主にパイワン系の「父」とされる神。名ははっきりしない。伏羲型神とほぼ一体となっている場合もある。「夫」としての性質が強い場合には殺されることが多い。伏羲型神と習合している場合には、程度や内容にもよるが伏羲型に含めることとする。
    • イヌ型:主にタバロン系の「父」とされる神。名ははっきりしない。ブタ型とイヌ型の神は妻を巡って争う場合が多い。大抵、たがいを「間男」だと言って非難する。
    • 混合父型ブタ型イヌ型が習合・混合していて区別がつかない場合。例:ミーノータウロスの父であるミーノース王
    • 家臣父型:元々「父親」の位置にいたはずが、神話が語り継がれていくうちに地位が低下し、伏羲型神あるいは他の型の神々の「家臣」となっている場合。例:帝俊の家臣である槃瓠
    • 逆賊父型:元々「父親」の位置にいたはずが、神話が語り継がれていくうちに地位が低下し、伏羲型神あるいは他の型の神々の「敵」「逆賊」「悪鬼」などとなっている場合。

「父」の神話[編集]

台湾アヤタル族タウツァー部族の伝承より。

昔、一人の婦人がいて、豚と戯れて男児を産んだ。子供が成長しても、互いに伴侶がいなくて寂しい思いをしていた。母親は息子に恋情を抱き、木の汁で顔を染めて息子に近づき「私はあなたの妻になりましょう。」と言った。息子は母とは知らずに結婚し、まもなく女の子が生まれた。そのうちに母の顔の色が元に戻り、息子は母親との不義に恐れおののいたが、どうしようもなかった。母親は正体がしれると、そのままどこかへ消えてしまったが、その後犬と交わって多くの子を産んだ。そのため子孫が増えて至るところに社を建てた。かくしてアヤタル族タウツァー部族は、犬と豚の子孫から成っている[1]

私的考察[編集]

いわゆる「動物先祖」の話だが、母親が複数の相手と関係を持つのは、母系の時代から続く神話であることが推測される。またギリシア神話の「オイディプス王」の原型となる神話とも考える。母親と関係を持つ息子は「豚」の父親と立場が混在しているのであろう。あるいは「息子のみ豚の子である」ということを強調したかったのかもしれない。そして、「母親が罪あり」という思想に発展する下敷きとなる神話とも考える。母系社会であれば、母親が複数の男性と男女の仲になっても、特に咎められる問題ではない。でも、息子と男女の仲になれば、母系社会であっても倫理的に問題となろう。

「母親が罪あり」となれば、バビロニアのマルドゥクとティアマトの神話のように、息子が母親を殺す口実ともなって、息子神を正当化できる。この場合の豚というのはパイワン族、犬というのはタバロン社のトーテムのことでもあろう。ただし「タウツァー部族」とは名前の通りチワン族から派生した人々と思われるので、息子が母親を殺すような恐ろしい神話は忌避されたものと考える。

また、この神話では「豚(パイワン族)の息子と父が一体」とみなされている。三位一体ならぬ「二位一体」である。これはキリスト教的な「父と子は同じものである」という思想の原型といえないだろうか。「父と子がなぜ一体と考えられるのか」という問題点はあるのだが。なぜなら現代の私たちの通常の「家族」を考えてみても、父と息子は家族かもしれないけれども、別々の人間で、別々の個人である、と誰でも思うのではないだろうか。

だから、「父と子がなぜ一体と考えられるのか」という私なりの回答は、一つは「母親に罪あり」とするため、と考える。母系社会であれば、子供の立場では父親が誰であるのかは気にしないが、自分が母親の性の対象とされれば、それは問題である。そして、「父」とは言わないが「夫」とか「恋人」の立場であれば、愛する女性が他の男性と仲睦まじくする姿に嫉妬心を感じることは、それは母系社会であってもあることであったのではないだろうか。それは社会的、倫理的には問題なくても、一人の男性としては「裏切られた」と感じて、「女性に罪あり」と憤りを感じるような問題となることもあったかもしれない、と思う。男性の嫉妬心を「女性に罪あり」と正当化するためには「夫」という立場が必要なのである。だから何重にも「女性に罪あり」とするために、父と子を一体化させてしまったのだろう。

母親である女性は「燃やされた女神」、息子は「伏羲型神」、豚と犬は典型的な「非伏羲型神」でそれぞれブタ型イヌ型である。

父と息子[編集]

ギリシア神話のオイディプス王はそれと知らずに父親を殺してしまう。そして父の妻、すなわち母を妻とする。インドの仏教説話にはこういう話がある。

天竺に大天という男がいた。父親が商売で留守にしている間に、彼は「この世で最も美しい女と結婚しよう。」と考えた。そしてある時母親が一番美しい女だと気がついたので、母親と結婚することにした。やがて「父親が戻ってくる。」と連絡があったので、大天は父親が家に帰ってくる前に出向いて、父親を殺した。その後、母親の浮気を疑って妻を殺した。その後大天は遠くに移り住んだが、かつて近所にいた羅漢の比丘に出会い、親殺しを言いふらされるのを恐れて比丘を殺した。大天は三逆罪(殺父・殺母・殺羅漢)を犯した。(今昔物語集巻四第二十三話 父を殺し母を妻とした話 今昔物語集現代語訳(最終閲覧日:26-02-05))

私的考察[編集]

これは大分父系化が進んだ社会の説話に書き換えられているので、もはや「母親」は当然のように複数の男性と関係を持ったりはしない。女性の貞操には厳しい社会になって、浮気を疑われるだけで殺されてしまうような状況である。しかし、「オイディプス王」は父親を殺しているので、母親と関係した息子が父親を殺した、というのが一番元の話にはあったと考えられる。台湾の伝承にはこの部分が欠落しているのだ。しかし、大天には「豚」と「犬」の2人の「父親」がいたはず。彼が殺したのはどちらの父親なのだろうか。大天が「豚」の父親と一体化していたのであれば、彼が殺したのは「犬の父親」なのではないだろうか。そうすれば、これは結局「豚」の夫が「犬」の間男を殺した、という話になりはしないだろうか。大天はその父の「豚」と同じ存在なのだから。そして彼は間男の「犬」と関係を持った母親も姦通の罪で殺してしまうのである。父系が進んだ社会であれば、夫が姦通の罪を妻に問うても、息子が姦通の罪を母に問うても、どちらも許される社会になるのではないだろうか。こうして間男と夫を裏切った妻はどちらも殺されてしまう。妻の最初の夫の手、あるいは彼女の息子の手によって、である。

ちょっと寄り道[編集]

ところで「殺された犬の父」とは誰のことなのだろう。こういう特殊な神話は一つしか心当たりがないので、こう述べるしかない。

  • 息子たちに殺される槃瓠
    息子たちは槃瓠犬を連れて狩に出かけた。途中、水牛に「その犬はお前たちの父親だ」とからかわれ、怒った息子たちは犬を殺した[2]

という神話がある。槃瓠は中国・ヤオ族の神である。おそらく槃瓠ミャオ族に婿入りし、「自分だけは豚の息子」だと思ってる息子に殺されてしまったのだろう。水牛とはミャオ族のトーテムだが、トーテムが水牛に変わる前は、彼らのトーテムは豚だったと思われる。槃瓠は元豚であった水牛に殺されたとも言えるのではないか。おそらく、ミャオ族の水牛神シィウニュウ(Hxub Niux)(中国神話の伏羲)が槃瓠を殺し、また槃瓠の娘のニュウシャン(婆神)も殺してしまったので、シィウニュウはシャンリャンに石に変えられてしまったのだろう。シィウニュウの名を伏羲とすれば彼はインド神話のプルシャに相当するし、その名をグミヤーとすればゲルマン神話のユミルに相当すると考える。シャンリャンは殺した水牛を「世界の土台」に使ってしまったのかもしれない。そしてニュウシャンがインドの説話の「比丘」に相当するのだろう。

こうして、「豚の息子」が母の間男だった「犬」を殺した、という神話ができた。これが「水牛の息子」が母の間男だった「犬」を殺した、という話に変化した。もっと時代が下ると、どういうわけか「間男の犬」のトーテムが一部で「豚」に変更されてしまって、「水牛の息子」が母の間男だった「豚」を殺した、という話に変化したように思う。台湾のブヌン族には、「猪と浮気した妻と猪を夫が殺した」という話がある[3]。こうして、殺した者と殺された者が入れ替わるような奇妙な神話が生じた。

父と息子のチェンジリング[編集]

日本の仏教説話にこんな話がある。

行基が難波で布教のために説法をしていた。一人の女が男の子を連れてきていたが、その子は十歳を過ぎているのに、絶えず泣き喚き、歩くこともできず、乳を飲んでいた。行基は女に「その子供は淵に投げ捨てなさい。」と言った。人々は「慈悲深い行基様が、なんでそのような無慈悲なことを言うのだろう。」と不審がった。女は子供がかわいかったので捨てず、次の日もまた子連れで説法を聞きにやってきた。しかし、また子供が泣きわめくので、ついに耐えきれず子供を淵に捨てた。すると子供は水の上に浮かんで「ああ残念だ。もう三年おまえから取り立てて食ってやろうと思ったのに。」と言った。行基はこの話を聞き、母親に「お前は前世で、彼の物を借りて返済しなかったので、貸主がおまえの子供に生まれ変わって取り立てようとしたのだ。」と教えたとのことだ[4]

これは一見すると母子姦の話ではない。ただ「泣きわめく子供」というのは須佐之男をイメージさせ、なにがしかの神話が崩れた話であると推察される。そして、前世でなにがしかの恨みがあると、それを晴らそうとして相手の子供に生まれ変わったりする、と古代の人が考えていたことが分かる。ということは、夫が妻の浮気を恨んで亡くなった場合、妻の息子に生まれ変わって復讐することもある、とそのようにも考えられていたのではないだろうか。この場合、息子の実の父親は「亡くなった母親の先夫」ではないかもしれない。でも「生まれ変わり」だから、息子は先夫も同然である。彼は、自分を裏切った妻に復讐するために、間男と妻の息子として生まれ変わった、と考えられたのではないだろうか。だから、父親でもある間男を殺してしまうし、母親も浮気の罪で殺してしまうのだ。息子が母親に「貸したもの」とはまさに「彼の命」そのものだったので、彼は生まれ変わって相手の命を取り立てたのではないだろうか。

少なくとも、後世の人がそう考えたから、「母親と結婚して父親と母親を殺す男」の話と、「浮気した妻と浮気相手を殺す男」の神話が成立したのだと考える。この2つの話は「同じ意味」を持つ話で、「浮気相手を殺す話」は前世の立場から見た話「母親と父親を殺す話」は後世の立場から見た話なのだけれども、殺人者は二位一体で「父と子」でもあり、「同じ人物」なのでもある。ただし、霊異記の話の目的は行基の偉大さを示すものなので、母親は殺されずに仏の功徳で助けられることとなっている。そして、「泣きわめくばかりの子供」というのは須佐之男的でもあるし、西欧の伝承のいわゆる「取り替え子」的でもあると考える。取り替え子は「悪い妖精」が本当の赤ん坊を自分たちの仲間と取り替えてしまう、という伝承だが、これも「生まれ変わり」の概念の一種かもしれないと思う。

愛欲と生まれ変わりの関係[編集]

霊異記が編纂されたのは平安時代であって、平安時代の日本はまだ母系が強力な社会だった。なので、こんな説話もある。

昔、墓の前で激しく泣いている女がいたので、仏がそれを見て嘆いた。弟子が嘆いたわけを聞くと、仏は「この女は前世で一人の男子を生み、その子に強く愛着して、口でその子の男根を吸った。三年後に女は病で亡くなったが、その際にも息子の一物を愛撫して『後世ではずっとおまえの妻になろう』と言った。こうして女は隣家の娘に生まれ変わり、息子の妻となった。その夫を亡くしたので彼女は泣いているのだが、私はこの愛欲にまみれて悪い因縁を作った女のことを嘆いたのだ。」と言った。[5]

これは桑を摘んでいて蛇と通じて亡くなった「和製馬頭娘」の話に挿入的に付随して語られたエピソードである。ここまで原型が崩れてしまうと、「母子姦」という珍しい話だから、元の話が類推できるけれども、元の話を知らなければ想像や推察だけで元の形に戻すのは難しいと感じてしまう。ただ「馬頭娘」と共に語られているので、娘を犯して殺した蛇神と、母親との愛欲にまみれた男は、どちらも「元は同じもの」だから同じ項に一緒に収録したのか、とそのように想像してしまう。ともかく、古代の人が「人間は執着するものがあると、その周辺に生まれ変わることがある」と考えていたことが分かるし、「母子姦」の話は「生まれ変わり」という概念と非常に関連が深いことが分かる。

関連項目[編集]

参照[編集]

  1. 神々の物語、台湾原住民文学選5、神村徹編、草風館、2006年8月1日出版、p45
  2. ヤオ族伝承、百田弥栄子『中国神話の深層』三弥井書店、2020年、660頁
  3. 神々の物語、台湾原住民文学選5、神村徹編、草風館、2006年8月1日出版、p353-p355
  4. 日本霊異記第三十、日本古典文学全集、小学館、p225-227
  5. 日本霊異記第四十一、日本古典文学全集、小学館、p248-251