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== 名 ==
* 大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと) ''大足彦忍代別天皇''(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと) - 『日本書紀』、和風[[諡号]]『日本書紀』、和風諡号
* 大足彦尊(おおたらしひこのみこと) - 『日本書紀』
* 大帯日子淤斯呂和氣天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと) - 『[[古事記]]』『古事記』
他大足日子天皇(おおたらしひこのすめらみこと、常陸国風土記)、大帯日子天皇(おおたらしひこのすめらみこと、播磨国風土記)、大帯日古天皇(おおたらしひこのすめらみこと、播磨国風土記)、大帯比古天皇(おおたらしひこのすめらみこと、播磨国風土記)
漢風諡号である「景行天皇」は、代々の天皇と同様、日本書紀の編纂から50-60年後に淡海三船によって撰進された。
即位2年、播磨稲日大郎姫を立后。子には大碓皇子や小碓尊(後の日本武尊)がいた。
即位4年、美濃国に行幸。美人と名高い'''弟姫'''を妃にしようと泳宮(くくりのみや)に滞在した。しかし拒絶されたため、姉の'''八坂入媛命'''を妃とした。同じころ、美濃国造の2人の娘が美人であると聞いて妃にしたいと思った。そこで大碓皇子を派遣したが、大碓皇子は姉妹の美しさのあまり使命を忘れて密通し役目を果たさなかった。天皇はこれを恨んだと言う。
『古事記』には、天皇の美濃行幸は記されていないが、冒頭の系譜で八尺入日売命を娶って成務天皇らを生んだことを記している。また大碓命と三野(美濃)国造の2人の娘について『日本書紀』と似た伝承を記し、次のような伝承も記している。天皇は朝夕の食膳に参上しない兄(兄の名は記されていないが、一般には大碓命と考えられている)を参上させるため、小碓命によく教え諭すよう命じた。しかし数日しても何も変わりがないため小碓命に聞くと既に教え諭したという。どのように諭したのか聞くと厠に入るのを待ち伏せして打ちのめし、手足を引き千切って投げ捨てたという。「教え諭す」という言葉を「思い知らせる」、つまり処刑だと勘違いしたのである。小碓命、のちの倭建命(ヤマトタケル)は恐れられ疎まれ、危険な遠征任務に送り出されるようになった。なお、これはあくまで『古事記』での話であり、『日本書紀』では大碓皇子の惨殺はない。日本武尊(ヤマトタケル)と天皇の仲も後述するように良好である。
※ 史料は、特記のない限り『日本書紀』<ref name="iwanami">『日本書紀(二)』岩波書店 ISBN 9784003000427</ref>に拠る。
=== 立太子 ===
ある日、父の活目天皇(垂仁天皇)は大足彦尊(後の景行天皇)とその兄の[[五十瓊敷入彦命|五十瓊敷命]]に欲しいものを言うよう尋ねた。兄の五十瓊敷命は弓矢を求めた。弟の大足彦尊はなんと皇位を求めた。その通りに兄は弓矢を与えられ、弟は太子に立てられた。ある日、父の活目天皇(垂仁天皇)は大足彦尊(後の景行天皇)とその兄の五十瓊敷命に欲しいものを言うよう尋ねた。兄の五十瓊敷命は弓矢を求めた。弟の大足彦尊はなんと皇位を求めた。その通りに兄は弓矢を与えられ、弟は太子に立てられた。
=== 踏石の誓約 ===
豊後国の[[土蜘蛛]]に苦戦していたときのことである。長さ六尺、幅三尺、厚さ一尺五寸の石を見かけたので、これで誓約([[うけい]])をすることにした。志我神、直入物部神、直入中臣神の三神に祈り「土蜘蛛を討ち果たせるのであれば、この石は柏の葉のように飛ぶだろう」と蹴とばした。果たして石は空高く舞い上がり、土蜘蛛を無事征伐することができた。この石を踏石という。豊後国の土蜘蛛に苦戦していたときのことである。長さ六尺、幅三尺、厚さ一尺五寸の石を見かけたので、これで誓約(うけい)をすることにした。志我神、直入物部神、直入中臣神の三神に祈り「土蜘蛛を討ち果たせるのであれば、この石は柏の葉のように飛ぶだろう」と蹴とばした。果たして石は空高く舞い上がり、土蜘蛛を無事征伐することができた。この石を踏石という。
=== 彦嶽宮<ref>{{Cite web |title=御由緒 |url=, https://hikotakegu.localinfo.jp/pages/1953566/page_201805261136 |website=, 彦嶽宮 |access-date=, 2024-08-08 |language=ja |publisher=彦嶽宮}}</ref> ===景行十八年四月([[88年]])に熊津彦討伐のため御軍を率いて九州に上陸され、[[景行十八年四月(88年)に熊津彦討伐のため御軍を率いて九州に上陸され、'''山鹿郡]]'''大宮の地にある高天山(現在の震嶽)に行宮を営まれた。天皇が行宮において窮地に陥った際、天神地祇に祈念すると俄かに高天山で地震が起こり、敵軍はたちまち敗走した。天皇は神恩を感謝し、高天山に八神殿を祀り(後千田の八島、下吉田宮にまつられていると云う)、彦岳に三宮を祀り、従者吉田某をこの地に止め、神事に当たらせた。これが彦嶽宮の由緒であるという。その後、[[阿蘇郡|阿蘇]]へ向かって天皇が出立された後で土地の人々は高天山のことを揺ヶ嶽、彦岳に三宮を祀り、従者吉田某をこの地に止め、神事に当たらせた。これが彦嶽宮の由緒であるという。その後、阿蘇へ向かって天皇が出立された後で土地の人々は高天山のことを揺ヶ嶽(ゆるぎがたけ)と呼ぶようになった<ref>{{Cite web |title=「彦嶽宮縁起」並びに伝説によれば |url=, https://hikotakegu.localinfo.jp/posts/7843417 |website=, 彦嶽宮 |date=, 2020-03-01 |access-date=, 2024-08-08 |language=ja |publisher=彦嶽宮}}</ref>。
=== 建部大神 ===
日本武尊は東征の帰路、[[近江国|近江]][[国造]]の租である意布多牟和気の娘である布多遅比売命を娶った。その後、景行天皇46年、[[ヤマトタケル|日本武尊]]の死後、御子である建部稲依別命は住んでいた[[神崎郡 (滋賀県)|神崎郡]]建部郷千草嶽(現・[[東近江市]]五個荘伊野部町付近の箕作山)の地に[[ヤマトタケル|日本武尊]]を「[[建部大社|建部大神]]」として祀ったとされる。伝承では千草嶽には[[孝安天皇]]の御代から[[大国主|大国主命]]と[[事代主神]]が祀られており、稲依別命は建部大神たる父日本武尊は東征の帰路、近江国造の租である''意布多牟和気''の娘である布多遅比売命を娶った。その後、景行天皇46年、日本武尊の死後、御子である''建部稲依別命''は住んでいた神崎郡建部郷千草嶽(現・東近江市五個荘伊野部町付近の箕作山)の地に[[ヤマトタケル|日本武尊]]を[[合祀]]した形となっているを「建部大神」として祀ったとされる。伝承では千草嶽には孝安天皇の御代から大国主命と事代主神が祀られており、稲依別命は建部大神たる父日本武尊を合祀した形となっている<ref>{{Cite web |title=滋賀県の神社-建部神社 |url=, http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=794 |website=www.shiga-jinjacho.jp |access-, date=2024-08-30 |publisher=, 滋賀県神社庁 |editor=滋賀県神社庁}}</ref>。建部郷の「建部」の名は日本武尊をしのんで[[名代]]として名付けられたことに因むといい、他にも各地に設けられているとされる。。建部郷の「''建部''」の名は日本武尊をしのんで名代として名付けられたことに因むといい、他にも各地に設けられているとされる。
=== 孝霊山 ===
[[伯耆国]]高杉神社社伝によると[[孝霊山]]は景行天皇(大足彦命)の草創の地で、伯耆国高杉神社社伝によると孝霊山は景行天皇(大足彦命)の草創の地で、[[八坂入媛命]]との間に生まれた皇子である''[[押別命]]が居住されたという伝説が残っており、近くの山麓にある[[向山古墳群]]は皇族代々の[[宗廟]]と伝わっている''が居住されたという伝説が残っており、近くの山麓にある向山古墳群は皇族代々の宗廟と伝わっている<ref>{{Cite web |title=高杉神社|鳥取縣神社廳(公式ホームページ) |url=高杉神社, 鳥取縣神社廳(公式ホームページ), https://tottori-jinjacho.jp/pages/527/ |website=, 宗教法人鳥取縣神社廳 |access-date=, 2025-01-29 |language=ja |publisher=, 鳥取縣神社廳}}</ref>。
=== 地名由来説話 ===
 
==== 水嶋と火国 ====
筑紫巡狩中のこと、葦北([[熊本県]][[水俣市]])に至った皇軍は小島に渡って食事をすることになり、小左(おひだり)という者が冷たい水を持ってくるよう命じられた。しかし島に水はない。切羽詰まった小左が天神地祇に祈ると崖から寒泉(しみず)が湧き出してきた。そこでこの島を水嶋という。半月ほど経って葦北から船出し、日が暮れたところで岸がどこにあるかわからなくなった。遠くに火が見えたので、それを目印に船を進めることにした。無事に岸に着き、そこが[[八代]]県の豊村だとわかった。しかし火については何もわからなかった([[不知火]])。人が起こした火ではないのだろうということで、その国を[[火国]]と名付けた。筑紫巡狩中のこと、葦北(熊本県水俣市)に至った皇軍は小島に渡って食事をすることになり、小左(おひだり)という者が冷たい水を持ってくるよう命じられた。しかし島に水はない。切羽詰まった小左が天神地祇に祈ると崖から寒泉(しみず)が湧き出してきた。そこでこの島を水嶋という。半月ほど経って葦北から船出し、日が暮れたところで岸がどこにあるかわからなくなった。遠くに火が見えたので、それを目印に船を進めることにした。無事に岸に着き、そこが八代県の豊村だとわかった。しかし火については何もわからなかった(不知火)。人が起こした火ではないのだろうということで、その国を火国と名付けた。
==== 御木 ====

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