また、この神話では「'''豚(パイワン族)の息子と父が一体'''」とみなされている。三位一体ならぬ「'''二位一体'''」である。これはキリスト教的な「'''父と子は同じものである'''」という思想の原型といえないだろうか。「'''父と子がなぜ一体と考えられるのか'''」という問題点はあるのだが。なぜなら現代の私たちの通常の「家族」を考えてみても、父と息子は家族かもしれないけれども、別々の人間で、別々の個人である、と誰でも思うのではないだろうか。
だから、「父と子がなぜ一体と考えられるのか」という私なりの回答は、一つは「'''母親に罪あり'''」とするため、と考える。母系社会であれば、子供の立場では父親が誰であるのかは気にしないが、自分が母親の性の対象とされれば、それは問題である。そして、「父」とは言わないが「夫」とか「恋人」の立場であれば、愛する女性が他の男性と仲睦まじくする姿に嫉妬心を感じることは、それは母系社会であってもあることであったのではないだろうか。それは社会的、倫理的には問題なくても、一人の男性としては「裏切られた」と感じて、「女性に罪あり」と憤りを感じるような問題となることもあったかもしれない、と思う。'''男性の嫉妬心を「女性に罪あり」と正当化するためには「夫」という立場が必要なのである'''。。だから何重にも「'''女性に罪あり'''」とするために、父と子を一体化させてしまったのだろう。
母親である女性は「[[燃やされた女神]]」、息子は「[[伏羲型神]]」、豚と犬は典型的な「非伏羲型神」でそれぞれ'''ブタ型'''と'''イヌ型'''である。