興味深いものについて、いくつか考察する。
* '''立太子''':「親の後を継ぐのに、誰が財産と権威を受け継ぐか」という神話が元にあって、それを変形させたものと考える。財産を受け取ったのが'''五十瓊敷命'''、権威を受け取ったのが景行天皇ということになろうか。長男が王権を譲る例としては、兄が祭祀権を得、弟に王権を譲ったという綏靖天皇の即位に関する神話がある。五十瓊敷命は、この後、「石上神宮の創設」と「岐阜(美濃)にての悲劇的な死去」の2点で割と重要な役割を神話の中で果たす。最初の逸話は、そうとは描かれないけれども、五十瓊敷命が事実上'''物部氏の祖神扱い'''であると同時に、石上神宮が皇室の意向で創設された、という神宮の正統性を示す役割を果たす。後者は、物部氏が美濃あるいは更にそれよりも東に勢力があったことを示唆する伝承といえる。ただ、名前に「五十(いそ)」がつく点は賀茂氏・多氏系の神の名に多いので、状況次第では「石上神宮は賀茂氏が創設した神社なので、祭祀権を賀茂氏系に渡せ」と言う口実になりかねない要素もやや含むと考える。五十瓊敷命は、さまざまな氏族の思惑の上に成立した神であろう。余談だが、主要な神社の祭祀の主導を巡って、賀茂氏・多氏系と物部氏系の争いで、最も有名なのは諏訪大社であると考える。諏訪大社の上社(物部氏系)と下社(金刺氏・多氏系)は平安末期にはよくよく仲が悪く、中世の間ずっと仲が悪く、戦国時代に入ると両者の対立が先鋭化して上社が下社を攻め滅ぼすというローカルの大騒動に発展する。そして、その報復のように上社も武田に滅ぼされてしまう。古代から中世にかけての「祭祀権」というのは家の存亡や人命をかける価値があるほど重要なものだったのである。
* '''踏石の誓約''':石とは「死体の象徴」でもあるので、誰かを生贄にして勝利した、という伝承が元はあったと思われる。それを変形させたのであろう。「志我神、直入物部神、直入中臣神」とは「'''鹿神、物部氏の神、中臣氏の神'''」ということであろうか。「'''鹿神'''」とはとは「鹿日女神」のことと思われる。「鹿の神」を倒すのに「鹿神」に祈願する、というのはおかしな話なので、物部氏・中臣氏に伝わる'''「誰かが鹿神や物部氏等の神に勝利を祈願した」という伝承が景行天皇に結びつけられ'''たものと考える。生贄の話を忌避するために改変したのも、物部氏系の氏族ではないだろうか。また彼らが鹿の太陽女神を尊重していたことが窺える神話でもある。
== 考証 ==