このころにはアンドレ・デュポンによる人為交配(人工授粉)による育種の技術が確立された<ref name="baraken"/>。ナポレオン失脚後、またジョゼフィーヌ没後も彼女の造営したバラ園では原種の蒐集、品種改良が行われ、19世紀半ばにはバラの品種数は3,000を超え、これが観賞植物としての現在のバラの基礎となった。
==== モダンローズの誕生 ====
===== ハイブリッド・ティー(HT)系の誕生 =====
[[1867年]]に[[フランス]]のギョーがハイブリッド・パーペチュアル系の「マダム・ビクトル・ベルディエ」を母にティー系の「マダム・ブラビー」を交配して「[[ラ・フランス (バラ)|ラ・フランス]]」を作出し、これがモダンローズの第1号となり、[[品種改良]]が一層進むことになった。「ラ・フランス」が冬を除けば一年中花を咲かせる性質は「四季咲き性」といわれ、画期的なものであった。
[[イギリス|英国]]のベネットはこれに追随し、ティー系「デボニエンシス」とハイブリッド・パーペチュアル系「ビクトール・ベルディエ」を交配し、「レディ・マリー・フィッツウィリアム」を[[1882年]]に作り出し、これを新しいバラの系統として「'''[[ハイブリッド・ティー]]'''」系と命名した。ベネットの新品種は整った花容から、交配の親として広く利用されていった。
===== 黄色いバラの誕生 =====
当時のハイブリッド・ティー系には純粋な黄色の花はなかった。そこで、黄色のハイブリッド・ティー系の品種を作り出すことが課題とされた。1900年にフランスのジョセフ・ペルネ=デュシェ ([[:en:Joseph Pernet-Ducher|Joseph Pernet-Ducher]]) が「アントワーヌ・デュシェ」の実生に原種の「[[ロサ・フェティダ]](オーストリアン・イエロー)」をかけあわせて「ソレイユ・ドール」を作出、黄バラ第1号となった。しかし「ソレイユ・ドール」は「四季咲き性」がないので、一層の改良が加えられ、1907年には四季咲き性の「リヨン・ローズ」、さらに1920年には完全な黄色のバラ「スブニール・ド・クロージュ」を完成させた。[[ドイツ]]のコルデスは「スブニール・ド・クロージュ」の子の「ジュリアン・ポタン」から1933年に「ゲハイムラート・ドイスゲルヒ(ゴールデン・ラピチュア)」を作出した。これが今の黄色のバラの親である。
===== 欧米での品種改良の進展 =====
コルデスは黄色のみならず、赤バラの改良にも尽力した。1935年に「クリムゾン・グローリー」を作り出し、これが後世の赤バラの品種改良に広く利用されることになる。英国では1912年に「オフェリア」を発表、花容、芳香に優れるだけでなく実をつけ易いことから、多くの品種の親になる。このようなヨーロッパでの品種改良は、[[第二次世界大戦]]で中断する。品種改良の中心は、戦火に見舞われない[[アメリカ合衆国]]に移る。1940年にラマーツが「クリムゾン・グローリー」から「シャーロット・アームストロング」を作り出し、フランスのメイアンの「マダム・アントワーヌ・メイアン」がアメリカで「[[ピース (バラ)|ピース]]」と名づけられ、1945年に売り出された。「ピース」は大きな花をつけることから「巨大輪」と呼ばれ、品種改良に利用されるとともに、戦後のバラの流行を作り出すことになる。
===== フロリバンダ系(FL)の誕生 =====
[[デンマーク]]のポールセン兄弟が従来ある「ドワーフ・ポリアンサ系」の花を大きくし、[[北ヨーロッパ]]の寒さに耐えられる品種を作出しようとしていた。1911年にポリアンサ系の「マダム・ノババード・レババースル」とランブラー系の「ドロシー・パーキンス」をかけ合わせ「エレン・ポールセン」を作り出し、続く1924年にはポリアンサ系の「オルレアンローズ」とハイブリッド・ティー系「レッドスター」の交配で「エルゼポールセン」「キルステンポールセン」などを出し、「ハイブリッド・ポリアンサ系」と命名された。
これを受けて、アメリカのブーナーなどが改良を続け、この系統は「'''{{仮リンク|フロリバンダ|en|Floribunda (rose)}}'''系」と命名された。さらにドイツのコルデスが1940年に「ピノキオ」を発表した。ブーナーがこれに追随して「レッド・ピノキオ」「ラベンダー・ピノキオ」を発表し、これがフロリバンダ系の完成と言われる。
その後、フロリバンダ系の改良は色の多様性を求めることに重点がおかれ、1944年にはドイツのタンタウが「フロラドラ」、1949年ブーナーが「マスケラード」を、1951年にコルデスが「インデペンデンス」を作出した。「フロリバンダ系」は新しい系統であるが、切り花ではスプレーバラとして利用されるため、多くの品種が作り出されることとなった、またハイブリッド・ティーとの交配も試みられ、ますます多様性を強めている。
==== 「奇跡」のブルー・ローズへの挑戦 ====
{{Seealso|青いバラ (サントリーフラワーズ)}}
「青いバラ」は、オールド・ローズの「カーディナル・ド・リシュリュー」などが知られていた。しかし、純粋な青さを湛えたバラを作り出すことは、青い[[チューリップ]]と同様に世界中の育種家の夢であり、各国で品種改良競争が行われた。1957年、アメリカのフィッシャーが「スターリング・シルバー」を出し、「青バラ」の決定版といわれた。しかし、競争は止まず、1957年にはタンタウが一層青い「ブルームーン」を発表した。それにコルデスが1964年に「ケルナーカーニバル」を出し、1974年にフランスのメイアンは「シャルル・ド・ゴール」を発表と、熾烈な品種改良競争を展開した。日本でも青いバラに対する挑戦は盛んで、今日までに数多くの品種が生み出され、世界でも注目を浴びている。
2008年現在、一般的な交配による品種改良で最も青に近いとされる品種は、[[岐阜県]]の[[河本バラ園]]が2002年に発表した「ブルーヘブン」、アマチュア育成家である[[小林森治]]が1992年に発表した「青龍」や2006年に発表した「ターンブルー」等が挙げられる。
従来、青い[[色素]]を持つ原種バラは発見されていなかったため、従来の原種を元にした交配育種法では青バラ作出は不可能とされてきた。そのため、現在の園芸品種にも青色といえる品種は存在しない。また「青バラ」と呼ばれる品種は、主に赤バラから赤い色素を抜くという手法で、紫や藤色に近づけようとしたものである。その後、[[サントリー]]の福井祐子らの研究により、青い色素を持たないとされてきたバラから、[[シアニジン]]誘導体のバラ独自の青い色素が発見された<ref>福井祐子「[https://doi.org/10.24496/tennenyuki.42.0_55 バラ花弁の新規色素Rosacyanin類の構造(口頭発表の部)]」『天然有機化合物討論会講演要旨集』42(0), 55-60, 2000, {{naid|110006681912}}, {{doi|10.24496/tennenyuki.42.0_55}}</ref>(「青龍」を始めとするいくつかの青バラより)。これはバラ独自のもののため、「[[ロザシアニン]]」(Rosacyanin)と命名された。
しかし、この色素を持つ「青龍」は花粉をほとんど出さないために、交配親としては不向きとされており、[[遺伝子操作]]に頼らない青バラへの道は依然険しく長い道のりのままではある。だが、「ロザシアニン」の発見は、純粋な青バラ作出を目指す育種家にとって一つの希望を示したといえる。
=== 中国 ===
中国の[[唐]]の末期の詩人[[高駢]]([[821年]]中国の唐の末期の詩人高駢(821年-[[887年]])の[[七言絶句]]『山亭夏日』(『[[全唐詩]]』巻598所収)には薔薇(しょうび)としてバラが詠まれている887年)の七言絶句『山亭夏日』(『全唐詩』巻598所収)には薔薇(しょうび)としてバラが詠まれている<ref>{{Cite web |url=https://kanbun.info/syubu/santei.html |title=, 高駢:山亭夏日 |website=, Web漢文大系 |accessdate=, 2019-06-08}}</ref>。 中国の庭園で伝統的に栽培されたバラは8種である{{Sfn|中尾|2006|p=452}}。[[18世紀]]に中国を旅したヨーロッパ人が中国庭園で見たバラは、灌木性で四季咲き、多くは重弁の品種群であった{{Sfn|中尾|2006|p=452}}。特に[[華中]]地域では<!--チャイネンシスバラなど-->優れたバラ類が庭園に栽培されており、ヨーロッパにも持ち込まれた{{Sfn|中尾|2006|p=453}}。
[[カール・フォン・リンネ]]は[[1753年]]、[[ロサ・インディカ]] 中国の庭園で伝統的に栽培されたバラは8種である<ref>中尾, 2006, p452</ref>。18世紀に中国を旅したヨーロッパ人が中国庭園で見たバラは、灌木性で四季咲き、多くは重弁の品種群であった<ref>中尾, 2006, p452</ref>。特に華中地域では<!--チャイネンシスバラなど-->優れたバラ類が庭園に栽培されており、ヨーロッパにも持ち込まれた<ref>中尾, 2006, p453</ref>。 カール・フォン・リンネは1753年、ロサ・インディカ (R. indica) について年報『Species Plantarum』に掲載した<ref name="gs20768"/>。また[[ニコラウス・フォン・ジャカン|ジャカン]]は[[1768年]]、[[ロサ・キネンシス]] 。またジャカンは1768年、ロサ・キネンシス (R. chinensis) について植物誌『Observationum Botanicarum Pars III』に記載した<ref name="gs20768"/>。これらは赤花の園芸品種であったが、近縁の品種であったと考えられている<ref name="gs20768"/>。中国のバラはヨーロッパに先んじて日本へも伝来した<ref name="gs20768">[https://gardenstory.jp/stories/20768 花の女王バラを紐解く「チャイナローズ~中国生まれのバラ」] 田中敏夫、GARDEN STORY、株式会社タカショー、2019年1月6日</ref>。{{Main|ロサ・キネンシス}}{{節スタブ}}
=== 日本 ===