『古事記』の国譲り神話の部分にのみ登場する[[建御名方神]]について、『諏訪市史』では、科野国造の後裔である[[金刺氏]]が、始祖([[神八井耳命]])を同じくする系譜を持つ[[太安万侶]]に働きかけ、建御名方神についての神話を挿入させたとする<ref> 諏訪市史編纂委員会『諏訪市史. 上巻(原始・古代・中世)』(諏訪市、1995年)</ref>。
金刺氏(多氏)の由来は、河内長野の源流とされる藤井寺市の一角で、物部目大連の土地でかつ志紀県主がおさめていた場所、ひいては奈良の磯城郡と金刺氏との関連を指摘し、魏の司空王(永辺に日)を祖とする忠意の後裔とする渡来人集団で朝鮮半島を出自とし、河川工事の技術集団であって、物部氏の配下であって信濃国に進出したのではないか、という説があるようである<ref>[http://scoophands.cocolog-nifty.com/blog/2006/07/post-c3bf.html 物部氏と長野氏と金刺氏と信濃]、遺跡の見方と歩き方、06-07-24(最終閲覧日:22-11-11)</ref><ref group="私注">金刺氏(多氏)、物部氏、志紀氏の間に関連性がある、という考え方は管理人も同様である。しかし、祖神として物部氏の邇芸速日よりも格上といえる神武天皇を有していること、物部氏が滅亡した後も金刺氏は信濃国を中心として栄えていたこと、聖徳太子と善光寺との近さからいってむしろ物部氏を滅ぼす方に加担していたのではないか、と思われることから物部氏の配下であったとは考えにくいと管理人は個人的に思う。現実の社会構造(地名や文化の一致)からの考察は素晴らしいと思うが、では他の多氏系の氏族との関連性はどうなのか、何故金刺氏は神武天皇の子孫とされているのか、何故物部、志紀、金刺を含むと思われる賀茂氏そのものが渡来系の氏族であることを隠しているのか、その答えが必要である。治水工事に関して金刺氏がある程度の技術力を有していたこととは思うが、古代において技術者は常に朝鮮半島から招かれていたと思うので、金刺氏そのものが技術者集団であるという点は疑問に思う。金刺氏に関連する「渡来系技術者的集団」として秦氏が果たした役割は非常に大きいと感じる。6世紀頃の渡来としてしまうと、長野県北信にある前方後円墳が作られ始めた時期よりも遅くなってしまい矛盾が生じる。しかも、魏の王の子孫が何故、治水工事の技術集団へと変貌したのか、という点にも説明が必要と思われる。</ref>(ただし、管理人は金刺氏は水稲耕作における信濃国開拓の最古族でもあると考えるため、遅くとも弥生中期、早ければ弥生前期には長野県に到達していたと考える。彼らの固有の伝承は記紀神話よりも古いと考える。そのため、6世紀頃の渡来人であるとは考えていない。後述するが、金刺氏は朝鮮半島の文化と連続性のあるヒョウタン信仰・北斗信仰を有していた形跡があり、百済の朝廷に出仕していたようである。新羅には倭人の[[瓠公]]の伝承がある。管理人の想像では彼らは朝鮮半島南部で、安定した政府のない地域、日本の歴史的には任那と呼ばれる地域におり、そこから紀元前2世紀頃より日本列島に侵入し、侵略、定住、開拓を繰り返しながら次第に日本に拠点を置くようになったものなのではないだろうか。そのため、朝鮮半島とのつながりが深く、半島の国家にも出仕者がいたものと想像する。)の伝承がある。管理人の想像では金刺氏の先祖は朝鮮半島南部で、安定した政府のない地域、日本の歴史的には任那と呼ばれる地域におり、そこから紀元前2世紀頃より日本列島に侵入し、侵略、定住、開拓を繰り返しながら次第に日本に拠点を置くようになったものなのではないだろうか。そのため、朝鮮半島とのつながりが深く、半島の国家にも出仕者がいたものと想像する。)
『新撰姓氏録』では、河内国皇別尾張部は彦八井耳命の後、とあるとのことなので、長野市尾張部の尾張氏は河内国出身であることが示唆される<ref>Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%AD%90%E5%85%AB%E4%BA%95%E5%91%BD 日子八井命](最終閲覧日:22-11-12)</ref>。ただし、河内国の尾張氏のみを特別に日子八井命の後裔とする理由はないので、これは尾張氏、ひいては物部氏、海部氏等、邇芸速日あるいは天火明命の子孫とされる氏族にまで拡大するとすると、これらの氏族は全て同族である、といえることになると考える。