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* 796年、天皇は[[北斗七星]]を祀ることを禁じた。罰則として 「法師は名を綱所に送り、俗人は違勅の罪に処せ」 と規定した(『類聚国史』 「延暦十五年」)。
* 799年、斎宮が伊勢神宮へ行くに際して 「京畿の百姓」 に 「北辰<ref>日本においては、少なくとも江戸時代以降、北辰は北極星(こぐま座α星)と同一視されていた。しかしこの頃は北極(これは星座のことを指している)の天樞(てんすう、きりん座 [http://simbad.u-strasbg.fr/simbad/sim-id?protocol=html&Ident=HD112028 HD112028])が最も天の北極に近い時期であった。中国本土ではともかく、日本において5等星にすぎない天樞を北極星と見ていたとは考えにくい。これは以下の私幣禁断の事例にも言えることである。</ref>に灯火を奉る」 ことを禁じた(『日本後紀』 「延暦十八年九月」)。
*[[811年]]、斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヵ月間、「北辰を祭り、挙哀改葬等の事」 を禁じた(『[[日本後紀]]』 811年、斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヵ月間、「北辰を祭り、挙哀改葬等の事」 を禁じた(『日本後紀』 「弘仁二年九月一日」)。*[[835年]]、斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヵ月間、「京畿」 835年、斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヵ月間、「京畿」 での 「北辰に火を供えること」 を禁じた(『[[続日本後紀]]』 「'''北辰に火を供える'''こと」 を禁じた(『続日本後紀』 「承和二年八月二日」)。*[[967年]]施行の 『[[延喜式]]』 967年施行の 『延喜式』 は斎宮が伊勢神宮へ行くに際して 「九月一日より三十日まで、京畿内、伊勢、近江、等の国、北辰に奉灯し、哀を挙げ、葬を改むる」 ことを禁じた。
なお、[[1811年]]、伊勢神宮の私幣禁断は解かれたが、北極星および北斗七星の祭祀解禁の時期は不明である。なお、1811年、伊勢神宮の私幣禁断は解かれたが、北極星および北斗七星の祭祀解禁の時期は不明である。
== 参考文献 ==
* Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%A4%A7%E5%B8%9D 天皇大帝](最終閲覧日:22-11-08)**大崎正次 『中国の星座の歴史』 雄山閣出版、1987年。**窪 徳忠 『道教の神々』 [[平河出版社]]、1986年。平河出版社、1986年。
*[[福永光司]] 『道教と古代日本』 [[人文書院]]、1987年。
*福光光司・千田稔・[[高橋徹]]{{要曖昧さ回避|date=2022年4月}} 『日本の道教遺跡を歩く』 [[朝日新聞社]]〈朝日選書〉、2003年。

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