照手姫が川に投げ込まれて生贄にされ、小栗判官の再生に関わる、という点は人間の「死と再生」に関わる神が「'''川の神'''」であり「'''冥界神'''」であることを示している。物語の中には出てこないが、「'''川の神'''」であり「'''冥界神'''」であるものとは'''須佐之男'''か、あるいは彼が仕えるその母・'''伊邪那美命'''と思われる。'''熊野信仰'''を前面に出している物語であるので、この点は分かりやすくなっているように思う。「[[美女と野獣]]」では、女主人公が結婚の約束をした途端に野獣が王子に再生されてしまっており、どのような「'''神'''」が野獣を再生させたのかが分かりにくくなっているように思う。そして、中世における'''須佐之男が「川の神」とみなされていた'''ことが明確となる物語ともなっている。
最終的に二人が結婚する(結婚しない場合もあるが)、という筋書きは西洋の民話「[[美女と野獣]]」と同じパターンの物語といえる。よって、ギリシア神話のアモールとプシケーあるいはメソポタミア神話のニンリルとエンリルの類話でもある。小栗判官は炎黄闘争で殺された[[炎帝神農|炎帝]]が民間伝承化したものといえる。とすると、小栗を殺した横山は黄帝に相当することになるが、本物語では完全に悪役となっていることが特徴である。
照手姫の人身御供とその再生は、「須佐之男に狼藉されて殺された織女と、天照大神の死(岩戸隠れ)と再生」を投影したもので、照手姫は天照大神が民間伝承化したもの、ともいえるし、意図的に立場を遊女など、低い身分に置き換えて現したものともいえると考える。とすれば、小栗判官は須佐之男であるともいえる。
女神の持つ「再生の力」を当てにしながら、女神の地位を意図的に低いものに貶めること、殺された小栗判官(言い換えれば炎帝)を意図的に再生したことにすること、等、女性蔑視の普及と「再生の力が熊野の神にある」とすり替える意図に溢れた物語といえようか。このような意図に満ちた中世を経て、やがて須佐之男は「熊野の神」として君臨していくことになる。熊野信仰の「'''乗っ取り思想'''」が溢れた物語といえる。
また、照手姫が'''遊女'''とされている点、小栗判官と照手姫が夫婦のようであって必ずしも夫婦ではない点など、いわゆる「原始キリスト教」の影響を受けたと思われるキリスト教譚、すなわち小栗判官をイエスになぞらえて、その死と再生のために若い女性を生贄にする、として生贄を正当化するような思想が内包されているのではないか、と疑われる。