* 茨田堤と強頸・衫子
:: 『日本書紀』「巻第十一の十 仁徳天皇(仁徳天皇11年10月の条)」の伝えるところによれば、暴れ川であった淀川の治水対策として当時は広大な低湿地であった茨田(まんた、まんだ。のちの河内国茨田郡[まんたのこおり]、現在の大阪府守口市・門真市の全域、寝屋川市・枚方市・大東市・大阪市鶴見区の一部に及ぶ範囲)に茨田堤を築いて淀川の奔流を押さえ、次に難波堀江を開削して流水を茅渟の海(ちぬのうみ。現在の大阪湾)に落とす工事にかかったが、茨田地域にどうにもならない絶間(たえま。断間とも記す。決壊しやすい場所)が2箇所あって万策尽きてしまった<ref name="Miyoshi 2009, NIE">三善貞司, 2009-06-27, 荒れる淀川鎮める生贄に 工事成功へ天皇にお告げ , http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/090627/20090627058.html, 大阪日日新聞(ウェブサイト), 新日本海新聞社, 2012-10-14</ref><ref name="強頸碑, 大阪市">61.強頸絶間跡碑, http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000010040.html |work=(公式ウェブサイト), 大阪市]] , 2012-10-14}}</ref><ref>日本書紀 巻第十一の十 , http://www.kyoto.zaq.ne.jp/dkanp700/koten/shoki27.htm, 岩倉紙芝居館(個人ウェブサイト), 個人 , 2012-10-14</ref>。そのような最中のとある夜、天皇は夢枕に立った神から「武蔵国の人・強頸(こわくび、参照)と河内国の人・茨田連衫子(まんたのむらじ ころもこ)の2名を人身御供として川神に捧げて祀れば必ずや成就する」とのお告げを得、かくしてただちに2名は捕らえられ、衫子は'''ヒョウタン'''を用いた策で難を逃れたが、強頸は泣き悲しみながら人柱として水に沈められたため、堤は完成を見たという。江戸時代の『摂津名所図会』によれば、強頸が人柱にされた「強頸絶間」の跡は絶間池(非現存。大阪市旭区千林)として残っていた。現在は千林2丁目の民家に「強頸絶間之址」の碑が建っている。
* [[長柄橋]] :[[飛鳥時代]]初期。「キジも鳴かずば撃たれまい」という諺の語源となった。故事の詳細は当該項目を参照。:飛鳥時代初期。「キジも鳴かずば撃たれまい」という諺の語源となった。故事の詳細は当該項目を参照。* [[犀川 (長野県)#民話における記述|久米路橋]] :長柄橋のものと似た人柱伝説が伝わる([[犀川 (長野県)#民話における記述]]を参照)。久米路橋:長柄橋のものと似た人柱伝説が伝わる。* {{Anchors|大輪田泊}}[[大輪田泊]]と松王丸大輪田泊と松王丸:: [[平清盛]]の治世下にあって[[日宋貿易]]の拠点港とすべく大輪田泊の建造が急がれていた頃、工事にあたって旅人を含む30名もの罪無き人々が人柱にされようとするのを清盛の侍童(さぶらいわらわ、じどう)平清盛の治世下にあって日宋貿易の拠点港とすべく大輪田泊の建造が急がれていた頃、工事にあたって旅人を含む30名もの罪無き人々が人柱にされようとするのを清盛の侍童(さぶらいわらわ、じどう)<ref group="*">[[貴人]]のそばに仕えて雑務をする[[少年]]。貴人のそばに仕えて雑務をする少年。</ref>であった[[松王丸]](まつおうまる)が中止させたという伝説がある。しかし異説によると、松王丸が[[入水]]して人柱になったことで工事は成し遂げられたのだという。また、[[経典|経文]]を記した礎(いしずえ)を人柱の代わりとして海に沈めたことが分かっており、そういった石は[[遺物|考古遺物]]としても確かめられている。このようにして造られた[[人工島]]は「[[経が島]]」と呼ばれるようになった。であった松王丸(まつおうまる)が中止させたという伝説がある。しかし異説によると、松王丸が入水して人柱になったことで工事は成し遂げられたのだという。また、経文を記した礎(いしずえ)を人柱の代わりとして海に沈めたことが分かっており、そういった石は考古遺物としても確かめられている。このようにして造られた人工島は「経が島」と呼ばれるようになった。
* [[大洲城]]
:: [[1331年]]([[元徳]]3年/[[元弘]]元年)、[[宇都宮豊房]]が築城した際に石垣工事が難航したため、くじに当たった「おひじ」という若い娘を人柱にした。その娘の遺言により城下を流れる川を「肱川(ひじかわ)」と名付け、おひじの魂を慰めたとの伝説がある。