'''中臣 烏賊津 '''(なかとみ の いかつ)は『[[日本書紀]]』等に伝わる[[古墳時代]]の[[豪族]]・'''[[中臣氏|中臣連]]'''の祖。『[[古事記]]』に記載はない。別名に'''中臣烏賊津使主'''(なかとみのいかつおみ)、'''雷大臣命'''(いかつおおおみのみこと)。『[[日本書紀]]』ではその系譜は明らかではないが、『[[続群書類従]]』所収の『[[松尾大社|松尾社家系図]]』によれば、[[臣狭山命]]の子で[[大小橋命]]・[[真根子命]]の父であるとするため、『[[尊卑分脈]]』に見える「'''跨耳命'''」と同一人物であると考えられる<ref name="#2"/><ref name="#3"/>。『日本書紀』では「中臣」を冠するが、烏賊津使主の時代には中臣と名乗っていなかったとされる<ref name="#2"/><ref name="#3"/>。
== 記録 ==
『[[日本書紀]]』巻第八によると、[[仲哀天皇]]の急逝に際し、
{{quotation|皇后<small>(きさき)</small>及び[[大臣 (古代日本)|大臣]](おほおみ)[[武内宿禰]](たけしうち の すくね)、天皇<small>(すめらみこと)</small>の喪<small>(みものおもひ)</small>を匿<small>(しな)</small>めて、天下<small>(あめのした)</small>に知<small>(し)</small>らしめず}}
そのようにした上で、皇后の気長足姫(のちの[[神功皇后]])は・中臣烏賊津[[連]]・[[大三輪大友主]][[キミ (カバネ)|君]](おおみわ の おおともぬし の きみ)・[[物部胆咋]]連(もののべ の いくい の むらじ)、[[大伴武以]]連(おおとも の たけもつ の むらじ)に、「天皇がなくなったことを[[百姓]](=人民)に知らせてはならない」と断った上で、百寮を率いさせ、宮中を守らせた、という<ref>『日本書紀』仲哀天皇9年2月5日条</ref>。
『書紀』巻第九によると、皇后は、それから罪を払い、過ちを改めて、斎宮(いわいのみや)を定めた後で、一ヶ月後、吉日を選んで、斎宮に入って、自分から神主となり、武内宿禰に命じて琴をひかせ、「中臣烏賊津使主」(なかとみ の いかつ の おみ)を呼んで、[[審神者]](さにわ=神慮を審察する人)とした。そして、
{{quotation|「先<small>(さき)</small>の日<small>(ひ)</small>に天皇<small>(すめらみこと)</small>」に教<small>(をし)</small>へたまひしは誰<small>(いづれ)</small>の神<small>(かみ)</small>ぞ。願<small>(ねが)</small>はくは其<small>(そ)</small>の名<small>(みな)</small>をば知<small>(し)</small>らむ」}}
7日7夜かけて、ついにその答えがあった、という<ref>『日本書紀』神功皇后摂政前紀(仲哀天皇9年)3月1日条</ref>。「中臣」とは「中つ臣」の略で、神と人との仲介をするという意味なのだが、その名にふさわしい功績をあげている。
なお、『書紀』十三によると、その後、允恭天皇の朝廷にも[[舎人]]の「中臣烏賊津使主」という人物が登場するのであるが、同名異人であるとも、伝承の混乱であるとも言われている。『[[新撰姓氏録]]』の中臣志斐連、神奴連の系譜では、[[天児屋命]]からの世代数にはそれぞれ若干の異同があり、烏賊津に該当する人物は、「伊賀津」と「雷大臣命」の2名になるが、壱伎直、生田首の雷大臣は世代数や系図からも[[崇神天皇]]の二世代前の人物である[[伊香津臣命]](伊香迹臣命)であり、類似した名称を持つ人物である。[[飯田武郷]]の「日本書紀通釈」は時代と身分が異なるとしており、[[河村秀根]]の「書紀集解」は祖父の名をもって、舎人として仕えた、としている。
その内容は、皇后[[忍坂大中姫]]の妹、[[衣通郎姫]]を呼ぶ使いの役割を果たしたいきさつである<ref>『日本書紀』允恭天皇7年12月1日条</ref>。
さらに、『[[続日本紀]]』巻第三十六にでは、[[781年]]、[[栗原子公|栗原勝子(くりはらのすぐりこ)]]という人が、自分たちの先祖の「伊賀津臣」が神功皇后の時に百済人の女性と子をなした、という話を朝廷に言上している。この書においては[[天御中主命]]の二十世孫とされ、[[臣狭山命|意美佐夜麻]]の子と記される<ref>『続日本紀』桓武天皇 天応元年7月16日条</ref>。
『[[尊卑分脈]]』では「初めて卜部姓を賜う」、「雷大臣命は、足中彦天皇の朝廷のとき、大兆の道を習い、亀卜の術に達し、卜部の姓を賜りその事で供奉せしむ」とある。
== 対馬での伝承 ==
[[対馬]]には雷大臣命に関する伝承がいくつか存在する<ref>鈴木棠三『対馬の神道』(三一書房、1972年)</ref>。
*[[厳原町]]豆酘の[[雷神社]]は[[新羅]]征討からの帰還後に雷大臣命が邸宅を構えた場所であり、雷大臣命はそこで朝鮮からの入貢を掌り、祝官として祭祀の礼や亀卜の術を伝えたという。
*厳原町阿連の[[雷命神社]]の社家である橘家は雷大臣命の末裔である。
*[[美津島町]]加志の[[太祝詞神社]]には雷大臣命の墓がある。
*[[上対馬町]]大増の[[霹靂神社]]は雷大臣命が新羅から帰還したときに上陸した地(浜久須)である。
*上対馬町芦見の[[能理刀神社]]は雷大臣命が亀卜を行った場所である。
== 系譜 ==
父は[[臣狭山命]]で、子に[[大小橋命]]、[[壱岐氏|伊岐宿禰]]の祖・[[真根子命]]がいる。また[[百済]](『[[神社明細帳]]』では新羅)の女を娶って栗原連の祖・[[日本大臣命]]を生んでいる<ref name="#1"/>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 『日本書紀』(一)、[[岩波文庫]]、1994年
* [[宇治谷孟]]訳『日本書紀』全現代語訳(上)、[[講談社学術文庫]]、1988年
* 宇治谷孟訳『続日本紀』全現代語訳(上)、講談社学術文庫、1992年
* 『続日本紀』5 新日本古典文学大系16 岩波書店、1998年
* [[佐伯有清]]編『日本古代氏族事典【新装版】』[[雄山閣]]、2015年
* [[岸俊男]]編『日本の古代7 まつりごとの展開』[[中公文庫]]、1996年
== 関連項目 ==
* [[大神神社]]
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[[Category:日本神話]]
[[Category:日本神話の人物]]
[[Category:古墳時代の人物]]
[[Category:日本古代の武人・武官]]
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