* 若宇加能売命(わかうかのめのみこと)
** 別称で[[大物忌神|大忌神]]<ref>神道大辞典1, 平凡社, 1941, NDLJP:1913333, NDLDC:1913333/132 p220],NDLDC:1913333/153, p257-258</ref>。「廣瀬大忌神(ひろせおおいみのかみ)」とも。社伝では伊勢神宮外宮の[[豊受大神|豊宇気比売大神]]、伏見稲荷大社の宇加之御魂神と同神とする。龍田大社の龍田風神とも関係があるとしている。
== 縁起 ==
崇神天皇9年(前89年)廣瀬の河合の里長に御神託があり、沼地が一夜で陸地に変化し、'''橘'''が数多く生えた。このことが天皇に伝わり、この地に社殿を建てた。
=== 相殿神 ===
* 櫛玉命(くしたまのみこと)[[伊勢津彦|櫛玉命]](くしたまのみこと)
** 社伝では[[ニギハヤヒ|饒速日命]]を指す。社家の樋口氏<ref>http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/kinki/s_hirose.html, 広瀬社神主曽祢氏系図, 家紋World by 播磨屋, 2015-08-24</ref> は饒速日命を祖神とする[[物部氏]]の末裔であり、社家の邸宅内には饒速日命を祀る境外末社の饒速日命社がある。
* 穂雷命(ほのいかづちのみこと)
== 歴史 ==
鎮座地は、高田川と一緒になった曽我川・大和川・飛鳥川など奈良盆地内を流れる河川のほとんどが合流する地点であり、このことから水神を祭る。社伝では、崇神天皇9年、広瀬の河合の里長の廣瀬臣藤時に託宣があり、水足池と呼ばれる沼地が一夜で陸地に変化し橘が数多く生えたことが天皇に伝わり、その地に大御膳神として社殿を建てて祀ったのに始まるとしている。龍田の風神・広瀬の水神として並び称された。『日本書紀]]』天武天皇4年(675年)4月10日条には風神を龍田立野に、大忌神を広瀬河曲に祀ったとの記述があり、これが4月・7月に行われる廣瀬大忌祭の起源とされている。鎮座地は、高田川と一緒になった曽我川・大和川・飛鳥川など奈良盆地内を流れる河川のほとんどが合流する地点であり、このことから水神を祭る。社伝では、崇神天皇9年、広瀬の河合の里長の廣瀬臣藤時に託宣があり、水足池と呼ばれる沼地が一夜で陸地に変化し橘が数多く生えたことが天皇に伝わり、その地に大御膳神として社殿を建てて祀ったのに始まるとしている。'''龍田の風神・広瀬の水神'''として並び称された。『日本書紀』天武天皇4年(675年)4月10日条には風神を龍田立野に、大忌神を広瀬河曲に祀ったとの記述があり、これが4月・7月に行われる廣瀬大忌祭の起源とされている。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では大和国広瀬郡に「広瀬坐和加宇加乃売命神社(廣瀬坐和加宇加乃売命神社) 名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに朝廷の月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。
* 2月11日 例祭・砂かけ祭(御田植祭)
** 大忌祭の御田水口祭礼に由来するもので、砂を雨に見たてた祈雨の神事である。拝殿前の広場を田に見立てて田植えの所作を行い、それに対して参詣者と'''田人'''・'''牛'''に扮したひとが一斉に砂をかけあうもので、「砂かけ祭」と呼ばれる。
祭は午前の「殿上の儀」、午後の「庭上の儀」の2部に分かれている。「殿上の儀」では神社の屋内で田植えの所作を行って奉仕する。
「庭上の儀」は、拝殿前に'''青竹を4本立て'''、注連縄を張り巡らして田圃に見立てる。太鼓の合図で'''田人(白い衣装)'''と'''牛(黒い衣装)'''が出て田植えの所作をした後、参拝者に砂を掛ける。それに対し参拝者が砂を掛け返し、この砂の掛け合いは1回5分程度で8回繰り返される。砂は雨になぞらえられ掛け合いが盛んであるほどこの年はよく雨が降り豊作となる、と言われている。また、降り注ぐ砂にかかると'''厄除けになる'''と伝えられている。この後、'''早乙女'''が登場し田植えを行うと庭上の儀は終了する。
最後に参拝者へ'''松苗'''と'''田餅'''が撒かれる。'''松苗は松の葉で作られ中に籾種が2・3粒入っており'''藁で巻かれている。これは'''田の水口(水の取り入れ口)に刺すと悪病、害虫、悪水などから田を守り'''ます。また家の玄関口に刺しておくと'''住居を厄災から護る'''のお守りともなう。田餅は、これを食べると無病息災で一年が過ごせる。
広瀬大社の砂かけ祭は、昔の田作りの模範田植えであり、砂を雨に見立てて雨水の恵みを乞い、農耕作業が順調に進み五穀豊穣を祈願するところに特徴がある、とのことだ<ref>砂かけ祭について、広瀬大社HP(最終閲覧日:24-12-10)</ref>。
== 文化財 ==
; 神仏霊場巡拝の道
: 30 朝護孫子寺 - '''31 廣瀬大社''' - 32 當麻寺
== 私的考察 ==
廣瀬大社では、[[伊勢津彦|櫛玉命]]を饒速日命と同神としている。[[伊勢津彦|櫛玉命]]は『伊勢国風土記』逸文では[[伊勢津彦]]という風神とされる。「龍田の風神」と同神とされていない、ということは「別の神」と考えられているのだろう。
砂かけ祭と照らし合わせると、[[伊勢津彦|櫛玉命]]は'''田人'''に相当すると思われる。「'''龍田の風神・広瀬の水神'''」と並び称され、広瀬大社は「水神の神社」とされているようだが、風神、雷神も共に祀っているといえる。風神と雷神が争いながら、その祭祀が豊穣に結びつく、というのはいかにも[[ミャオ族]]の[[バロン]]・[[ダロン]]神話を思わせる。[[伊勢津彦|櫛玉命]]は、まさに風神である[[アペ・コペン]]に相当する。
「白」に象徴される田人([[伊勢津彦|櫛玉命]])は、「風神」としては[[速飄神]]という神に相当するのではないだろうか。一方、長野県長野市にある風間神社では、[[速飄別命|飄別神]]を祀る、と推定されており、現在の祭神は[[志那都比古神]]なので、[[志那都比古神]](龍田の風神)を'''[[速飄神]]'''とし、[[伊勢津彦|櫛玉命]]を'''[[速飄神]]'''とするべきかと考える。」
一方、「黒」に象徴される「牛」は、中国神話の炎帝や蚩尤に相当する神といえる。彼らは火の神でもあり、火山の神でもある。「黒」で現されるのは火山灰の色に由来するのかもしれないと考える。祭りで砂が飛び散るのは、火山の噴火を模したものとも言える、と考える。この場合の雷神は「火山の神」も兼ねるのであり、これは陶芸、家事、製鉄の技術が発達してくると「竈の神」にも変化するものではないだろうか。
== 関連図書 ==
* Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%A3%E7%80%AC%E5%A4%A7%E7%A4%BE 廣瀬大社](最終閲覧日:25-01-19)
** 安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』[[神社新報]]社、1968年、51頁安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』神社新報社、1968年、51頁** [[白井永二]]・土岐昌訓編集『神社辞典』[[東京堂出版]]、1979年、295 白井永二・土岐昌訓編集『神社辞典』東京堂出版、1979年、295 - 296頁** [[菅田正昭]]『日本の神社を知る「事典」』[[日本文芸社]]、1989年、187 菅田正昭『日本の神社を知る「事典」』日本文芸社、1989年、187 - 189頁** 上山春平他『日本「神社」総覧』[[新人物往来社]]、1992年、224 上山春平他『日本「神社」総覧』新人物往来社、1992年、224 - 225頁
== 外部リンク ==
* {{Official website|url=http://www.hirosetaisya.com/|name=, 廣瀬大社}} - 公式ウェブサイト
* [http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/kindex2.php?J_ID=20401 広瀬坐和加宇加乃売命神社] - 國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」
== 関連項目 ==
* [[洪水神話・中国]]
* [[伊勢津彦]]:『伊勢国風土記』では櫛玉命は[[伊勢津彦]]ともされる。
* [[深淵之水夜礼花神]]:若宇加能売命と類似した神ではないか、と考える。
** [[天石門別八倉比売神社|八倉比売]]:同上。
== 脚注 ==
[[Category:神社]]
[[Category:日本神話]]
[[Category:水神]]
[[Category:風神]]
[[Category:奈良県]]
[[Category:松]]