鎌倉時代初期の寿永年間(1182年 - 1184年)に源頼朝が梶原景時を奉行として再興する。境内の近くには源頼朝の墓と伝えられている石塔がある。
要衝の地にあったため、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]以降、しばしば合戦の陣所となった{{Sfn|要衝の地にあったため、南北朝時代以降、しばしば合戦の陣所となった<ref>岡山県|, 1991|p=168}}, p168</ref>。
[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]には[[織田信長]]が[[荒木村重]]を攻めた[[有岡城の戦い]]に巻き込まれ、多くの堂塔が焼失している。[[文禄]]3年([[1594年]])には[[豊臣秀吉]]によって寺領の大半が没収された。戦国時代には織田信長が荒木村重を攻めた有岡城の戦いに巻き込まれ、多くの堂塔が焼失している。文禄3年(1594年)には豊臣秀吉によって寺領の大半が没収された。
[[享保]]4年([[1719年]])には諸堂が再興されている。享保4年(1719年)には諸堂が再興されている。
当寺はこれまで[[真言宗御室派]]本山[[仁和寺]]の末寺であったが、[[宝暦]]13年([[1763年]])10月22日に[[延命寺 (河内長野市)|延命寺]]から院号・氷律院を贈られ、河州延命寺派の末寺となった。しかし、[[寛政]]10年([[1798年]])6月に再び仁和寺末寺となる。当寺はこれまで真言宗御室派本山仁和寺の末寺であったが、宝暦13年(1763年)10月22日に延命寺から院号・氷律院を贈られ、河州延命寺派の末寺となった。しかし、寛政10年(1798年)6月に再び仁和寺末寺となる。
[[太平洋戦争]]中の[[1942年]]([[昭和]]17年)11月、[[金属類回収令]]により梵鐘が供出された。太平洋戦争中の1942年(昭和17年)11月、金属類回収令により梵鐘が供出された。
当初の寺領は淳和天皇より150町歩の寄進があり合わせて250町歩となったが、変遷を経て現在は境内地の20町歩となった。山号は「武庫山」([[六甲山]]のこと)であったが、光玄大和尚が現在の「甲山」に変更している。