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== 名称 ==
[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[俚族|俚人]]や僚三国時代の俚人や僚(獠)人が祖先ではないかとされる。[[宋 (王朝)|宋]]代以来、主に撞、僮、{{lang|zh|獞}}などと呼ばれたが、漢字の獠・獞は[[けものへん]]を含む蔑称である。中華人民共和国成立後は僮族に統一されたが、僮には「わらべ」、「しもべ」など、これも差別的な意味があるため、[[1965年]]に壮族人が祖先ではないかとされる。宋代以来、主に撞、僮、獞などと呼ばれたが、漢字の獠・獞はけものへんを含む蔑称である。中華人民共和国成立後は僮族に統一されたが、僮には「わらべ」、「しもべ」など、これも差別的な意味があるため、1965年に壮族(Zhuàngzú)と改称された。日本では漢字のままで「壮族(そうぞく)」ということもあるが、一般的には漢字を使わず、「壮」の中国語読みの「チュワン」から「チワン族」と呼ぶ。自称に近い音でいえば「シューン族」となる。
== 歴史 ==
[[嶺南 嶺南地区(ほぼ現在の広東・広西)の原住民族として長い歴史を有する。数万年前の頃から、チワン族の祖先たちはすでに中国の南方で生活していた。周代(中国春秋戦国)|嶺南地区]](ほぼ現在の広東・広西)の原住民族として長い歴史を有する。数万年前の頃から、チワン族の祖先たちはすでに中国の南方で生活していた。[[周]]代([[春秋時代|春秋]][[戦国時代 (中国)|戦国]])の頃は[[百越]]と呼ばれる諸民族の一派で、[[駱越]]、[[西甌]]などの国家を築いた。[[漢]]代に[[南越国]]の支配下に入り[[中華]]文明の一部となったが、[[隋]]代までは、[[部落制]]社会が続いたの頃は百越と呼ばれる諸民族の一派で、駱越、西甌などの国家を築いた。漢代に南越国の支配下に入り中華文明の一部となったが、隋代までは、部落制社会が続いた<ref>黄現璠、張一民、黄増慶、『[[チワン族通史]]』pp183黄現璠、張一民、黄増慶、『チワン族通史』pp183-191(秦漢時代のチワン族社会的性質)、1988年、広西民族出版社、南寧、ISBN 7-5363-0422-6/K・13</ref>。[[唐]]代に[[封建制度]]社会に移行し、[[明]]代には少数民族首長の世襲支配を認める[[土司]]制度が行われた。勇猛なチワン族の兵士は「俍兵」。唐代に封建制度社会に移行し、明代には少数民族首長の世襲支配を認める土司制度が行われた。勇猛なチワン族の兵士は「俍兵」(「狼兵」)と呼ばれ、瓦氏夫人に率いられた田州俍兵が[[倭寇]]鎮圧に動員されたこともある。[[清]]代になって[[改土帰流]]が行われ、直接支配地域になった。[[漢民族]]との接触の歴史が長く、経済活動の必要性から、[[漢語]]も広く浸透した。と呼ばれ、瓦氏夫人に率いられた田州俍兵が倭寇鎮圧に動員されたこともある。清代になって改土帰流が行われ、直接支配地域になった。漢民族との接触の歴史が長く、経済活動の必要性から、漢語も広く浸透した。
近代には[[1850年]]に[[太平天国の乱]]が広西の金田村で始まったため、チワン族も多数参加した。[[1929年]]から[[1932年]]にかけて[[鄧小平]]が広西で指導した右江革命根拠地にも多くが参加し、中国では革命的伝統が称えられる。日中戦争時には日本軍との戦いに参加する者もいた。

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