嶺南地区(ほぼ現在の広東・広西)の原住民族として長い歴史を有する。数万年前の頃から、チワン族の祖先たちはすでに中国の南方で生活していた。周代(春秋戦国)の頃は百越と呼ばれる諸民族の一派で、駱越、西甌などの国家を築いた。漢代に南越国の支配下に入り中華文明の一部となったが、隋代までは、部落制社会が続いた<ref>黄現璠、張一民、黄増慶、『チワン族通史』pp183-191(秦漢時代のチワン族社会的性質)、1988年、広西民族出版社、南寧、ISBN 7-5363-0422-6/K・13</ref>。唐代に封建制度社会に移行し、明代には少数民族首長の世襲支配を認める土司制度が行われた。勇猛なチワン族の兵士は「俍兵」(「狼兵」)と呼ばれ、瓦氏夫人に率いられた田州俍兵が倭寇鎮圧に動員されたこともある。清代になって改土帰流が行われ、直接支配地域になった。漢民族との接触の歴史が長く、経済活動の必要性から、漢語も広く浸透した。
近代には[[1850年]]に[[太平天国の乱]]が広西の金田村で始まったため、チワン族も多数参加した。[[1929年]]から[[1932年]]にかけて[[鄧小平]]が広西で指導した右江革命根拠地にも多くが参加し、中国では革命的伝統が称えられる。日中戦争時には日本軍との戦いに参加する者もいた。近代には1850年に太平天国の乱が広西の金田村で始まったため、チワン族も多数参加した。1929年から1932年にかけて鄧小平が広西で指導した右江革命根拠地にも多くが参加し、中国では革命的伝統が称えられる。日中戦争時には日本軍との戦いに参加する者もいた。
== 民族自治区域 ==
[[1952年]]12月、[[広西省]]西半分に[[桂西チワン族自治区]]が成立し、[[1956年]]自治州に改められた。[[1958年]]には、中国の少数民族としては、[[モンゴル族]]、[[チベット族]]、[[ウイグル族]]、[[回族]]と並び、「省」と同格の民族自治区「広西チワン族自治区」が設けられ、広西省全域に拡大して、今日の[[広西チワン族自治区]]となった。1952年12月、広西省西半分に桂西チワン族自治区が成立し、1956年自治州に改められた。1958年には、中国の少数民族としては、モンゴル族、チベット族、ウイグル族、回族と並び、「省」と同格の民族自治区「広西チワン族自治区」が設けられ、広西省全域に拡大して、今日の広西チワン族自治区となった。
== 人口と分布 ==
== 下位集団 ==
チワン族は言葉の[[方言]]差も大きく、プーヨイ(布越伊)、プーノン(布儂)、プーノン(布土)、カンヤン(講央)などの異なる自称を持つ下位集団が20余りあるが、中国共産党の民族識別工作の下で、チワン族にまとめられている。
== 宗教 ==