=== 出雲大神の祟り ===
誉津別皇子は父天皇に大変寵愛されたが、長じてひげが胸先に達しても言葉を発することがなく、特に『[[日本書紀]]』では赤子のように泣いてばかりであったという。誉津別皇子は父天皇に大変寵愛されたが、長じてひげが胸先に達しても言葉を発することがなく、特に『日本書紀』では'''赤子のように泣いてばかり'''であったという。
『日本書紀』によると皇子はある日、鵠(くぐい、今の[[ハクチョウ|白鳥]])が渡るさまを見て「是何物ぞ」と初めて言葉を発した。天皇は喜び、その鵠を捕まえることを命じる。[[天湯河板挙]](鳥取造の祖)が[[出雲国|出雲]](一書に[[但馬国|但馬]])で捕まえて献上し、鵠を遊び相手にすると、誉津別命は言葉を発するようになった。ここに鳥取部・鳥飼部・誉津部を設けたとある。『日本書紀』によると皇子はある日、'''鵠'''(くぐい、今の白鳥)が渡るさまを見て「是何物ぞ」と初めて言葉を発した。天皇は喜び、その鵠を捕まえることを命じる。天湯河板挙(鳥取造の祖)<ref>これは「'''天の川の母'''」という意味では?</ref>が出雲(一書に但馬)で捕まえて献上し、鵠を遊び相手にすると、誉津別命は言葉を発するようになった。ここに鳥取部・鳥飼部・誉津部を設けたとある<ref>誉津別命は'''鵠'''の子である、という暗喩か。</ref>。
『[[古事記]]』では、誉津別皇子についてより詳しい伝承が述べられている。天皇は尾張の国の二股に分かれた杉で二股船を作り、それを運んできて、市師池・軽池に浮かべて、皇子とともに戯れた。あるとき皇子は天を往く鵠を見て何かを言おうとしたので、天皇はそれを見て鵠を捕らえるように命じた。鵠は[[紀伊国|紀伊]]・[[播磨国|播磨]]・[[因幡国|因幡]]・[[丹波国|丹波]]・但馬・[[近江国|近江]]・[[美濃国|美濃]]・[[尾張国|尾張]]・[[信濃国|信濃]]・[[越国|越]]を飛んだ末に捕らえられた。しかし皇子は鵠を得てもまだ物言わなかった。ある晩、天皇の[[夢]]に何者かが現れて「我が宮を天皇の宮のごとく造り直したなら、皇子はしゃべれるようになるだろう」と述べた。そこで天皇は[[太占]]で夢に現れたのが何者であるか占わせると、言語(物言わぬ)は出雲大神の[[祟り]]とわかった。天皇は皇子を[[曙立王]]・[[菟上王]]とともに出雲(現:[[島根県]]東部)に遣わして大神を拝させた。出雲から帰る際、[[斐伊川|肥川]]に橋を渡し、仮宮を造営して滞在していると、そこに[[出雲国造]]の祖先である[[岐比佐都美]]が青葉の木を飾り立てて川下に立て、食事を献上しようとした。その時、皇子が「この川下に青葉の山のように見えるものは、山の様で山ではない。もしかすると、出雲の石硐の曽宮に坐す、[[大国主|葦原色許男大神]]を仕え奉る祭場ではないだろうか」と問うた。皇子が話せるようになったことを御供の王たちは喜び、皇子を檳榔の長穂宮に移すと、早馬を走らせて天皇に報告した。天皇はこれを喜び、菟上王を出雲に返して[[出雲大社|大神の宮]]を造らせた。また鳥取部・鳥甘部・品遅部・大湯坐・若湯坐を設けたという。