元は「しなぬ」であったが、のちに訓が「しなの」に変わり、さらに「科野」の字が当てられた。『古事記』には、[[大国主神]]の子[[建御名方神]]が諏訪に入国する際に、「'''科野国'''の洲羽海」に至ると記される。『日本書紀』には、欽明天皇14年(553年)に百済が朝廷に遣じた使者として上部徳率'''科野'''次酒<ref>『日本書紀』巻19欽明天皇14年(553)正月乙亥12</ref>、上部奈率'''科野'''新羅<ref>『日本書紀』巻19欽明天皇14年(553)8月丁西7</ref> の名があり、正史における「科野」の初見は6世紀の半ばである。
神代、[[出雲の国譲り]]に反対していた[[大国主神]]の長男[[建御名方神]]が大和方の[[建御雷神]]と[[相撲]]をとって敗れ、助命されて科野国諏訪郡に住まわされたと伝わる。その地には[[諏訪神社]]が建立され、信濃国[[一の宮]]の格式を誇り武芸と開拓の神として尊崇を集めた。と相撲をとって敗れ、助命されて科野国諏訪郡に住まわされたと伝わる。その地には諏訪神社が建立され、信濃国一の宮の格式を誇り武芸と開拓の神として尊崇を集めた。
[[古墳時代]]の[[前方後方墳]]は、[[弘法山古墳]]([[松本市]])や[[姫塚古墳]]([[長野市]])、古墳時代の前方後方墳は、弘法山古墳(松本市)や姫塚古墳(長野市)、[[瀧の峯古墳群]]([[佐久市]])など長野県内各所で発見されており、時期については概ね古墳時代前期([[4世紀]]始めから中葉)のほぼ同時期とされている。その後[[前方後円墳]]が県内各所に築造され、特に長野市南部から千曲市北部にかけての一帯には、[[(佐久市)など長野県内各所で発見されており、時期については概ね古墳時代前期(4世紀始めから中葉)のほぼ同時期とされている。その後前方後円墳が県内各所に築造され、特に長野市南部から千曲市北部にかけての一帯には、'''森将軍塚古墳]]や[[川柳将軍塚古墳]]、[[倉科将軍塚古墳]]など県内最大級の前方後円墳が集中している。古墳時代後期には高井郡を中心に[[高句麗]]式の積石墳が多数分布する。'''や川柳将軍塚古墳、倉科将軍塚古墳など県内最大級の前方後円墳が集中している。古墳時代後期には高井郡を中心に'''高句麗式の積石墳'''が多数分布する。
[[弥生時代]]から[[古墳時代]]にかけての科野は、更級・埴科を中心とした[[千曲川]]流域であり、県内最大の[[前方後円墳]]で科野の大王の墳墓と目されている[[森将軍塚古墳]]を筆頭とした[[埴科古墳群]]が残されている現在の[[千曲市]](旧[[更埴市]])から[[川柳将軍塚古墳]]のある[[長野市]]南部(旧[[更級郡]])にかけての一帯が中心(科野国造)であったとされる<ref>[[福島正樹]]「信濃国のなり立ち」 ([[古川貞雄]]・福島正樹・[[井原今朝男]]・[[青木歳幸]]・[[小平千文]]『長野県の歴史』山川出版社、 2003年) 43ページ</ref>。系図には六世紀に[[金刺麻背|麻背]]が科野国造に復したと見え、この任命記事は国造本拠地の移動と考えられ、前方後円墳の中心地が[[長野盆地]](善光寺平)から飯田盆地へ移ったことと軌を一にしている<ref>「第三節 諏訪の金刺氏 第七章 諏訪神社の古態」『諏訪市史』上巻、1995年、704頁。</ref>。