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サイズ変更なし 、 2022年9月13日 (火) 07:23
一方、陶寺遺跡と同時期の[[石峁遺跡]]からは建築物の基礎の安寧を求める人柱として多くの人身御供が捧げられており、これは「前[[饕餮]]」ともいうべき城塞の神に捧げられたものと思われる。陶寺で発見された人身御供も宮殿の基礎の安寧を求めるものと思われ、大規模建築物そのものが神格化され、生贄を捧げる存在である、とされた思想が規模からいって、[[石峁遺跡]]から陶寺遺跡にも伝播した、というべきではないだろうか。しかし、主に黄河流域で発生し発展したと思われる「前から陶寺遺跡にも伝播した、というべきではないだろうか。しかし、主に良渚文化で発生し発展したと思われる「前[[饕餮]]紋」は「首のみ」の存在で、かつ「王権の象徴」のように見えるが、[[石峁遺跡]]に現れた「前[[饕餮]]紋」は男性原理を強調しつつ、蛇神とも強力に習合しているように見える。これは父系社会への社会構造の変化を示すと共に、「前[[饕餮]]紋」が「生贄を求める川の神(竜蛇神)」とも習合し、自ら生贄を求めるようになったものではないか、と考える。「川の神(竜蛇神)」であれば、治水の安寧や豊穣を求める対象であったのみであろうが、「前[[饕餮]]紋」と習合したことで、大規模建築物の神として、'''技術や建築物構造の安寧も求められる対象となった'''、すなわち、そのために生贄を捧げる対象ともなったものと思われる。古代の土木建築技術は治水技術とも大いに関連するため、そこから発展した神であるかもしれない。
[[饕餮]]は[[炎帝神農|炎帝]]の子孫である蚩尤が死んで変化した神とも言われており、[[炎帝神農|炎帝]]の一族には共工という治水の神も存在する。[[炎帝神農|炎帝]]が穀類の栽培を始めとした農業を司る神であって、食物を供給する神でもあったのであれば、[[河姆渡文化]]の猪神は[[炎帝神農|炎帝]]の可能性があると考える。あるいは「目」のみが強調されるのであれば、すでに[[饕餮]]と呼ばれる存在となっていた可能性もあるように思う。ということは、動植物神である「龍紋盤」の龍も[[饕餮]]の一形態であり、[[石峁遺跡]]の「前[[饕餮]]紋」と「'''同じ神'''」であり、かつ[[炎帝神農|炎帝]]信仰の流れを組む神であり、この神がどのような形態、性質を持とうと、「人身御供を求める神」であるが故に、植物の豊穣にも、大規模建築物の豊穣にも人身御供を求めており、その姿や求める態様が場所や時代によって異なる、ということなのだと考える。

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