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考古学者は灰坑の年代について、出土した土器の特徴から陶寺文化初期後半であり、1号宮殿基礎の築造年代と同時期だと判断した。同遺構が1号宮殿基礎とわずか1・2~1・5メートルしか離れていないことから、灰坑が宮殿建設に関係しており、基礎の定礎時の祭祀坑だった可能性が高いとの見方も示した<ref>陶寺遺跡で祭祀坑らしき遺構を発見 山西省臨汾市、AFP BB News、22-08-17 11:23(最終閲覧日:22-09-13)</ref>。
 
== 私的考察 ==
龍紋盤の龍の下は「穀物の穂」状となっており、この架空の動物神が単に動物を示すのみならず、植物、特に重要な作物である穀類を神格化したものであることが示唆される。同様に動物と植物を組み合わせた「動植物神」とも言うべき合成神獣としては[[河姆渡文化]]の猪紋黒陶鉢の猪紋がある。これは猪の体に植物の紋様と「目」のような紋様が描かれた図である。「猪竜」という言葉があるように猪は蛇と並んで「龍」の起源として重要な動物である。龍紋盤の龍神は「'''動物と植物を組み合わせて、穀物の豊穣を与える神とした'''」という長江文明特に河姆渡文明の思想が黄河流域に伝播して形成されたものではないだろうか。
 
また、黄河の「河伯」とは竜の形態でも現されるので、龍紋盤の龍は黄河の河伯、すなわち、後の時代に「花嫁」と称して若い娘の生贄を求めた神と思われる。とすると、[[河姆渡文化]]の猪神も「川の神」であって、この場合は揚子江の神とされたであろうが、豊穣と引き換えに何らかの生贄を求めた可能性がある。[[河姆渡文化]]では直接の人身御供は発見されていないが、人頭をかたどった土器が出土している、とのことで、人間の代替として土器を神に捧げた可能性はあるのではないかと思う。長江流域の[[大渓文化]]では作物の豊穣を求めて人間や動物の生贄を捧げていたと思われ、これも長江の神である動植物神に捧げられたものではないだろうか。
 
 
一方、陶寺遺跡と同時期の[[石峁遺跡]]からは建築物の基礎の安寧を求める人柱として多くの人身御供が捧げられており、これは「前[[饕餮]]」ともいうべき城塞の神に捧げられたものと思われる。陶寺で発見された人身御供も宮殿の基礎の安寧を求めるものと思われ、大規模建築物そのものが神格化され、生贄を捧げる存在である、とされた思想が規模からいって、[[石峁遺跡]]から陶寺遺跡にも伝播した、というべきではないだろうか。しかし、主に黄河流域で発生し発展したと思われる「前[[饕餮]]紋」は「首のみ」の存在で、かつ「王権の象徴」のように見えるが、[[石峁遺跡]]に現れた「前[[饕餮]]紋」は男性原理を強調しつつ、蛇神とも強力に習合しているように見える。これは父系社会への社会構造の変化を示すと共に、「前[[饕餮]]紋」が「生贄を求める川の神(竜蛇神)」とも習合し、自ら生贄を求めるようになったものではないか、と考える。「川の神(竜蛇神)」であれば、治水の安寧や豊穣を求める対象であったのみであろうが、「前[[饕餮]]紋」と習合したことで、大規模建築物の神として、'''技術や建築物構造の安寧も求められる対象となった'''、すなわち、そのために生贄を捧げる対象ともなったものと思われる。古代の土木建築技術は治水技術とも大いに関連するため、そこから発展した神であるかもしれない。
 
[[饕餮]]は[[炎帝神農|炎帝]]の子孫である蚩尤が死んで変化した神とも言われており、[[炎帝神農|炎帝]]の一族には共工という治水の神も存在する。[[炎帝神農|炎帝]]が穀類の栽培を始めとした農業を司る神であって、食物を供給する神でもあったのであれば、[[河姆渡文化]]の猪神は[[炎帝神農|炎帝]]の可能性があると考える。あるいは「目」のみが強調されるのであれば、すでに[[饕餮]]と呼ばれる存在となっていた可能性もあるように思う。ということは、動植物神である「龍紋盤」の龍も[[饕餮]]の一形態であり、[[石峁遺跡]]の「前[[饕餮]]紋」と「'''同じ神'''」であり、かつ[[炎帝神農|炎帝]]信仰の流れを組む神であり、この神がどのような形態、性質を持とうと、「人身御供を求める神」であるが故に、植物の豊穣にも、大規模建築物の豊穣にも人身御供を求めており、その姿や求める態様が場所や時代によって異なる、ということなのだと考える。
 
 
そして、その思想が後の殷代に、国家の安寧を求めて大規模な生贄を捧げる風習へと移行していったのではないだろうか。神が[[炎帝神農|炎帝]]信仰の流れを組む神でありさえすれば、まずは何に対しても生贄を求める神と考えられるようになったのだと推察する。また、この神に対する生贄の風習には「占い」ということが大きく関わっており、祭祀の是非を占いに求めることが大きくなっていっているように感じる。要は「占術」が社会的に発展すればするほど、人身御供を求められる機会が多い社会に古代中国は変化していったのではないだろうか。
 
 
大規模建築物(建物、治水等)に対して人身御供を捧げる習慣は、木工技術の神である須佐之男の伝播と共に古代日本に到来し、近世に至るまで城や橋などの重要建築物を建設する際には人柱を立てる風習として残されていたように思う。それは須佐之男が川の「植物と習合した竜神」であり、大規模建築物の神そのもの、すなわち古代中国における[[炎帝神農|炎帝]]が変遷したものであったからであると考える。
== 参考文献 ==
* [[石峁遺跡]]
* [[河姆渡文化]]
* [[人柱]]
== 参照 ==

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