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* 日出城の人柱
:: 1601年(慶長6年)から1602年(慶長7年)にかけての築城の際に入れられた人柱の伝説が残る。1960年(昭和35年)、城下海岸遊歩道の工事中、城の西南端から木棺が発掘された。木棺は岩盤をくり抜いた穴の中に納められ、その上に大石が載せらて石垣の基礎となっていた。棺の中からは老武士らしき人骨とともに陶製の翁像が、大石の上からは兜の金具などが発見された。大分大学教授らの調査の結果、日出城築城当時の人骨であることが推定された。築城工事は城の西南部の地盤が弱く難工事であったと伝えられており、城の裏鬼門にあたる方角に位置するため、人柱を立てたのではないかと考えられている。棺が出土した地点の石上には「人柱祠(ひとばしらのほこら)」が祀られている<ref>日出町教育委員会「人柱祠」案内板</ref>。
* 常紋トンネルの人柱
:: 難工事の末、1914年(大正3年)に開通した常紋トンネルは、1968年(昭和43年)の十勝沖地震で壁面が損傷したが、1970年(昭和45年)に改修工事が行われた際、立ったままの姿勢の人骨が壁から発見され、出入口付近からも大量の人骨が発見された。撲殺されたタコ労働者(略称:タコ)の遺体が埋められたことについて、当時のタコやその他関係者たちの証言もあったが、特殊な状況を示す遺骨群の発見によって、かねてより流布されてきた怖ろしげな噂のうち人柱の件は事実であったことが証明された<ref>山北尚志ほか, 北海道の歴史散歩, 歴史散歩(1), 北海道高等学校日本史教育研究会, 2006-12-10, 山川出版社, ISBN:4-634-24601-5, page207</ref>。
==== 人柱の代替 ====
::江戸城研究家たちの間では、人柱とするには余りにも粗末に扱われていることや、伏見櫓を解体修理した結果伏見からの移築物ではないことが明らかであることが分かっているため、人柱説には否定的である。徳川家康の慶長期築城以前に、城内にあった寺院の墓地の人骨であろうとされており、『落穂集』などの史料には、慶長期築城以前には、複数の寺院が城内にあり、慶長期築城の時に全て移転させられたことが明確だからである(鈴木理生・黒田涼・井上宗和らの説)。
::一説には、皇居と深い関わりにあった黒板勝美は宮内省から調査依頼を受け、実地見聞を1時間半程度行っただけで人柱否定説を打ち出してそのまま公的調査は終了したといい、その後、中央史壇などで供犠の話題で特集が組まれた。喜田貞吉は黒板の発言の矛盾を指摘し、批判するとともに、人柱の文化的な意味について考察を広げようとしていた。1934年(昭和9年)には坂下門近くでも5人の人骨と古銭が発見されている。なお、見つかった遺骨は震災の混乱の中、芝・増上寺で手厚く供養されたという。
 
* {{Anchors|常紋トンネルの人柱}}[[常紋トンネル]]の人柱
:: 難工事の末、[[1914年]](大正3年)に開通した常紋トンネルは、[[1968年]](昭和43年)の[[十勝沖地震 (1968年)|十勝沖地震]]で壁面が損傷したが、[[1970年]](昭和45年)に改修工事が行われた際、立ったままの姿勢の人骨が壁から発見され、出入口付近からも大量の人骨が発見された。撲殺された[[タコ部屋労働|タコ労働者]](略称:タコ)の遺体が埋められたことについて、当時のタコやその他関係者たちの証言もあったが、特殊な状況を示す遺骨群の発見によって、かねてより流布されてきた怖ろしげな[[噂]]のうち人柱の件は事実であったことが証明された<ref>{{Cite book |和書 |author=山北尚志ほか|title=北海道の歴史散歩|series=歴史散歩(1) |editor=北海道高等学校日本史教育研究会 |date=2006-12-10 |publisher=山川出版社 |ISBN=4-634-24601-5 |ref=harv |page=207}}</ref>。
=== 伝説の域にある人柱 ===

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