周初に梁山地域に封じられた燕侯=匽侯旨が伝説化されたのが偃王物語の徐偃王である<ref name="奥田尚61-62">奥田尚, 徐の偃王物語と夫余の東明王物語, アジア文化学科年報 2, 追手門学院大学文学部アジア文化学科, 1999-11-01, p61-62</ref>。燕侯旨が燕国南部の易州に移封されると、旨の伝説的投影像である徐偃王物語も燕国]に広まる<ref name="奥田尚62"/>。さらに燕国が遼西から遼東へと支配を広げるに従い、徐偃王物語の伝達範囲も広がる<ref name="奥田尚62">奥田尚, 徐の偃王物語と夫余の東明王物語, アジア文化学科年報 2, 追手門学院大学文学部アジア文化学科, 1999-11-01, p62</ref>。
徐偃王物語は「[[卵生神話|卵生説話]]」であるが、[[三品彰英]]によりその分布や意味が検討されており、「[[卵生神話|卵生説話]]」は[[インドネシア]]を中心に、中国沿岸部から[[朝鮮半島]]、[[北東アジア]]に分布し、中国沿岸部は[[東夷]]と南方系住民が境を接して居住、この地域一帯に「卵生神話」などの海洋民族文化が流布していた徐偃王物語は「卵生説話」であるが、三品彰英によりその分布や意味が検討されており、「卵生説話」はインドネシアを中心に、中国沿岸部から朝鮮半島、北東アジアに分布し、中国沿岸部は東夷と南方系住民が境を接して居住、この地域一帯に「卵生神話」などの海洋民族文化が流布していた<ref name="奥田尚58-59"/>。それが[[春秋戦国時代]]から[[漢民族|漢人]]が東進してきたため、東夷は北へ、南方系は南へ押し分けられた。それが春秋戦国時代から漢人が東進してきたため、東夷は北へ、南方系は南へ押し分けられた<ref name="奥田尚58-59">{{Cite book|和書|author=[[奥田尚]]|title=, 徐の偃王物語と夫余の東明王物語|series=, アジア文化学科年報 2|publisher=[[, 追手門学院大学文学部アジア文化学科]]|date=, 1999-11-01|page=58, p58-59}}</ref>。また[[殷]]は[[東夷]]といわれ、「卵生神話」はこの地域に存在した可能性もある。また殷は東夷といわれ、「卵生神話」はこの地域に存在した可能性もある<ref name="奥田尚61-62"/>。
[[林泰輔]]は、[[朝鮮]]の「[[卵生神話|卵生説話]]」([[赫居世居西干]]、[[東明聖王|鄒牟王]]、[[首露王]]、[[朝鮮の君主一覧#伽耶|五伽耶王]]、[[脱解尼師今]])と『[[賢愚経]]』『[[法苑珠林]]』『[[新唐書]]』『[[大越史記全書]]』『[[山海経]]』『[[大明一統志]]』『{{仮リンク|博物志|zh|博物志 (張華)}}』『[[後漢書]]』などにみられる[[インド]]古代伝説との類似性、および『[[三国遺事]]』に抄録された『{{仮リンク|駕洛国記|ko|가락국기}}』に記される[[伽耶#加羅諸国|金官加羅国]]の始祖[[首露王]]の夫人の[[許黄玉]]が[[天竺]]阿踰陀国の王女であることを根拠にして、「古代に[[インド|インド人]]が[[マラッカ海峡|馬剌加海峡]]を渡って東方に交通し、ついに朝鮮半島の南岸に[[伽耶|加羅国]]を開いた」と述べ、[[伽耶|加羅]]は[[インド|インド人]]が切り開いたと指摘しており<ref>{{Cite book|和書|author=[[林泰輔]]|date=1927|title=加羅の起源続考|series=支那上代之研究|publisher=[[光風館書店]]}}</ref>、関連して、[[林泰輔]]は、[[張華]]が著した『{{仮リンク|博物志|zh|博物志 (張華)}}』にみられる徐偃王の[[卵生神話|卵生説話]]におけるインド古代伝説との類似性から、中国もまたインドから流れてきたものと指摘している<ref name="李萬烈">{{Cite news|author=[[李萬烈]]|date=2005-06|title=近現代韓日関係研究史―日本人の韓国史研究を中心に―|publisher=[[日韓歴史共同研究]]|newspaper=日韓歴史共同研究報告書(第1期)|url=http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/3/12-0k_lmy_j.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150908121743/http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/3/12-0k_lmy_j.pdf|format=PDF|archivedate=2015-09-08|page=228-229}}</ref>。