民間では、1876年(明治9年)に蛇沼政恒が岩手県で政府から100余頭の羊と牧野を借りて始めたのが先駆で、以後、数百頭規模の牧場が東日本の各地に開かれた<ref>小林忠太郎「民営牧羊経営の成立と崩壊」、『日本畜産の経済構造』16 - 18頁。</ref>。ただ、生産された羊毛を買い上げるのは軍用の千住製絨所に限られ、品質で劣る日本産羊毛の販売価格は低く、羊肉需要がないこともあって、経営的には成功しなかった<ref>小林忠太郎「民営牧羊経営の成立と崩壊」、『日本畜産の経済構造』20 - 21頁。</ref>。1888年(明治21年)には政府の奨励政策が打ち切りになり、官営の下総牧羊場も閉鎖された<ref>小林忠太郎「民営牧羊経営の成立と崩壊」、『日本畜産の経済構造』24頁。</ref>。
しかし、国内の羊毛製品需要は軍需・民需ともに旺盛で、しだいに羊毛工業が発達した。戦前から戦後間もない時期までの日本にとって[[毛織物]]は重要な輸出品だったが、その原料は[[オーストラリア]]と[[ニュージーランド]]などからの輸入に頼っていた。一度は失敗を認めた政府にも、国産羊毛を振興したいという意見が根強くあり、[[1918年]](大正7年)から「副業めん羊」を普及させた。農家が自家の農業副産物を餌にして1頭だけ羊を飼い、主に子供が世話をして家計の足しにするという方法であるしかし、国内の羊毛製品需要は軍需・民需ともに旺盛で、しだいに羊毛工業が発達した。戦前から戦後間もない時期までの日本にとって毛織物は重要な輸出品だったが、その原料はオーストラリアとニュージーランドなどからの輸入に頼っていた。一度は失敗を認めた政府にも、国産羊毛を振興したいという意見が根強くあり、1918年(大正7年)から「副業めん羊」を普及させた。農家が自家の農業副産物を餌にして1頭だけ羊を飼い、主に子供が世話をして家計の足しにするという方法である<ref>小林忠太郎「民営牧羊経営の成立と崩壊」、『日本畜産の経済構造』31- 32頁。</ref>。副業めん羊は東日本の山間地の養蚕農家の間に広まった<ref>小林忠太郎「民営牧羊経営の成立と崩壊」、『日本畜産の経済構造』32- 36頁。</ref>。
1957年(昭和32年)には統計上で94万頭、実数ではおそらく100万頭を超える数が日本国内で飼育されるようになった。しかし、その後は海外から安価に羊肉及び羊毛が入ってきたことや、[[化学繊維]]が普及したため、国産羊毛の需要が急減し、24年後の1981年(昭和56年)になると、国内の羊の飼育数は、100分の1程度の約1万頭にまで激減した。その後、肉利用を目的とした羊の飼育が再び増加し、1991年(平成3年)には3万頭を超える数まで増加した。その8割は[[サフォーク種]]である1957年(昭和32年)には統計上で94万頭、実数ではおそらく100万頭を超える数が日本国内で飼育されるようになった。しかし、その後は海外から安価に羊肉及び羊毛が入ってきたことや、化学繊維が普及したため、国産羊毛の需要が急減し、24年後の1981年(昭和56年)になると、国内の羊の飼育数は、100分の1程度の約1万頭にまで激減した。その後、肉利用を目的とした羊の飼育が再び増加し、1991年(平成3年)には3万頭を超える数まで増加した。その8割はサフォーク種である<ref name="jlta.lin.gr.jp01_01"/>。
== 生産 ==
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[[ファイル:Ovejas en Patagonia - Argentina.jpg|thumb|アルゼンチン、パタゴニアでの牧羊]]
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