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仏教の影響を色濃く受けた故に肉食があまり推奨されてこなかったことから食肉用はともかく、羊毛製品には全く需要がなかったわけではなく、貿易品としての羊の毛織物は人気は高いが高額であり、長らく一部の有力者や富裕層のみに珍重されていた。
[[江戸時代]]、[[文化 (元号)|文化]]2年([[1805年]])に[[江戸幕府]]の[[長崎奉行]]の[[成瀬正定]]が羊を輸入し、[[唐人]](中国人)の[[牧夫]]を使役して[[肥前国|肥前]][[浦上]]で飼育を試みたが、失敗。江戸時代、文化2年(1805年)に江戸幕府の長崎奉行の成瀬正定が羊を輸入し、唐人(中国人)の牧夫を使役して肥前浦上で飼育を試みたが、失敗。
幕府の[[奥詰医師]]であった[[本草学者]]の[[渋江長伯]]は行動的な学者であったらしく、幕命により蝦夷地まで薬草採集に出向いたりしていた。長伯は幕府医師だけではなく、江戸郊外にあり幕府の[[薬草]]園であった広大な[[巣鴨薬園]]の総督を兼ねていたが、文化14年([[1817年]])から薬園内で綿羊を飼育し、羊毛から[[羅紗]]織の試作を行った。巣鴨薬園はゆえに当時「綿羊屋敷」と呼ばれていた。幕府の奥詰医師であった本草学者の渋江長伯は行動的な学者であったらしく、幕命により蝦夷地まで薬草採集に出向いたりしていた。長伯は幕府医師だけではなく、江戸郊外にあり幕府の薬草園であった広大な巣鴨薬園の総督を兼ねていたが、文化14年(1817年)から薬園内で綿羊を飼育し、羊毛から羅紗織の試作を行った。巣鴨薬園はゆえに当時「綿羊屋敷」と呼ばれていた。
明治期に入ると[[お雇い外国人]]によって様々な品種のヒツジが持ち込まれたが、冷涼な気候に適したヒツジは日本の湿潤な環境に馴染まず、多くの品種は定着しなかった。日本政府は牛馬の普及を重視したが、外国人ル・ジャンドルが軍用毛布のため羊毛の自給の必要性を説き、1875年(明治8年)に[[大久保利通]]によって下総に[[宮内庁下総御料牧場|牧羊場]]が新設された。これが日本での本格的なヒツジの飼育の始まりである。明治期に入るとお雇い外国人によって様々な品種のヒツジが持ち込まれたが、冷涼な気候に適したヒツジは日本の湿潤な環境に馴染まず、多くの品種は定着しなかった。日本政府は牛馬の普及を重視したが、外国人ル・ジャンドルが軍用毛布のため羊毛の自給の必要性を説き、1875年(明治8年)に大久保利通によって下総に牧羊場が新設された。これが日本での本格的なヒツジの飼育の始まりである。
民間では、1876年(明治9年)に蛇沼政恒が岩手県で政府から100余頭の羊と牧野を借りて始めたのが先駆で、以後、数百頭規模の牧場が東日本の各地に開かれた<ref>小林忠太郎「民営牧羊経営の成立と崩壊」、『日本畜産の経済構造』16 - 18頁。</ref>。ただ、生産された羊毛を買い上げるのは軍用の千住製絨所に限られ、品質で劣る日本産羊毛の販売価格は低く、羊肉需要がないこともあって、経営的には成功しなかった<ref>小林忠太郎「民営牧羊経営の成立と崩壊」、『日本畜産の経済構造』20 - 21頁。</ref>。1888年(明治21年)には政府の奨励政策が打ち切りになり、官営の下総牧羊場も閉鎖された<ref>小林忠太郎「民営牧羊経営の成立と崩壊」、『日本畜産の経済構造』24頁。</ref>。

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