良渚文化
良渚文化(りょうしょぶんか、Liángzhǔ wénhuà、Liangzhu Culture)は、長江文明における一文化。紀元前3500年ころから紀元前2200年ころにみられた。
1936年、浙江省余杭県の良渚遺跡(良渚遗址)のいくつかの墳墓から出土した一群の石器や陶器、玉器を炭素14法に基づいて測定したところ、正に良渚美玉は5000年前の宝物だったということが分かった。良渚とその周辺地区で5200~4300年前に属する各種の遺物が大量に出土した。1959年、考古学界はこれを「良渚文化」と名付けた。現在、良渚及び瓶窰、安渓、長命鎮などの周辺地方、42平方キロメートルの国家重点文物保護区内で、135カ所の遺跡が発掘されている。浙江、江蘇、上海などの太湖流域の3万6000平方キロメートルの範囲で、500カ所余りの良渚文化遺跡が前後して発見されている[1]。崧沢文化などを継承しており、黄河文明の山東龍山文化との関連も指摘されている。柱形・錐形・三叉形など多様な玉器の他、絹なども出土している。分業や階層化が進んでいたことが、殉死者を伴う墓などからうかがえる。
宮殿とそれを取り巻く城郭都市、墓地、工房などの中国最古級の都市遺跡が出土した良渚遺跡は、初期の都市文明を伝えることが評価され、2019年に「良渚古城遺跡」の名で世界遺産に登録された。
良渚文化は細工が精巧で、内包が豊かな玉器を特徴としている[2]。
玉器について
良渚文化の玉器で興味深いのは、後の饕餮紋と思われる獣面紋と鳥神他の紋の関わりである。
提唱されている学説
近年、長江文明研究の進展により、良渚文化は夏や殷王朝に比定されている。
また、黄帝の三苗征服伝説を、黄河流域の中原に依拠した父系集団の龍山文化による三苗征服の痕跡とみなし、黄河文明と長江文明の勢力争いを描いたものとする見方もある[3]。
徐朝龍によれば[4]、良渚文化は稲作都市文明を形成していた。1000年ほどの繁栄を経て、洪水でこの文化は崩壊する。良渚文化集団の一部は北上し、黄河中流域で夏王朝を興した。やがて夏王朝は支配下にあった東夷后羿(こうげい)部族に倒される。夏王朝の遺族の一部は北西に逃れ(下記匈奴参照)、のち四川盆地に移住し、三星堆文化を築いたとする。
古人骨では、良渚文化の遺跡(3300BC-2100BC)で60%以上の高頻度で発見されている[5]。
関連項目
外部リンク
- 良渚博物院の公式サイト(中国語・英語)
- 良渚文化_百度百科
脚注
- ↑ 良渚(上) 玉器文化の宝庫、長江文明を訪ねて、丘桓興=文 劉世昭=写真、人民中国インタ-ネット版(最終閲覧日:22-12-04)
- ↑ 良渚(上) 玉器文化の宝庫、長江文明を訪ねて、丘桓興=文 劉世昭=写真、人民中国インタ-ネット版(最終閲覧日:22-12-04)
- ↑ 『図説 中国文明史1 文明への胎動』創元社、2006年
- ↑ 『長江文明の発見』1998 角川書店。また松岡正剛千夜一夜、第三百三十一夜、2001年7月9日
- ↑ Li, H., Huang, ., Mustavich, L.F. et al. Y chromosomes of prehistoric people along the Yangtze River. Hum Genet 122, 383–388 (2007). https://doi.org/10.1007/s00439-007-0407-