当麻山口神社

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当麻山口神社(たいまやまぐちじんじゃ)は、奈良県葛城市當麻(大和国葛下郡當麻村)にある神社。現在の祭神は天津彦火瓊瓊杵命、木花佐久夜比売命、大山祇命である。二上山の麓に鎮座する。

概要

二上山の麓に位置することから山の神「大山祗命」祀っていたが、平安時代の末期に天津日高日子番能邇邇芸命、木花之佐久夜毘売のご夫婦二柱を合祀した。

歴史

  • 596年(推古天皇5年)8月 - 日本書紀に記述が見える。
  • 860年(貞観2年)2月 - 日本三代実録に記述が見える。
  • 979年(天元2年) - 諏訪氏の庶流・矢島忠直が庄司として派遣され、風間氏を名乗る。
  • 1697年(元禄10年) - 諏訪社から風間大明神に改称[1]
  • 1822年(文政5年9月) - 神祇管領長吉田家により風間神社と改称。
  • 1998年(平成10年)8月1日 - 「風間神社太々神楽獅子舞」が長野市選択無形民俗文化財に選択される。

摂社など

『式内社調査報告』には、伊勢社、金刀比羅社、天村雲社、猿田彦社、天神社、三宝荒神社、伊勢社の名がある[2]

私的考察

持統天皇の時代に勅祭が行われた中で目立つのは、広瀬大忌神(水神)、竜田風神(風神)である。同時に勅使が遣わされたといっても、全てが風神であったとは限らないと考える。風間神社は古くからの「風の神」を祀る神社とされるが、諏訪大社の建御名方命が風神として祀られたのかはやや疑問に思う。ただし、奈良県にある廣瀬大社では、饒速日命櫛玉命と風神のように定義しているので、建御名方命が饒速日命あるいはその子の宇摩志麻遅命に類する神であれば、かつては風神とされていた可能性もあるように思う。

祭神に揺れがあって、地元の方にも迷う部分があると考える。祭神を飄別神とした場合には、出雲に波夜都武自和氣命(はやつむじわけのみこと)という神がいる。しかし、ごくマイナーな神であるため、風間神社の飄別神は、級長津彦命と思われる。饒速日命櫛玉命とした場合、『先代旧事本紀』に高御産巣日神は饒速日命に関して速飄神を使役しており、饒速日命伊勢津彦)と関連性が深いのは速飄神と考えられるので、逆に「関連性が薄い」のは飄別神の方で、これに伊勢津彦とは異なる風神である志那都比古神を充てる方が妥当と考えるからである。

伊勢津彦命は「伊勢から信濃の国に去った」という伝承から、神話が諏訪大社の建御名方命と類似していることが挙げられる。全国を見回して、全体的・相対的に見れば、これは物部氏と関連性が深いと思われる、諏訪大社上社の建御名方命として良いのではないだろうか。

現在の長野県長野市(信濃国水内郡)で有力な氏族は、水内郡金刺氏で、神八井耳命を祖神とする多氏の一派である。風間神社は彼らが祀った神社と考える。長野市にあるのだし、現在では聖徳太子信仰の神社でもあって、聖徳太子と縁が深いのは善光寺とも類似している。

水内郡金刺氏は「祀る神」を変える傾向があるように考える。埴科郡には祝神社などで金刺氏祖神の武五百建命を祀っているが、水内郡(主に現在の長野市)には武五百建命を祀った神社がみられない。かつて水内大社と呼ばれた可能性がある神社には、健御名方富命彦神別神が祀られ、善光寺・当信神社などで歳神(年神)が祀られ、更に時代が下ると善光寺そのものが信仰の主体になっていくように思える。善光寺周辺には諏訪系の神社が乱立している。

長野市には「尾張部」という地名があり、

朝陽(あさひ)地区の大部分は、尾張(おわり)郷に属していたと考えられる。尾張郷は、朝陽地区から古牧(こまき)地区にかけての一帯で、その名は、尾張氏の部民(支配する人民)が住んだことに由来するといわれる。尾張氏は大和国(奈良県)葛城(かつらぎ)の高尾張から出た氏族だという。北尾張部(おわりべ)の尾張神社の境内には、尾張氏の祖を祭る尾張姓霊神社がある。この地区に尾張氏の一族が住んでいたのかもしれない[3]

とある。尾張郷は平安時代には成立していたとされるが、長野市でも一等地にあるため古くから開けていた地と考える。尾張神社の祭神は日子八井命神八井耳命の子神)でこちらは多氏の祖である。愛知県犬山市は丹羽氏と呼ばれる多氏の子孫の勢力範囲だったが、大縣神社には大縣大神を祀る。この神には諸説あるが境内内摂社の姫の宮に「大荒田命の娘・玉姫命」が祀られていることから、大縣大神とは大荒田命のことと考える。この神は「丹羽氏の神」とも考えるが、葛木氏の神とも考えられる。大縣神社・国縣神社の神話は、賀茂の玉依姫の神話に類似しているため、彼らは大和国(奈良県)葛城(かつらぎ)から出た氏族と考える。葛木氏の系図には「荒田彦足尼」という名も見える。

尾張氏と婚姻して混血しているが、葛木氏の一派が高尾張近辺から、尾張氏と共に愛知県に移動して丹羽氏と名乗ったのではないだろうか。「年神信仰」は、善光寺、国縣神社、葛城御歳神社に共通する。とすれば、多氏系の氏族のうち、少なくとも丹羽氏は欠史八代の中に祖神を組み込んで、葛木氏から独立した氏族といえるのではないか。彼らが、尾張で「ほぼ尾張氏」を名乗りながら「神八井耳命」を祖神とするようになり、それが諏訪氏の移動に関連して更に水内郡に移動したのが水内郡金刺氏と考える。だから最初は神八井耳命の子孫を名乗る尾張氏(要は丹羽氏)と称していたのではないだろうか。水内郡金刺氏は、かつて斎宮を立てていた痕跡があるが、賀茂氏にも斎院を立てる習慣があった。長野県では、その習慣は善光寺の大本願へと移行しているように思う。

そこで、後に金刺氏と名乗るようになる水内郡の尾張氏(丹羽氏)が葛木氏出身であれば、葛城時代から祀っていた鍛冶に関する風神とも想像される志那都比古神を祀っていてもおかしくないと考える。

長野県の諏訪大社下社と鉢伏山周辺には犬神信仰があり、出早雄命意岐萩神が犬神に相当すると考えている。また長野県の民間伝承の犬神である早太郎は「疾風」という意味と考えられ、本来は速飄神という風神でもあったと管理人は考えている。級長津彦命が、風神であり、鍛冶(火)に関する神であれば、これは諏訪信仰では意岐萩神に相当する神と考える。「萩」という字には「」という文字が含まれており、火神の性質も示唆されるように思うからである。ただし、水内郡では意岐萩神に代わって健御名方富命彦神別神が祀られているように思う。これは「子神」という性質を強調して、風神である、というよりは須佐之男命の子神である年神に近い神として現されていると考える。古代において建御名方命に「風神」としての性質があったのであれば、「健御名方富命彦神別神」にも近い性質があったかもしれないが、想像の域を出ない。ただ、風間神社で「健御名方富命彦神別神」が祀られており、現在、善光寺の「奥の院」と言われる駒形岳駒弓神社で健御名方富命彦神別神・年神・聖徳太子がほぼ一体のように祀られていることと、風間神社の事実上の祭神が聖徳太子であることを併せて考えれば、古代において、風間神社で健御名方富命彦神別神が祀られていたとしても不思議ではないと考える。

参考文献

関連項目

外部リンク

脚注

  1. 127 風間神社 〜式内社に改名した風神〜 - 週刊長野
  2. 風間神社、玄松子(最終閲覧日:25-01-16)
  3. 尾張郷、長野市/長野市デジタルミュージアム ながの好奇心の森(最終閲覧日:25-01-18)