解慕漱
解慕漱(かいぼそ[1]、ヘモス)は、夫余の神話上の建国者。
概要[編集]
『三国史記』[2]や『三国遺事』[3]によれば、解慕漱は天帝の子であり[1]、五龍車に乗って紀元前59年に訖升骨城(医巫閭山とする意見もある。)に降り立ち、北夫余を建国した。解慕漱は弓の名手で優れた戦士であり、自らの王国である北夫余の多くの敵を征服したという。
王権起源神話であって実在した人間ではないとみられている。解慕漱は高句麗の建国を述べた中国の古記録や『好太王碑』にも現れないが、それは高句麗が夫余を征服したのちにその伝説を取り込んだためとみられる。
『桓檀古記』の記録[編集]
『桓檀古記』によると、紀元前239年、解慕漱は熊心山において兵を起し、翌年に古列加王を追い出し、北夫余を建国した[4]。解慕漱は藁離国人であるといい、『北史』の索離国、『魏略』の橐離国を指す[4]。「槀離国人」とあるから、夫余人ではなく、夫余(熊心山)に来て、夫余王を追い出し、北夫余の王となった。なお、内藤湖南は、橐離国は、松花江支流に居住していたダウール族と指摘している[5]。また、「解慕漱は密かに須臾(番朝鮮)と約束をして」とあるが、番朝鮮は箕子朝鮮の後裔であり、紀元前284年に燕に追われて医巫閭山へ逃げてきた殷である[4]
壬戌五十七年,四月八日,解慕漱降于熊心山,起兵,其先槀離國人也。癸亥五十八年,…遂棄位入山,修道登仙。於是五加共治國事六年。先是,宗室大解慕漱密與須臾約,襲據故都白岳山,稱爲天王郞,四境之內,皆爲聽命。於是封諸將,陞須臾侯箕丕爲番朝鮮王,往守上下雲障,蓋北夫餘之興始此。而高句麗乃解慕漱之生鄕也,故亦稱高句麗也。
壬戌(紀元前239年)、解慕漱は熊心山にやってきて兵を起こした。その先は槀離国人である。癸亥(紀元前238年)、…古列加王は遂いに位を棄て山に入り修道する。ここに於いて五加(五部族)は国事を共治すること六年。是れより先、宗室大解慕漱は密かに須臾(番朝鮮)と約束をして檀君の地を襲い、故都白岳山に據り、称して天王郎となる。四境の内は皆命令を聴くようになる。ここに於いて諸将を封じ、須臾侯箕丕を陞て番朝鮮王となす。往きて上下雲障を守らしむ。蓋し北夫餘の興りはこれより始まる。而して高句麗は乃ち解慕漱の生郷なり。故、亦高句麗と称す[4]。
(桓檀古記)
丙午四十五年,燕盧綰叛漢,入凶奴。其黨衛滿求亡於我,帝不許,然帝以病不能自斷,番朝鮮王箕準多失機,遂拜衛滿爲博士,劃上下雲障而封之。是歲冬,帝崩,葬于熊心山東麓,太子慕漱離立。丁未元年,番朝鮮王箕準…爲流賊所敗,亡入于海而不還。}}
丙午(解慕漱)四十五年(紀元前195年)、燕の盧綰は漢に背き匈奴に入る。その黨の衛満は我(夫余)に亡命してくることを求めた。帝は聞き入れない。然るに帝は病気であり、自ら断ることができない。番朝鮮王箕準は多く機を失い、遂に衛満を拝して博士となし、上下雲障を劃いて衛満に与えた。この歳の冬、帝は崩じた。熊心山の東麓に埋葬する。太子の慕漱離が立つ。丁未(紀元前194年)元年、番朝鮮王箕準は…流賊のために敗られ亡げて海に入り而して還えらず<ref>佃収, 1997-12-01, 倭人のルーツと渤海沿岸, 「古代史の復元」シリーズ, 星雲社, isbn:4795274975, page234
。
(桓檀古記)
家族[編集]
檀君神話との関連[編集]
夫余の建国神話に登場する天神「解慕漱(ヘモス)」と檀君神話の「桓雄(ハムス)」は漢字の当て字の違いで元々は同じ音を表しており、同名同一の神であった。雄の字を「ス」と読むのは韓訓(Wikipedia:檀君より)。
私的考察[編集]
解慕漱は弓の名手であり、黄帝型神といえる。天の神の子ともされている。
関連項目[編集]
参照[編集]
- ↑ 1.0 1.1 1.2 東明聖王, コトバンク, 世界大百科事典
- ↑
阿蘭弗遂勸王,移都於彼,國號東扶餘。其舊都有人,不知所從來,自稱天帝子解慕漱,來都焉。及解夫婁薨,金蛙嗣位。於是時,得女子於太白山南優渤水,問之,曰:「我是河伯之女,名柳花。與諸弟出遊時,有一男子,自言天帝子解慕漱,誘我於熊心山下鴨邊室中,私之。
(三国史記, 巻十三) - ↑
古記云。前漢書宣帝神爵三年壬戌四月八日。天帝降于訖升骨城〈在大遼醫州界〉乘五龍車。立都稱王。國號北扶餘。自稱名解慕漱。生子名扶婁。以解為氏焉。
(三国遺事, 巻一) - ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 佃収, 997-12-01, 倭人のルーツと渤海沿岸, 「古代史の復元」シリーズ, 星雲社, isbn:4795274975, page233
- ↑ 内藤湖南, 1919-04, 東北亜細亜諸国の開闢伝説, 民族と歴史一 - 四, 東北アジア諸国、すなわち東部蒙古より以東の各民族は、朝鮮・日本へかけて一の共通せる開国伝説をもっている。すなわち太陽もしくは何か或る物の霊気に感じて、処女が子を生み、それが国の元祖となったという説であって、時としてはその伝説が変形して、その内の一部分が失われ、もしくは他の部分が附加さるるという事があるけれども、その系統を考えると、だいたいにおいて一つの伝説の分化したものであるということを推断する事が出来る。その最も古く現れたのは、夫余国の開闢説であって、その記された書は王充の『論衡』である。『論衡』は西暦一世紀頃にできた書であるが、その吉験篇に、「北夷橐離國王侍婢有娠,王欲殺之。婢對曰。有氣大如雞子,從天而下,我故有娠。後產子,捐於豬溷中,豬以口氣噓之,不死。復徙置馬欄中,欲使馬借殺之,馬復以口氣噓之,不死。王疑以為天子,令其母收取奴畜之,名東明,令牧牛馬。東明善射,王恐奪其國也,欲殺之。東明走,南至掩水,以弓擊水,魚鱉浮為橋。東明得渡,魚鱉解散,追兵不得渡,因都王夫餘。故北夷有夫餘國焉。」とある。『三国志』の夫余伝に『魏略』を引いてあるのも、ほぼこれと同じ事で、『後漢書』の夫余伝も、文はやや異なるけれども、事は同じである。この中に橐離国とあるはダフール種族の事である。松花江に流れ込む河にノンニーという河があり、それと合流する河にタオル河がある(ノンニー河は嫩江(一名諾尼江)、タオル河は洮児江を指す)。そのタオル河附近に居住した民族がすなわちダフール種族で、すなわち橐離国である。また夫余国というのは、今日の長春辺から西北に向って存在した国で、この伝説はダフール、夫余両国に関係したものである。